2
住宅街の一角にひっそりとたたずむ事務所は、まるで隠れ家のようだった。
建物自体も白を基調としたカントリー風で、『門倉法律事務所』と書かれた看板がかかっていなければ、カフェテリアと間違えてしまいそうだ。
おしゃれなグリーンのアーチをくぐり、玄関のドアを開けると、ふわりと木の香りが鼻をくすぐった。ほのかに甘く、清々しい香りだ。
ぐるりと見渡した内装も、やはり事務所らしい堅苦しさのない、落ち着いた雰囲気だった。
壁はホワイトを基調に、ところどころレンガ柄クロスや、壁板を敷き詰めたようなダークブラウンのクロスがアクセントをそえている。
ブラックチェリーのフローリングは、ヘリンボーン張り。天井のシーリングファンライトが、室内を淡いオレンジ色に照らしている。
スチールの一本脚デザインの北欧風テーブルの上には、丸みがかった白い磁器製のミニグリーンポットに、アイビーやシュガーバインなどが色をそえる。
店内に流れるジャズの音色が、緊張でこわばった耳に優しい。
「花岡様ですね、お待ちしておりました」
受付の女性がにこやかに笑いかけてきた。
受付嬢らしい、清潔感のある美人だ。メイクは控えめだが、それがかえって彼女の美しさを際立てている。
白地に黒とピンクのチェック柄のオーバーブラウス、ネイビーのラインスカートが、爽やかで春らしい。
「すぐに弁護士が参りますので、こちらにおかけになってお待ちください」
個室に案内され、うながされるままソファーに腰かけた幸恵は、ふうっと重い息をはき出した。
弁護士に依頼するなんて敷居が高いと思っていたが、どこか親しみのある事務所の空気が、身体の緊張をゆっくりとほぐしていく。
少し余裕を取り戻した幸恵が、脳内で依頼内容をシミュレーションしていると、やがて静かに個室のドアが開いた。
「――お待たせいたしました」
入室してきたのは予想に反して、若い男だった。おそらく二十代後半――幸恵とそう変わらないだろう。
すらりとした長身を、仕立てのいいインクブルーのヘリテージスーツに包んでいる。なめらかで細めのスリーブとショルダーは、彼の長い手足を強調した作りだ。
前髪を長めに残した黒髪のスパイキーショートヘアは、切れ長な目元と相まってクールな印象を受ける。
流行を取り入れて小洒落た装いながらも、社会人としての常識と品性を備えているように見えた。
その下の顔もまた、はっと目が覚めるような、美しい顔立ちであった。
すっと通った鼻梁に、形のいい唇。白い肌には染みひとつない。
世の女性が思わず嫉妬するほどの美貌だ。整いすぎて、どこか冷え冷えとした印象を受けるほどである。こんな時でなければ幸恵だって、眼福とばかりに拝み倒していたに違いない。
だがそれよりも、先ほどから覚える妙な既視感のほうが、幸恵は気になった。
(……どこかで会ったかしら?)
こんな美しい男、一度会ったらそうそう忘れないと思うのだが。
幸恵が頭を悩ませていると、青年はふと唇をほころばせた。それだけで先ほどまでのクールな印象が払拭される。
雪解けの朝に、ずっと固いままだったつぼみがようやく花開いたような、そんな心境だ。いや、これはいささか詩的がすぎただろうか。
戸惑う幸恵に、青年は穏やかな口調で告げた。
「弁護士の和泉玲一です。――お久しぶりです、花岡さん」
「……和泉……ってまさか、レーチくん!?」
「そうだよ。中学卒業以来だね」
驚く幸恵に、玲一はおかしそうに笑いながら言った。
和泉玲一。小中学校を同じくしたクラスメイトだ。
日本人離れしたビスクドールのような顔立ちは、当時から周囲の人間を魅了するだけの魔力があった。本人の穏やかな性格も相まって、小学校入学以来、その人気は加速度的に高まった。
ようするに、子供特有の愚かさを刺激したのである。
彼を巡って女児たちはお互いを牽制しあい、時にイジメ問題にまで発展した。中には露骨に彼を優遇する女教師まで現れたほどだ。
とうぜん、男子としてはおもしろくない。「トロいから」なんて適当な理由をつけて、彼を仲間はずれにする。それを女子がとがめ、男子はますます彼をやっかみ、さらに険悪になる。悪循環である。
当時、すでに家庭環境のせいで思いっきり擦れていた幸恵は、煮え切らない態度の玲一があまり好きではなかった。
なにを言われても言い返さず、目の前で喧嘩が始まろうとも止めようとせず、ただオロオロとするばかり。抑圧された環境下で育った幸恵にとって、和泉少年は最も苦手な部類の存在だった。
それで一度、いらだちをぶつけたことがある。
『言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ。あんたにはりっぱな口がついてるでしょうが』
やつあたりもいいところだ。周囲に翻弄される玲一を、母親に蔑ろにされる自分に重ねていた。
とはいえ、幸恵と彼との接点などそれくらいであったし、向こうもほとんど覚えていないだろう。せいぜい、「そんな同級生もいたな」というていどに違いない。
だから、こうして親しげに笑いかけられるような立場ではない。むしろ幸恵にとっては、一方的に鬱憤をぶつけてしまったという後ろめたさがある。
間違っても「婚約者を妹に略奪された」なんて、みじめな姿を見られたい相手ではない。
なぜだ。ホームページにはたしかに、門倉という中年の弁護士の写真が載っていたというのに。
「では、花岡さん。お話をお伺いします」
真面目な顔をして、玲一がうながす。
どうしたものか、と逡巡しながら、幸恵は先ほど秘書の女性が置いていったコーヒーをすすった。
(……あ、おいしい)
これは豆にこだわっているな、なんてどうでもいいことを考える。――現実逃避とも言う。
玲一はすでに同級生ではなく、弁護士としての顔をしている。こうやって切り替えができるあたり、公私混同しないタイプなのだろう。彼は昔から優秀だったし、任せたらいい仕事をしてくれるかもしれない。
だが、嫌だ。知り合いに弱みを見せるのは、幸恵が最も苦手な行為だった。
迷っているのが伝わったのだろう、玲一が穏やかな口調で語りかける。
「ご心配には及びません。ここで知りえたことは、決して口外しないと誓います。弁護士には守秘義務がありますから」
彼の顔は真剣そのものだ。その力強い視線を受けて、幸恵の心臓がどきりと波打った。
意志の強そうな眼光は、かつての彼にはなかったものだ。あのころの玲一は美少女と見まごうほど中性的な容姿で、男の匂いに乏しかった。
今はどこか野性味が加わり、男性特有のしなやかな色気が感じられる。女性と勘違いされることは、もうないだろう。
幸恵がとっさに目の前の彼と、同級生の和泉玲一を結びつけられなかったのは、そういった理由からだった。
「……ちなみに、ホームページにも載ってた門倉弁護士という方は……?」
「今は多数の案件を抱えていて、時間を取るのが難しいですが、ご希望されるならできる限り対応いたしますよ」
自分のためを思うならば、別の弁護士に代えてもらったほうがいい。彼はおそらくまだ新人だし、もっと経験豊富なベテランのほうが、いい結果を出してくれるだろう。幸恵を裏切った連中を見返すためには、力のある弁護士についてもらう必要がある。幸い、幸恵は金には困っていない。
それなのに、気づけば口を開いていた。
「――いえ。あなたにお願いします、和泉先生」