18
今回を入れて3話ほど他人の視点が続きます。
その後は幸恵の視点に戻ります。
話は少し前にさかのぼる。
一本の電話を皮切りに、和也の人生は転落の一途をたどった。
「ええっ!? だめだった!?」
和也はすっとんきょうな声をあげた。
幸恵のことは任せてくれ、と言っていた姉妹の母親が、やはりだめだったと報告してきたからだ。
「悪いけど、そちらでなんとかしてくれる?」
「そんな……困りますよ、お義母さん! こちらだって大変なんです!」
「そんなのお互い様でしょう? あたしだって、あの子には苦労させられてるんだから。弁護士に訴えられてるのはあなただけじゃないのよ」
「任せてくれって言ってたじゃないですか! 母親なのに、娘のしつけもできないんですか?」
「……なんですって?」
返ってきた低い声に、しまったと口を押さえた。
明らかに言いすぎた。
「言わせてもらうけど、あたしが弁護士に目をつけられたのは、あなたのせいなのよ? あなたをかばったせいで訴えられてるんだから。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはないわ!」
「でも……それはショコラの親だから……」
「とにかく、あとはあなたがやってちょうだい。いいわね!?」
一方的に電話を切られ、和也はチッと舌打ちした。
「使えねぇな、あのババア……」
苛立って髪をかきむしる。はらはらと何本か落ちたが、今は気にする余裕もない。
和也は机の上に目をやった。
弁護士からの内容証明が、こちらを威圧している。
いっそ無視してしまいたいが、こういうものは放っておくと不利になるらしい。
「なんで俺がこんな目にあわなきゃならないんだ……」
若く美しい妻を手に入れた自分は、勝ち組だったはずだ。
こんなふうに、みじめな思いをするはずじゃなかった。若い妻を周囲に見せびらかして、羨望のまなざしを一身に受けるはずだったのに。
冷蔵庫からビールを取り出すと、不安を飲み下すように一気にあおった。
空の缶が何本も床に転がっている。
そのうちアルコールが回って、だんだんと気分が大きくなった。
「そうだ。ここを乗り越えてしまえば、あとはどうとでもなる。多少の金がなんだ。俺は勝ち組なんだ。今に、みんなが俺をうらやむ生活が待ってる。だから、これでいいんだ……」
そう思うと急に怖くなくなって、和也はようやく内容証明の封筒を開けた。
『――また休み?』
工場長が不機嫌な声になる。
「すみません。身内に不幸があって、どうしても手が離せなくて……」
『いいけどね、有給も残り少ないよ? キミ、数か月前から何度も休んでるじゃないか』
「本当に申し訳ありません」
ショコラとの交際のために、すでに何度も有給休暇を取っている。
すでにクビになる日も近いと噂されているが、本人にその自覚はない。
はあ、と工場長はあきれたため息をもらした。
『……次はないからね』
「はい、ありがとうございます。失礼します」
通話を切って、ため息ひとつ。
どうにかごまかせたようだ。
今日は弁護士に会いに行く。わざわざ平日を選んだのは、帰りにショコラの学校へ寄るためだ。
きっと精神的に疲弊するだろうから、彼女に会って癒されたい。そのくらいの褒美がないとやってられない。
ふいに携帯のバイブレーションがメールの着信を告げた。
画面を確認し、チッと舌打ちする。
「またかよ、あのババア」
姉妹の母親からのメールだった。
あれ以来、なんども送ってきては、早くどうにかしろと責めてくる。あちらにも弁護士から内容証明が送られてきたらしい。
いずれあの女が義母になるのかと思うと気が滅入る。が、ショコラを手に入れるためだ。仕方がない。
和也はなにも見なかったことにして、携帯をポケットに押しこんだ。
このうっぷんを晴らすためにも、早くショコラに会いに行こう。
(制服姿のショコラは可愛いだろうな。俺がサプライズで会いに行ったら、きっとショコも喜ぶはずだ。帰りは手をつないで、みんなに見せびらかしてやろう)
期待に思いをはせることで、不安を感じる心をどうにかやりすごした。
幸恵が雇ったという弁護士は、やたらきれいな顔をした男だった。
生真面目で、いかにも『できる男』といった風貌だ。スーツも高級そうで癪にさわる。
弁護士なんて職に就いているのだから、きっと高給取りなのだろう。一緒にいるだけでみじめな気分になってくる。
(ひょっとして、幸恵はこいつと浮気してるんじゃないのか? 俺ははめられたのか!?)
そう思いいたったとたん、頭にカッと血がのぼった。
「お前っ、幸恵と浮気してるんだろう! 俺は騙されないからな!」
怒鳴りつけると、弁護士はきょとんとした顔で見返してきた。
「私は弁護士ですが」
「そんなことはわかってる! 幸恵と共謀して、俺を訴えてきたんだろう!?」
「……失礼ですが、あなたが不倫したがために、弁護士を雇われたと聞き及んでおりますが」
「俺をはめたんだろう!? 最初から金を巻き上げるつもりで協力してたんじゃないのか!」
「あなたが不倫をしなければ、そもそも訴えられることもなかったのではないでしょうか。行動を起こしたのはあなたが先です。未来予知でもしない限り、共犯は難しいでしょう」
「それは……っ」
ぐっと言葉につまる。
理屈っぽくて嫌味な野郎だ、と反感を抱いた。
「……俺をショコラに会わせたのはあいつだ。あいつは最初から俺と妹をくっつけて、お前と一緒になろうとしてたんじゃないか? どうだ、これなら辻褄が合うだろう」
「失礼ですが、花岡様はご実家に行かれることを反対していたとお聞きしております」
そういえば、そうだった。
それ以上の反論が思いつかなくて、和也はむっつりと黙りこむ。
「……ふん。そういうことにしておいてやる」
と、負け惜しみを言うだけで精一杯だった。
弁護士は何事もなかったかのように、机の上に資料を並べていく。顔色ひとつ変えていないところが憎らしい。
「――以上を踏まえまして、花岡様の要求は、不倫による不当な婚約破棄の損害賠償請求です」
「ちょっと待て。まだ結婚してないんだから、不倫じゃないだろう。ただの浮気だ」
「法的に、婚約中は婚姻期間と同等に扱われます。今回のケースですと、プロポーズをすませ、婚約指輪も渡されておりますし、お互いのご両親にご挨拶もされておりますね。さらに、式場の予約もすませていらっしゃることからも鑑みて、じゅうぶん婚約が認められます。よって、不倫として扱われます」
「……嘘だろ……」
「正当な理由なく婚約を破棄した場合、契約に違反したとして損害賠償責任が生じます。つまり、慰謝料ですね」
「慰謝料なんて払えない……」
「そちらの収入と貯金などを照らし合わせ、相応の値段にいたします。決して法外な金額を請求するつもりはございませんので、ご安心ください」
人形のように無表情だった弁護士が、ふっと口元に微笑を浮かべる。
ほんのわずかな変化だったのに、それはなぜか凄絶な笑みに見えた。
その衝撃が、和也に唐突に悟らせた。――本当に逃げられないのだと。
頭が真っ白になった。
それからどんな話をしたかは覚えていない。
気がつけばショコラの通う学校のすぐそばまできていた。
ふらふらとした足取りで近寄って、ぼんやりと校舎を見上げる。
下校の時刻なのだろう、校門にはたくさんの生徒が集まっていた。
和也の目は、その人ごみの中から的確にショコラを見つけ出した。
(やっぱり、俺にはショコラしかいない。彼女さえいれば試練だって乗り越えられるはずなんだ)
生気を取り戻した和也が駆け寄ろうとした時、人ごみにさえぎられていた視界が一瞬開けて、その光景が飛びこんできた。
彼女の隣には、男子生徒がいた。
その男に、彼女が笑いかけている。――真っ赤な顔をして。
和也でさえ、今までに見たことのない表情だった。
そう理解したとたん、視界に緋色の幕が下りた。




