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「これは……」
メールを読むうち、玲一もまた言葉を失った。
さもありなん、と幸恵はうなずく。さぞかし気持ち悪いだろう。
「なるほど。そうか……うん、そうか。……うーん……」
「難しいですか?」
「いえ、内容や頻度を鑑みるに、ストーカー認定は可能だと思います」
「そうですか。よかった」
「しかし、比喩が多いですね……」
「ええ。ポエムなのが『解釈の自由』に引っかかる、と警察には言われました」
「ところどころ解釈の難しいところがありますね……」
玲一はかなり困惑している様子だった。
ややこしい案件で申し訳ない。
「これは、私だけでは扱えないかもしれません。ちょうど代表の門倉がおりますので、相談してもかまいませんか? もちろん、こちらの都合ですので、追加料金などはいただきません」
「あ、はい。かまいません。よろしくお願いします」
「では、少々お待ちください」
玲一が内線をかけると、数分も経たないうちにひとりの男性が現れた。
いかにも優しげな風貌の、包容力のありそうなロマンスグレーのおじさまである。
立ち姿だけで洗練された一流のプロフェッショナルの持つオーラが感じられる。
幸恵は席を立つと、深くお辞儀した。
「代表の門倉です。わざわざお越しくださってありがとうございます。本日はよろしくお願いいたします」
「花岡です。こちらこそよろしくお願いします」
「門倉さん、このメールの件なのですが……」
さっそく切り出すと、三人で膝を突き合わせて談合する。
だが、さすがの門倉もこのメールには面食らったらしい。眉を寄せ、渋い顔で考えこんでいる。
「この、『キミは俺のファム・ファタール』というのは、侮辱と解釈してよろしいのでしょうか?」
「本人がどういう意図で使っているかによりますが、おそらく『運命の女』という意味のほうで使ったのではないでしょうかねぇ」
「つまり、『ファム・ファタール』に『悪女』という意味があることは知らなかったと」
「私の予想ですがね」
「では、この『キミという赤ちゃんに、俺のハチミツを与えに行くよ。マイハニー』というのは、殺人予告ととらえてよろしいでしょうか?」
「ボツリヌス菌の存在を知らなかったのでしょうねぇ」
「なるほど。つまり、乳児にハチミツを与えると乳児ボツリヌス症になることをしらなかった、と」
「おそらく、そうでしょう」
「それでは、『いつもお前を遠くから見つめてる』というのは、ストーカーを宣言しているととらえるべきでしょうか?」
「可能性はあるけれど、証拠がなければどうしようもありませんねぇ」
「やはり現場を押さえるしかないか……」
大真面目に話し合うふたりを見守っていた幸恵は、のちに語る。
実にシュールな会話であったと。
しばらく白熱した議論が展開されたが、しゃべり疲れた門倉が「いったん休憩にしよう」と提案したことで、休息を挟むことになった。
秘書に頼んで、飲み物を淹れてもらう。
門倉がコーヒー、玲一が紅茶、幸恵は迷ったものの、今回は紅茶をいただくことにした。
(うーん、今回もいい香り)
前に飲んだコーヒーもよかったが、この紅茶も絶品だ。
「お茶にこだわりがあるんですか?」
「ええ。私はコーヒー党で、和泉くんは紅茶党ですから、それぞれがこだわりの豆や茶葉を選んでいるのですよ」
「なるほど、どうりで」
「花岡さんは紅茶がお好きですか?」
「私はどちらも好きです。しいて言えば、お茶請けに合わせて選ぶ、という感じですね」
「なるほど。食事に合わせた飲み物選びは重要ですね。かく言う私も、若いころにはコーヒーに合う最高のクッキーを探すために、ヨーロッパへ武者修行の旅に出たことがありましてねぇ」
「えっ! 本当ですか」
「花岡さん、嘘。嘘だから」
頭痛をこらえるような表情で玲一が突っ込む。
きょとんとしていると、門倉は茶目っ気たっぷりに笑った。
「まあ、武者修行は言いすぎましたが、ヨーロッパにおもむいたことは本当ですよ。あちらではコーヒーのお茶請けに、チーズなどの乳製品が喜ばれるようです」
「ああ、たしかに乳製品ってコーヒーと合いますよね。牛乳とか生クリームとか」
話してみると、門倉は柔らかな物腰ながらも、なかなか愉快なお人だった。
妙なメールで精神的に疲弊していたはずなのに、いつの間にかそれを忘れている。
これも彼のテクニックなのだろうか。だとしたら、さすがプロの手腕だ。
「しかし、この彼も、どうしてこのようなメールを送ってきたのでしょうねぇ」
「さあ……そういえばなぜでしょう? 妹に心変わりをしたのだから、いまさら私に執着する必要はないのに」
「妙な話ですねぇ」
「最初は、私が弁護士を入れたことで、あせってごますりでもしてきたのかと思ったのですが……だったら、性的なアピールまでしてくる必要はないかもしれません」
「そうですね。あのメールからは、あなたとよりを戻したいという相手の気持ちが伝わってきます」
うえぇ、と幸恵は内心舌を出す。
「ひょっとして、妹さんと破局したのではないでしょうか?」
そう言ったのは玲一だ。
「ええ? まさか、あんなにお花畑……いや、周りが見えなくなるほど盛り上がっていたのに?」
「ありえない話ではないでしょう。妹さんはまだ未成年者で、相手は三十代の成人男性です。周囲の理解もありませんし、なにかのきっかけで関係が冷めることも……」
「たしかに、その線は考えなければなりませんねぇ」
門倉も同意する。
幸恵はまだ納得いかない心地で、ううむと首をひねった。
「となると、交渉の仕方も変えなければなりません。次の談判では、少々探りを入れてみることにします」
「それがいいでしょう」
彼らが言うのなら、任せたほうがいいだろう。
そう思うと、ようやく幸恵も素直にうなずくことができた。
「――よろしくお願いします」
幸恵が事務所を去った後、門倉は出来の悪い弟子を心配するような目で、玲一を見た。
「どうやら、きちんとやっているようですね」
「はい。一切妥協はしていないつもりです」
「それを聞いて安心しました」
遠い目をしながら、門倉は口元に笑みを浮かべた。
「あの日、花岡さんの依頼を自分に任せてほしいとキミが言い出した時は、正直言って不安でした。キミは仕事に私情を挟むような人間ではありませんでしたから、よけいにね」
「……申し訳ございません」
「いいえ。どんな想いがあろうとも、仕事をきっちりこなしているのならば問題ありません。――その気持ちを封じている限りはね」
「はい」
顔を上げて、玲一はまっすぐな目を向ける。
「仕事に手を抜くことはしないと誓います。気持ちも一切、表に出しません。……私は、あの人の力になれるのならば、それだけでいいんです」
「おやおや」
目を丸くした後、門倉は実に愉快そうに、ふふふと唇の隙間から笑いをもらした。
「けなげですねぇ」
「いえ。ただの、自己満足です」
「いやいや。青春ですよ」
普段は見た目のとおり、淡々と仕事をこなすだけ。仕事仲間や依頼主に言い寄られようとも、眉ひとつ動かさず、冷静に対処する。
そんな彼の情熱的な一面を垣間見て、嬉しくなった。
彼にも、ちゃんと人間味があったじゃあないか。
「春ですねぇ」
「……そろそろ梅雨に入りますが」
「いえいえ、春ですよ」
「はあ……」
腹の底からおかしさがこみ上げてきて、門倉はそれ以上なにも言わなかった。
婚約破棄に決着をつけない限り、玲一が気持ちを表に出すことはないようです。




