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 始まりは、一通のメールだった。



「……なんだこれ」



 携帯の画面を見て、幸恵は絶句した。



『やあ、読んでくれたね。このメールを開いてくれたってことは、キミはまだ俺のことを気にしてるってことだろう? なぜなら、ふつうなら嫌いな人間からのメールなんて見ないのだから。わかってる。まだ好きなんだろう、俺のことが。自分の気持ちに正直になったほうがいい。俺も正直になるよ。お前はずるくて卑怯で、人としては最低だ。でも、なんでだろうな。それでもお前のこと、嫌いになれないよ。お前は嘘つきだ。でも、俺の気を引きたくて素直になれないこと、わかってる。だから俺も嘘つきになるよ。別れたことは嘘にした! これで俺もお前と同じ嘘つきだ。だから、弁護士からの要求は取り下げてくれ。待ってるよ』



 長々とした文章を読んで、思わず吐き気をもよおす。


 なんて目が滑る文章なのだろう。



「……ついにとち狂ったの?」



 ぼうぜんと送り主を確認する。――和也である。



「いつから、こんな大馬鹿野郎になってしまったのかしら……」



 少なくとも、自分と付き合っている時は、こんなふうではなかった。


 幸恵はメールボックスをさかのぼり、過去に和也から送られたメールをいくつか開いた。



『仕事、お疲れさま。大変だろうけど、責任ある仕事を任されているキミは、俺の自慢の彼女だよ。頑張って』


『今度の日曜日、暇だったらでかけないか? 一緒になにかうまいものでも食べに行こう。おごるよ』


『最近、なんだかやつれた? あんまむりすんなよ』



 なんてことない、ふつうのメールである。少なくとも、頭がわいている感じはしない。



「あのころは、まともな人だと思ってたんだけどな……」



 和也に押し切られる形で付き合うことになった二人だが、さすがになんの好意もない相手と交際できるほど、軽薄ではない。


 苦労しながらも必死で生きている彼を尊敬して、受け入れたのは、まぎれもなく幸恵の意思だ。


 姫野和也は、元社長だった。


 と言っても、大学時代の仲間たちと起こした小さな会社だ。


 最初はうまくいっていたが、そのうち経営が傾き、ついには倒産してしまったらしい。


 友人たちは和也に借金を押しつけ、逃亡。彼は一夜にして借金まみれとなった。


 どうにか工場に再就職した彼は、必死に働き、幸恵と出会った頃にはほとんど返済していた。


 そこで幸恵も協力し、どうにか完済して、将来のために貯蓄できるまでにいたった。


 あのころの彼は、質素倹約を絵に描いたような男だった。


 それでいて、幸恵との交際には、苦しい家計から費用を捻出してくれた。


 優しくて誠実な彼が好きだった。


 そう信じていた。


 だから、彼が困ったように、



「こんな安物の指輪でごめん。でも、結婚指輪はちゃんとしたのにするし、式も豪華なのにするから」



 と言った時には、思わず許してしまったのだった。



「式は身内だけの小さなものにしてもいい。身の丈にあった式にしよう」



 幸恵はそう提案したが、彼は首を縦には振らなかった。



「親戚づきあいがあるから、それはできないんだ。ここでわだかまりが残ると、幸恵が苦労するだろうし。これからはお互いの親戚と付き合っていかなきゃいけないんだから」



 そう言われると、そういうものかもしれない、と思ってしまう。


 幸恵は両親こそ疎遠になっているものの、親戚づきあいはかなり濃い。


 父方の祖母が古くは皇族とも縁続きになっているという、正真正銘の旧華族のご令嬢だからだ。


 その夫である祖父も、一般人でありながらそれなりに裕福な家庭で育った。


 ゆえに、『家を継ぐ』という意識の強い者が多く、付き合いもそれなりに苦労した。


 もし彼らを式に招待しなければ、なにを言われるかわからない。まして、小規模なものにしてしまったら。


 思えばこのあたりの事情も、彼が幸恵に対して劣等感を抱く原因のひとつだったかもしれない。


 けっきょく、式に費用がかかるために、婚約指輪は安物になった。それが、あの『三万円の婚約指輪』の裏事情だ。



「それでもいいと思えるほど、誠実な人だと思っていたのに……どこで間違ったのかしら」



 とはいえ、原因はわかっている。自分に見る目がないからだ。


 もともと幸恵は恋愛を敬遠していた。


 虐待を受けた人間は、人を見る目が養われないという。いわゆる、『だめんずウォーカー』というやつである。


 そして幸恵も例にもれず、それに当てはまっていたらしい。


 恋愛に自信のない人間が、いきなり借金もちの男と付き合うべきではなかった。ハードルが高すぎる。



「にしても、どうしようかしら、これ。受信拒否したいけど、今はそういうわけにはいかないしなぁ」



 理由は、証拠集めのためと、相手の動向を探るためだ。


 もしも相手が暴走して脅迫などしてきた場合、事前に危機を察知できる。


 それに、完全に連絡を絶ってしまうと、相手が逆上する可能性が高まるという。


 また、私用の連絡先で拒否した場合、今度は会社用のアドレスに送ってくることも想定される。あちらはそう簡単にアドレスを変更できないため、厄介だ。


 そんなわけで、話し合いが終わるまでは、メールアドレスの変更も着信拒否もできないのである。



「とりあえず、和泉くんに転送しておこう。有利な証拠になるかもしれないし。話し合いが進んだら、メールもやむかしら」



 そんな幸恵の期待とは裏腹に、メールは激しさを増していった。


 四六時中鳴るので、電源を落とし、もう一台新規に契約しなければならなくなったほどである。


 ついには、こんなメールまでよこすようになった。



『キミの熱いハチミツに包まれて眠りたい。獣みたいに絡み合いたい。強く締めつけるキミに杭を打ちつけるよ。これは罰だから。鳴き声を聞かせて。傷つけあったその先に、愛はあるのだから』



 これを見てしまった時には、思わず携帯を床に叩きつけて、「キモイ!」と叫んでしまった。携帯は少しひびが入った。ぜんぶ和也のせいだ。


 これはさすがにまずいと思って警察に駆けこんだが、警官の反応はいまひとつだった。



「うーん……直接的な表現がないから、これだけじゃ動けませんね……」


「でも、明らかに意図することはわかりますよね?」


「メールに『死ね』とか『殺す』とかの直接的な表現がないから、解釈の自由に引っかかってしまうんですよねぇ。メールのほかには、実害がないんでしょう? そうなると、警察としても動けないんですよ。すみませんね」


「どうしてもだめなんですか? 巡回を増やしてもらうとか」


「規則なんです、ごめんなさいね」



 どうやら、メールの内容があくまでポエム調であることが、足を引っ張っているらしい。


 それならば、弁護士を入れるしかない。専門家からの口添えがあれば、警察もまた違った反応になるだろう。


 さっそくアドレス帳から玲一の番号を呼び出して、コールボタンを押した。



『――はい、和泉です』


「助けて玲えもーん!」



 ぶふっ、と受話器の向こうで吹き出す音がする。



『どうしたの、のび……いや、幸恵くん』


「いやあ、ちょっとふざけないとやってられない状況なのよ。助けてください」



 こんな軽口のやり取りができるくらいには、ここ最近で仲良くなった。



『どうしました?』


「例の男からメールが鬼のように届くのですが、だんだん性的な内容になってきまして。警察にも相談したのですが、だめでした。どうにかしてください」


『わかりました。メールは転送してください。一度、事務所のほうにお越しいただけますか?』


「はい、次の休みの日にお伺いします」


『お待ちしております』



 そんなやり取りを経て、幸恵は再び門倉法律事務所を訪れることになった。


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