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まだ新学期が始まったばかりだから知名度がなかっただけで、もうしばらくすれば、皇の名はクラス中に知れ渡ることだろう。それも、自然と。
去年もそうだった。ショコラは一年生の時も皇と同じクラスだったため、その理由を知っている。
彼の本名は皇帝。あだ名は『皇帝』。
フルネームを見れば強烈な印象を残す彼だが、自分の本名を嫌っているらしい。徹底して苗字でしか呼ばせず、下の名前を隠し通すことで有名だった。
教師陣にまで事前に釘を差し、出席確認ですら苗字のみで通しているのだから、筋金入りである。
名前を知ったのは偶然だった。彼の生徒手帳を拾ったのがきっかけ。
それで彼の本名を知ったショコラは、猛烈に興味を抱いた。
手帳に貼られた写真が美形だったこともそうだが、なにより『皇帝』という字面が気に入った。姫と皇帝、お似合いの二人じゃないか。
そう思って、彼に近づいた。手帳の返却を言い訳にして。
そこでショコラは、特大の地雷を踏み抜いてしまったのだった。
「皇帝って、素敵な名前ね! まるで王子様みたい!」
そう言った瞬間の、彼の顔が忘れられない。
まるで親の敵を見るような、冷ややかな表情。
普段は寡黙でクールな彼の、見たことのない形相。
「は? 嫌み? あんただって『聖恋蘭』だろ」
「い、嫌みじゃないよ! ただ、あたしたち、お似合いじゃない? 仲良くなれるかな、って……」
ため息の後に告げられた言葉は、そっけなかった。
「どうやら、あんたと俺は意見が合わないみたいだ」
そう言ったきり、視線すら合わせてもらえなかった。
くすくす、と教室のどこかから忍び笑いが聞こえる。
「振られてやんの、ざまーみろ」
「あの子、調子に乗ってるよね」
「皇くんが相手にするわけないじゃん、あんなビッチ」
じろり、と皇が睨みつけたことで陰口はやんだが、あざ笑うような視線は消えない。
だがショコラはそんなものより、皇の態度のほうがよほどショックだった。
(……どうして?)
整形手術を受けた後、ショコラの環境は変わった。
時間をかけて少しずつ、一か所ずつ顔をいじったことで、自然と美しくなったように見えたらしい。周りはただ「最近、きれいになった?」と驚くばかりで、ショコラが美容整形したことはバレなかった。
そのうち、周囲の態度も変わってきた。
男子たちが露骨にちやほやしだし、女子は嫉妬の視線を向けてくる。
気持ちよかった。
ざまを見ろ、と思った。
あれほど蔑んできた連中が、手のひらを返してショコラを持ち上げる。
「おまえ、聖恋蘭って顔じゃないじゃん」
と言っていた少年でさえ、好意的になった。
だから、これでいいのだと思った。これが正しいのだと。
もう、かつて憧れていた少年の関心だけでは満足できなくなった。
もっと愛されて、もっともてはやされたい。
愛を一身に受けている時だけが、生きていると実感できる。
けれど、それも長くは続かなかった。
整形がバレた。
ショコラの周りから人が去った。
代わりに、蔑みの視線を送られた。
(でも、あたしは間違ってない。だって、ブスの時には愛されなかった。きれいになったら愛してくれた! あたしは間違ってない!)
周囲の露骨な態度の豹変が、ショコラにそう教えこんでしまった。
(今度は失敗しない。今度こそ間違えない。最後まで隠し通してみせる!)
だから、高校は地元から離れた場所を選んだ。
高校生活は快適だった。
誰もショコラの本当の顔を知らない。
誰もが彼女を愛してくれた。教師でさえも。
中には彼女を『ビッチ』と蔑む人間もいたけれど、そんなものは負け惜しみだ。
人間だって動物と同じ。より多くの異性を引きつける種が生き残るのだから。
そう信じていたショコラにとって、皇帝という男は、まさにイレギュラーだった。
笑いかければ堕ちるはずだった。
甘えてみれば喜ばれるはずだった。
それなのに、皇にはそれらが一切通用しない。
それどころか、冷めた目で見られてしまう。
こんなことは初めてだった。
許してはいけない存在だった。
だって、許してしまえば。今まで信じていたものが、崩れてしまう。
だからつきまとった。どうにか彼を落とそうと必死だった。
そんなショコラの思惑とは裏腹に、皇のほうは彼女を嫌っているようだった。
ショコラが大声で皇のフルネームを暴露して以来、彼の本名がクラス中に知れ渡ってしまったことも原因のひとつだった。
おまけに、彼に憧れる女子が陰で『王様』と呼んだり、彼に悪意ある人間が『皇帝』などと呼んだりする。
ひどいものになると、彼のクールな性格とかけて『氷の帝王』なんてものもあった。中二病丸出しである。
「ねえ、どうしてそんなに名前を隠すの?」
そう訊ねると、彼は苦い顔をした。
「恥ずかしいから」
「恥ずかしい? そんなことないよ。親が愛情こめてつけてくれた名前だよ」
「愛情?」
はっ、と皇は嘲笑する。
「自己満足の間違いだろ。俺の親は、俺を『皇帝』と呼んで、見せびらかしたいから、こう名づけただけだ。言わばアクセサリーと同じだよ。愛情なんて、ペットを愛でるのと変わらない」
「そんなことないよ! ショコのお母さんは、ショコのこと思ってつけてくれたもん!」
「……哀れだな、あんた」
向けられたのは、憐憫のまなざしだった。
――嫌だ。
そんな目で見ないで。
あたしは、そんなふうに見られる存在じゃない。
見るな。
見るな!
「俺さ、親に言ったんだよ」
語り出す皇の言葉で我に返る。
「そんなに素晴らしい名前なら、あんたらが『皇帝』を名乗ってみろ、って。外であんたらを『皇帝』って呼ぶから、返事してみろ、って。『皇帝です』って自己紹介してみろ、って」
「……それで?」
「なんにも。だんまりだよ。あんまりムカついたからさ、一度、他人の前で言ってやったんだよ。『うちの両親は、今度から皇帝に改名しました』って。――そしたら、殴られた」
絶句した。
(そんな。それじゃあ、もしかして。ひょっとすると――)
黙ったまま震えるショコラに、皇は静かな瞳を向けた。
「なあ。……あんたの親は、どうなんだろうな」
返事は、できなかった。
――皇帝。
彼は、ショコラの世界でただひとつの、異分子だった。




