13
この家は、ショコラを守る盾だった。
優しい両親と、望めばなんでも手に入れられる環境。
まるで物語に出てくるお姫様のようだ。いや、事実ショコラは幼い時分、自らがお姫様だと信じていた。
その幻想は、小学校にあがった頃に砕け散ってしまったけれど。今も彼女にとって、この場所は自分を守護する王城だった。
その宮殿内が、今はこんなにも暗い。まるで、きらびやかな社交界に暗雲立ちこめたかのような。戦の気配が近い、なんてささやきが聞こえてきそうだ。
原因はわかっている。母と、和也のことだ。
二人の間になにがあったかはわからない。つい先日までは和やかな雰囲気だったのに、最近ではお互いにギスギスした空気が流れている。
いや、二人だけではない。
ショコラ自身もまた、憂鬱な思いを抱えていた。
つい先日までならば、たとえ母親と恋人の仲が悪くたって、新たな試練として盛り上がれたのに。
未来のことを思うと、怖くて震えてしまう。このまま時が止まってしまえばいいと思う。こんなことは初めてだった。
――きっとおまえに似て、可愛くて美人さんな赤ちゃんなんだろうな。
和也から言われた言葉がよみがえる。
あの時になって初めて、その可能性に思い至った。
(将来、生まれてくる赤ちゃんがブサイクだったら、どうしよう)
ショコラの美貌は人工のものだ。それは彼女も自覚している。
今までなら、それでも美しくなってしまえばこちらのものだと思っていた。
男はきれいな顔に弱い。それが作られたものであっても、見抜ける者などそうはいない。騙されて、ちやほやしてくれる。
そんなショコラを蔑み、嫉妬してくる女子たちは、しょせん負け犬だ。悔しかったら、同じようにきれいになってみればいい。そう、思っていた。
けれど今になって不安に襲われる。
――このまま結婚して、幸せになれるのだろうか?
それは、明らかなマリッジブルーだった。
(ああ、ユーウツだな)
家にいてもストレスがたまるだけだ。
(……学校に行きたいな)
気分転換したかった。
外に行けば、ショコラをちやほやしてくれる男子が大勢いる。久々の登校だから、華に群がる蝶のように囲って、愛してくれるだろう。彼女はそれに、甘い蜜の代わりに甘い言葉と態度を返せばいい。それで相手も自分も気持ちよくすごすことができる。
そうと決まればこれ以上引きこもっていたくなくて、すばやく支度をした。
階段を駆け下りてリビングに向かうと、イライラと携帯の画面を睨む母の姿があった。
「ママ、あたしガッコーに行ってくるね」
「勝手にしなさい」
母は振り返ることなく、そっけなく言った。
背中越しにも苛立ちが伝わってくる。
こういう時の母には、よけいなことを言わないほうがいい。
ショコラは昔、機嫌の悪い時の母に普段どおりのわがままを言って、怒鳴られたことがある。あの時は、いつもは優しい母に叱られたショックで大泣きしてしまった。
すぐに優しい母に戻ってくれたけれど、あれは今でもトラウマになっているほど苦い思い出だ。
だから、これ以上はなにも言わないが吉だ。
「いってきまぁす」
大きな挨拶に、返事はなかった。
久しぶりの高校は、なぜだか見知らぬ場所のようだった。
いつの間にか新しいグループができている。
ショコラも新学期が始まってすぐに独自のグループを築き上げたが、さすがに五月に入ったばかりのこの時期に、長期の休みを取るのはまずかったらしい。すでにどのグループからも、他者を寄せつけない雰囲気がただよっている。
けれどショコラは同性同士の『仲良しグループ』というものが苦手だし、男子ならてきとうに声をかければ快く受け入れてくれることを知っている。
なので、ためらいもなく隣の席の男子に声をかけた。
「おはよ、石橋くん」
「お、おはよう……花岡さんて、俺の名前、知ってたんだね」
「ふふ、なあに? 石橋くんだって、あたしの名前、知ってるじゃない」
「そりゃあ、花岡さんは目立つから……」
「ねえ、その『花岡さん』ってやめない? 『ショコラ』でいいよ」
「えっ? う、うん。じゃあ、ショコラちゃん……でいいかな?」
「うん!」
わかりやすくドギマギした石橋の様子に、ショコラは少し気分がよくなった。
けれど、まだ足りない。もっとほしい。もっと、もっと。
「あれ? 石橋、なに花岡さんと仲良くしてんだよ。ずるいぞー、俺らも混ぜろー」
「おはよー、花岡さん! 学校くるの久しぶりじゃね? 体調悪かったん?」
「うん、ちょっとね。心配してくれてありがと!」
「おいおまえら、俺が先に話してたんだからなー」
「おまえにだけいい思いはさせん!」
「ごめんなー、花岡さん。うるさいやつらで」
「ううん、いいの。にぎやかなほうが好きだから、もっとお話ししたいな。久しぶりに学校にきたから、寂しくて」
「心広いわー、さすがだわー」
「花岡さんの優しさに感謝しろよ、おまえらー」
いつの間にか机の周りには、男子の集団ができていた。
(これよ、これこれ。こうじゃなくっちゃ! ショコラは愛されなくちゃいけないのよ!)
乾いた心がゆっくりと満たされていくのを感じる。
彼女を求める者は、なにも和也だけではないのだ。
(あんまり放っておかれると、浮気しちゃうぞ)
最近、メールの返信が遅い恋人を思って、ショコラは心の中で舌を出した。
「そう言えばショコラちゃん、遠足の実行委員が決まったの、知ってる?」
ふいに横からかけられた言葉で、現実に引き戻される。
「おい石橋、なに花岡さんのこと名前で呼んでんの? いつからそんなカンケーになったんだよー、裏切り者ー」
「ちゃんと本人から許可取ったから、いいんだよ!」
「じゃあ花岡さん、俺もショコラちゃんって呼んでいい?」
「俺も俺も!」
「ふふ、いいよ」
「えっ、いいの? むりしなくていいんだよ?」
石橋が慌てたように言う。
「残念だったな、抜け駆けはさせないぜ!」
「うん、いいよー。あたし、名前で呼ばれるの、嫌いじゃないから」
むしろ、この名前で呼ばれることこそが、ステータスになっている。名前にふさわしい美しさを認められたような気がして。
石橋はがっくりしながらも、先ほどの話を続けた。
「それでさ、遠足の実行委員、休んでるうちにショコラちゃんに決まっちゃったんだよね」
「ええっ、そうなのぉ?」
「うん。まあ、決めたのは遠足実行委員だけじゃないんだけど。基本的に欠席の人は不利な感じだったかな」
「そんなぁ。ジッコーイーンって、ひとりだけなの?」
「いや、男女ひとりずつだから、あともうひとりいるよ。……えっと、誰だっけ?」
「あいつだよ、珍しい苗字の」
「たしかほら――皇」
その名前を耳にしたとたん、ショコラの顔が凍った。




