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弁護士からの警告が功を奏したのか、あれから母親からの接触はピタリと止まった。あっけなさすぎて不気味なくらいだ。
玲一によると、すでに婚約者への交渉は開始しているらしい。それもすべて向こうでやってくれるので、今のところ幸恵の出番はない。
幸恵自身も、新プロジェクトに追われて忙しいため、弁護士に一任できることは非常にありがたかった。
祖母から電話がかかってきたのは、そんな折だった。
『――幸恵さん、聞きましたよ。婚約者から一方的に婚約を破棄されたのですって? しかも、相手はショコラさんだとか』
「お、お聞きになりましたか……」
電話越しでも伝わる迫力に、幸恵は思わず冷や汗をかく。
祖父母にはすべてが終わってから話そうと思っていたが、さすがに耳が早い。
どこから漏れたのかなど、悩まずとも検討がつく。間違いなくあの母親だろう。
『まったく。気をきかせたのでしょうけど、今度からそういうことは真っ先に報告なさい』
「はい、すみません……」
こういう時の祖母には、逆らわないほうがいい。
はあ、とため息が返ってきた。
『……やはりあの時むりやりにでも、ショコラさんを家に迎えるべきだったかしら』
「それは、難しかったと思いますよ。なにより、妹自身が望んでいませんでしたから」
妹の存在が発覚した直後、祖父母は幸恵の時のように、彼女を保護しようとした。
しかし、黙ってされるばかりの母親ではない。「子供さらいだ!」と騒ぎ、警察に通報した。
警察の事情聴取で、祖父母はこう言われたそうだ。
「最近、孫を自分の手元に置きたがる老人が増えてますけどねぇ。おばあさん、それ、犯罪だよ」
孫が虐待されているから保護するんだ、と説明するも、
「うーん。でも、大切にされてるみたいだからねぇ。子供のほうも、親御さんと離れたくないって言ってるし、むりですよ」
と聞く耳を持たない。
まだ『優しい虐待』の認知度が低く、周囲の理解が得られなかった時代だ。
けっきょく、妹を迎え入れることは断念せざるをえなかった。
それがきっかけで、幸恵は実家に戻ることを決意した。思春期ゆえの、青臭い正義感だ。
『……ごめんなさいね、幸恵さん』
「おばあ様の責任じゃないですよ」
『いいえ、わたくしのせいよ。わたくしが、あの人とうまくやれなかったからいけないのです』
「あの人……って、母のことですか?」
『そう。……わたくしはね、あの人のことが大嫌いだった』
とつぜんの告白に、幸恵はさもありなんと思った。
あの母親を好きになれる人は、まずいないだろう。
『あの人はね……まだ大学生になったばかりの、十九歳だった息子に手を出したのよ』
「え゛」
それは初耳である。
『しかもあの人、その大学の事務員だったのよ。当時三十一よ、三十一。もう卒倒しそうになったわよ。息子より、わたくしのほうが歳が近いくらいだったんですから』
血は争えないということか。
いや、この場合は母親ではなく、父親に似てしまったのだろうか?
『わたくし、責任感もなにもあったものじゃない、って叱ってしまったの。けれど、「真剣な交際だから認めてほしい、息子さんが大学を卒業するまでは手を出さない」って約束したものだから、しぶしぶ交際を認めたのよ。――それなのに』
なんだか嫌な予感がする。
『あの人、その二年後に妊娠したのよ! デキ婚よ、デキ婚! なにが「息子さんが大学を卒業するまでは手を出さない」よ、嘘ばっかり!!』
それは怒っても仕方がない。と言うより、誰だって怒る。
『おかげで、あの人は事務員を辞めざるをえなくなった。けれど、息子が大学を退学することは避けたい。――だから、我が家で同居になったのよ』
「それは……」
のちの展開が読める。
『あとはもう、嫁姑問題の勃発よ。家庭内の空気は最悪だったわ。あの人は偉そうに息子を顎で使うし、息子は言いなりだし。本当に、育て方を間違ったわ。わたくしははっきりと物をいうほうだから、いつしかあの子が自分の意見というものを失ってしまったのね』
「おばあ様は、なんと言うか、チャキチャキしていますからね」
いい人だからといって、いい親だとは限らないということか。
同じ人物に育てられた身としては、本当に親だけに問題があるかは疑問だが。
『でもね、それもあなたが生まれるまでだったわ』
「え?」
『わたくし、今でも後悔しているの。そのせいで、あなたが虐待されてしまった、と』
「どういうことですか?」
『あなたの名前――つけたのは、わたくしなのよ』
あまり驚きはなかった。
むしろ、なるほど、と腑に落ちた。
幸恵と妹とで、名前の落差がありすぎると思っていた。
『だって、あの人……「愛」に「姫」と書いて、『愛姫』って読ませようとしていたのよ』
「ラブ?」
『き』
「………………ラブ?」
『き』
「ラブキ?」
『愛姫』
「…………………………んん?」
『愛姫』
「アッ、陽徳院のことカー。あの人にしては教養のあるお名前ですネー」
『現実を見なさい。「めごひめ」でも「よしひめ」でもないわよ。愛姫よ、愛姫』
「――嘘だッ!!」
脳が現実を拒否する。
『嘘じゃないわよ。本当にそう決めてたんだから。それで、わたくしと夫で「幸恵」と命名して、息子にむりやり役所に提出させたのよ』
「本当にありがとうございます」
ギリギリセーフである。
あと一歩遅ければ、幸恵は『愛姫』の十字架を背負って生きていくことになっただろう。絶対にご遠慮願いたい。
「なぜ、イングリッシュとジャパニーズのコラボなのでしょうか……」
『わたくしに聞かれても、答えられるはずないじゃあありませんか。あの人にお聞きなさいな』
「絶対に嫌です」
死んでもごめんこうむる。
あの人の思考など、わかりたくもない。
『とにかく、それがあの人の逆鱗に触れてしまったみたいでね、あなたを連れて飛び出していってしまったのよ。息子も、けっきょく大学を退学して、あの人を追って行ってしまったわ。……卒業は間近だったというのに』
「あの母親のどこがよかったやら……」
『本当にね』
父の思考などわかるはずもないが、もしもあの母のいいところがあるならば、ぜひ教えてもらいたいものである。
『ですからね、あなたが母親に愛されなかったのは、わたくしのせいなのよ。わたくしの身勝手が、あの人の母親としての愛情を奪ってしまったんだわ。……きっと、あなたが年々わたくしに似てきたことも、理由のひとつね』
「おばあ様が責任を感じる必要はありません。たとえ、その……ラブキ? になったところで、妹の二の舞になっただけでしょうし」
『けれど、あなたのことがなければ、あの人があそこまでショコラさんに執着することもなかったやも……』
「いやあ、考えすぎですよ。わたしのことがなくても、あの人はやらかしてましたって。それに、もしもの話なんて不毛です」
『そうね……』
祖母は、ずっと後悔を抱えてきたのだろう。
その気持ちは、幸恵にも覚えがあるものだ。
『そうそう、幸恵さん。あなたの婚約者も、「真剣な交際だから」なんて言い訳しているのでしょう? そんな言葉、信用してはなりませんよ。口ではなんとでも言えるんですから』
「たしかに、わたしとの婚約で両家にあいさつした時も、あの男は同じことを言っていましたよ。『真剣にお付き合いさせていただいてます』って」
姉と『真剣な交際』を宣言した同じ口で、妹と『真剣な愛』を語るとは噴飯ものだ。
あの男には一度、『真剣』について辞書を引くことをおすすめしたい。
『女の敵ね』
「まったくです」
二人して、長いため息をついてしまう。
心がひとつになった瞬間だった。
『――ああ、そうだわ。旦那様からも、幸恵にお話ししたいことがあるのですって』
「おじい様が?」
『ええ。今、代わるわね』
そう言って、祖母はさっさと電話を代わってしまう。
次いで、低く落ち着いた声が聞こえてくる。
『――幸恵か』
「はい」
『一陽来復。悪いことが続いた後は、物事がよいほうに向かうものだ。おまえの春はまだきていないようだが、いつか必ずくる。……踏ん張りなさい』
「はい。ありがとうございます、おじい様」
『うむ』
それだけを言い残し、通話は切れてしまった。
相変わらず寡黙な祖父である。
「一陽来復……か」
季節は春だが、幸恵に降りかかる災難は、まさに冬のようだ。春なのは連中の頭の中だけだろう。
けれど、いつかは幸恵の春もくるはずだ。――それまで、負けないようにしよう。
幸恵が冷遇されていたのは、嫁姑問題に巻き込まれたから――
と言いたいところなのですが、実はこれは一因であって、原因ではありません。
まだ最大にして最高にくだらない理由が残っています。それこそが、姉妹に差がついてしまった、真の理由です。




