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この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
――名前負けにもほどがある。
己の不幸をなげいて、幸恵はため息をついた。
花岡幸恵。
幸せに恵まれる、という願いがこめられているらしいが、神様にはそんなもの知ったことではないらしい。
幸せが鼻で笑うような人生だった。そして、今も。
神は死んだ。
「悪いな。けど、しかたないだろ? ショコラは妊娠してるんだ。おまえは強い女だからひとりでも生きていけるだろうけど、ショコラには俺が必要なんだよ。父親として、どっちの責任を取るべきか、おまえにだってわかるだろう」
「ごめんね、お姉ちゃん。ショコが悪いの。お姉ちゃんの恋人だってわかってたのに、それでも和也さんを好きになるのをとめられなかった……っ!」
「ショコラ……!」
見えすいた三文芝居だ。
あきらかにうそ泣きだというのに、和也は感動したように大げさなそぶりでショコラの肩を抱く。これだけしゃくりあげているのに、なぜショコラの濃い化粧が少しもくずれていないのか、疑問にも思わないようだ。
本人たちはいたって真剣でも、はたから見れば滑稽きわまりない。
とんだ茶番劇だ。
横で見ていた母親が言う。
「いいじゃない、許してやって。ショコちゃんがここまで謝ってるんだから。お腹の赤ちゃんを片親にするわけにはいかないでしょう。あなたはお姉ちゃんなんだから、妹に譲ってあげなさい」
――ほら、また。
昔からそうだった。「お姉ちゃんなんだから譲りなさい」が、並みの家庭の比ではない。
お気に入りのゲームやお菓子はもちろんのこと、幸恵がもらったはずの表彰状やメダルも、誕生日プレゼントをもらう権利も、すべて奪われてきた。
授業参観や体育祭だって、妹は両親そろって観にくるのに、幸恵にはそれがない。
いまさら両親の愛情がほしいとは思わないが、せっかく幸せをつかもうとしていた矢先に、それを邪魔されるのは許せなかった。
(……でも、わたしだって一方的に奪われっぱなしなわけじゃない)
いつまでも搾取され続けるつもりはない。
都合のいい女は、もうやめる。
「――では、弁護士を挟みましょう」
こういう時、かえって冷静になるほど修羅場慣れしている自分にうんざりする。
手元のスマートフォンは、とっくに録音アプリを立ち上げていた。先ほどの茶番劇がばっちり記録されているはずだ。
証拠だって残してくれる、そう、スマートフォンならね。
「なにを言っているの!」
「このまま話し合っていても平行線でしょう。専門家を挟むべきです」
「アンタは……ほんっとうに冷血な子ね!」
「婚約者を奪われた娘に、一方的な我慢を強いる親のほうがよっぽど冷酷では?」
ぐっと黙りこむあたり、自覚がないわけではないらしい。
意外だ。てっきり、根っこから「妹を優先すべき」と信じこんでいるのかと思っていたが、どうやら意図的に差別していたようだ。
そんなことに二十七年間も気づかなかったあたり、ちゃんと両親に向き合ってこなかったのかもしれない。
早々に見切りをつけて、期待するのをやめてしまうのは、幸恵の悪いくせだった。
「けっきょく、金か。おまえは俺の金にしか興味がないんだな!」
「わたしのほうが稼いでいるのに? あなたのくれた婚約指輪だって、三万円もしなかったじゃない。もともと、あなたのお給料に期待なんかしてないわよ」
和也の侮蔑をこめた視線が、屈辱の色に染まる。
給料三ヶ月分が相場だという婚約指輪が三万円以下なのだから、ひと月に一万円も稼げないという主張なのかと思ったほどだ。
それでも、人柄が誠実であればいいと思った。金なら自分が稼げばいい、と。
けれど、その誠実さも失われた今、彼に対する愛情もない。
「遊ぶだけ遊んで、いらなくなったらポイ捨てするんだ。責任感もなにもないわね。それで、妹のことも飽きたら捨てるわけ?」
「おまえとショコラは違う!」
「そうだよ、和也さんはそんな人じゃない! 和也さんのこと悪く言わないで!」
「一度浮気した男は、またするわよ。あなたはどうなの、ショコラ? 婚約者がいるのに他の女に手を出すような男が、また浮気しないって思える? 将来、この人の帰りが遅い日が続いた時に、浮気してるんじゃないかって疑わないでいられるの?」
「浮気じゃない! 和也さんはただ、ショコを選んだだけだもん!」
「それが浮気って言うのよ」
「お姉ちゃんはショコが選ばれたから、ひがんでるだけでしょ!? 和也さんの愛情がショコのものになったから!」
「ひがむわけないでしょ。十六歳に手を出すロリコン淫行男と婚約したことを後悔してるくらいなのに」
「な……っ、ロリコンじゃない! ショコラだから好きになったんだ! ババアの嫉妬は見苦しいぞ!」
「じゃあ、わたしより五歳年上のあなたは何なのよ」
「男は歳をとるほど価値があるんだ。若ければ若いほど価値のある女とは違う!」
「あら、それは六十歳の母への侮辱かしら?」
母がカッと顔を赤くする。隣に座る父は空気のように口をつぐんだままで、相変わらずなにを考えているのかわからない。案外、なにも考えていないのかもしれない。
ダンッ! と和也が机を叩いた。
「――いい加減にしろ! 聞いてるぞ。おまえは今までもそうやって、ショコラをイジメてきたんだってな。彼女の可愛さに嫉妬して。そんな醜い女を、俺が選ぶわけがないだろうが!」
あまりの言いぐさに、幸恵は思わず冷笑した。
たしかに、両親の愛情を一身に受ける彼女を、うらやんだことがないと言えばうそになる。
だが、それも今では憐れに思うし、その矛先が自分でなくてよかったと安堵すらしている。
――それに、可愛さに嫉妬するなんて、ありえない。
「作られた美貌に、嫉妬なんかするわけないでしょ」
サッとショコラの顔色が変わったことに、和也は気づかなかった。
「なんのことだ?」
「……赤ちゃん、可愛いといいわね」
そう言って、幸恵は席を立つ。
ショコラと両親には、彼女の言葉の意味が正しく伝わっただろう。それでいい。
玄関を出ると、追いかけてきた母親が勢いよく塩を投げつけてきた。
「出ていきなさい! アンタなんかあたしの子じゃないわ! 絶縁よ!」
「どうぞご勝手に。その代わり、老後は期待しないでください。あの妹にあなたたちの老後の面倒を見られるとは思いませんけど。せいぜい、施設の資金はご自分で貯金しておいてくださいね」
吐き捨てるように言って、さっさとタクシーを拾う。
乗る前に軽く払ったが、シートに塩がつかないか心配だ。
窓の外を流れていく景色をぼうっと眺めながら、幸恵はこれからのことを思った。
(まず、証拠をそろえて、法テラスに電話しよう。婚約指輪と録音した音声、メールのやり取り。それから、向こうのご両親にも連絡しないと。前にご挨拶に行った時、いろいろと親切にしてもらったから、申し訳ないけれど。あの人たちとなら家族になれると思ったのに。ようやく幸せになれると思ったのに。……こんなの、あんまりだ)
傷ついていないわけじゃない。結婚しようと思うくらいには情があった。
姫野和也は、幸絵の勤める会社の下請け業者だった。彼いわく、一目惚れだったらしい。アプローチされているうちに情にほだされて、友人から恋人に変わるまで、そう時間はかからなかった。
幸絵なりに彼を大切にしたつもりだ。少しずぼらなところがある五歳年上の彼の世話を、あれこれと焼いたりしていた。
けれど、それがよくなかったのかもしれない。
ただでさえ発注と下請けの関係を気にしていた彼にとって、自立した女はプライドを刺激されたのだろう。
強気で甘えることを知らない、可愛げのない女。幸恵を知る人間は、口をそろえて彼女をそう評価する。
男からすれば、嫌な相手だろう。自分を頼ってくれる愛嬌のある女のほうを選びたくなる心理は、わからないでもない。
けれど、それは相手を裏切っていい理由にはならない。
――おまえは強い女だから、ひとりでも生きていけるだろう
「……そんなわけ、ないじゃない」
頬を伝うものに気づかないふりをして、幸恵は小さくはき捨てた。




