抹殺依頼
抹殺を依頼する女と、抹殺を引き受けた男のショートストーリー
ソファーには姉御、姉、姉さん、色々な呼び方をされている女がいた。
「必ず殺って……お願い」
そう言うと少し青ざめた表情の女は部屋から消えた。
住宅街の片隅にある一軒の家、この一室にターゲットは居る。俺は普段だったら撲殺を得意とするが、今回は依頼主のご意向に沿って神経毒のスプレーを使う。撲殺して飛び散っては困るそうだ。まあ世の中、誰でも事情ってヤツを抱えてるから仕方がない。
撲殺用の凶器は色々あるが、昔から有る革袋に鉛を詰めたブラックジャックは有名だ。しかしそれを改良したスラッパーは、鉛と板バネを革の中に仕込んだため、ブラックジャックより軽く、板バネのため打撃力は大きく、厚さも一~二センチと薄く、長さも二〇~三〇センチくらいなので持ち運びも容易だ。俺は何時もこれに似た凶器で一撃、痛いと思う間もなくあの世へ送るのが流儀だ。
ターゲットの事は俺も良く知っている。小柄だが空手家か軽量級ボクサーのような機敏なフットワーク、特に接近戦での破壊力は抜群で、甘く見て痛い目に合ったヤツは星の数ほど居る。だから今回用意した神経毒のスプレーは、有機燐系の有毒化学物質……有名なのはサリン……これより更に数世代進化しているシロモノだ。サリンは元々ジャガイモに付く害虫用の殺虫剤としてドイツで開発されたが、余りに毒性が高く危険なため、お蔵入りになっているのが毒ガスとして脚光を浴びた。これを実用化した4人の科学者、シュラーダー、アンブロス、リューディガー、ファン・デア・リンデの姓からSARINの名が付いた。その為、サリンなどの神経剤を総称し「ジャーマン・ガス」あるいは「G剤」と呼ばれている。これらが恐ろしいのは、吸い込まなくても皮膚に付いただけで効果を発揮する事だ。ちなみに体重七〇㎏の人間なら皮膚に〇.三五ml(約七滴)付着すれば半数は死ぬ。サリン等の神経剤にやられると、呼吸停止、全身筋攣縮、痙攣、意識障害、尿・便失禁、それと特徴的なのは瞳孔がまるでピンで突いた穴の様に縮まる縮瞳だ。助けるには迅速に硫酸アトロピンとPAMを投与する事だが、この二種類は主に農薬中毒などの処置で使われるため、都会の病院にあまり在庫は無い。その上、今回のスプレーには合成ピレスロイド系の神経毒を混合してあり、吸い込むと急速な麻痺を起す。科学の進歩とは何とも恐ろしい。
静かに階段を上がる。右に曲がった二つ目の部屋にターゲットは居る。ドアを開けた時に俺がシルエットにならないよう廊下の電気を消し、しばらく闇に目を馴染ませる。その間にブチルゴムの手袋をはめる。ブチルゴムは対ガス非透過性に優れ、世界中の軍や対テロ部隊で防護服に使われている素材で、防護力は通常のニトリルゴムと比べ物にならない。
呼吸音が響かないように口から息を吸い込む、俺は右手に有毒スプレーを構え、念のため左手には撲殺用の凶器を構える。音を立てないように左手でドアノブをゆっくり廻し部屋に入る。居た! 薄暗い部屋、ターゲットはトレードマークのダークブラウン、こちらに背を向けている。まだ俺に気付かない。一気に勝負に出た。狙いを付ける必要もない程の至近距離、息を止め有毒スプレーを噴射する。噴射音が響く、エアロゾル状になった有毒物質がヤツを包む。ターゲットがこちらを向く、顔が見える。顔めがけ更に噴射を続ける。突然ターゲットが床に落ち仰向けになり、昔流行ったモンキーダンスの様に手足をばたつかせ始めた。もうこれで助からないだろう。俺も何時までも息を止めてはおけない、息が苦しくなってきた。ターゲットのもがき苦しむ様を横目にベランダに飛び出し、冷えた夜気を肺一杯に吸い込む。何故だろう街明かりが物寂しく見える。
次にターゲットに目を向けた時には、もう完全に動かなくなっていた。あとは死体を始末するだけだ。
その時、廊下の明かりが点き半開きになったドアに映るシルエット、あの女だ。
「殺ってくれた?」
俺はまだ凶器を手放さない。今時は依頼主だって……女が恐る恐る部屋に入って来て明かりを点け、俺の両手の凶器に目を留めた。
「あ~っ、あたしのスリッパ使ったぁ!」
「ゴキ用スプレー使ったよ」
「ほんと~? ちゃんと片付けときなさいよね」
「姉ちゃん、自分でやれよ」
女は俺の手から殴打用凶器を取り上げると俺の頭をひっぱたいた。
「ハンバーガーとチキン買って来てやったんだから」
スポンサーのご意向なら仕方がない。俺はヤツを分厚くティッシュに包み、ゴミ箱に入れた。
「あんたの部屋のゴミ箱に入れなさいよ!」
1.起承転結を明確にする事
2.ヒントを入れても途中でネタバレしない事
3.最後にニヤッとさせる事