【偽聖女ですけど?】婚約破棄された転生令嬢が都の水道を全部止めた件~蜃気楼は幻。でも水は、本物ですわ~
「クラウディア・ミラージュ。お前との婚約を破棄する」
虹色の光が満ちる大聖堂に、王太子ユリウスの声が響いた。
「お前は聖女の力を偽っていた。偽物が、この神聖な都に居座る資格はない。――蜃気楼の都イリスレーヴから、出ていけ」
居並ぶ貴族たちのざわめき。嘲笑。憐憫の視線。
その中心で、わたくし――クラウディア・ミラージュ公爵令嬢は、水面のように凪いだ心で王太子を見上げていた。
(十年タダ働きさせておいて、開口一番それ?)
淡い水色の髪が、ステンドグラス越しの虹に染まる。翡翠の瞳は、ひとつも揺れない。
ユリウスの隣には、栗色の髪を巻いた小柄な令嬢が寄り添っていた。男爵令嬢リゼット・アウレール。潤んだ瞳で、勝ち誇るでもなく、ただ庇護欲をそそる顔でこちらを見ている。
「真の聖女は、このリゼットだ」ユリウスが誇らしげに言った。「彼女こそ、この都に虹色の奇跡をもたらす者。お前のような偽物とは違う」
奇跡。虹色の水。蜃気楼。
(虹色の奇跡……それ、全部わたくしの魔術式なんですけど)
この砂漠の真ん中に浮かぶ湖上都市。虹色に揺らめく水面。聖女の祈りがもたらす神の恵み。
〈魔導浄水結界〉。〈給水網〉。十年前、この身に前世の記憶が蘇ってから、わたくしがひとつ残らず設計し、管理してきたインフラ。
前世で日本のダムと上下水道を支え、過労で死んだ技術者の、意地の結晶だ。
虹色の蜃気楼は「奇跡」なんかじゃない。浄水結界を透過した光が起こす、ただの光学現象。
でも、それを説明する義理は――もう、ない。
「そうですか。わかりましたわ」
わたくしは静かに頭を下げた。
喚かない。泣かない。すがらない。
その態度が気に入らなかったのか、ユリウスが眉をひそめた。
「……なんだ、その態度は。喚くなり、すがるなりしたらどうだ」
わたくしは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「喚いて水が出るのなら、いくらでも喚いて差し上げますわ。……ですが、生憎」
そこで、言葉を切る。
もう彼を見てはいなかった。
「行きましょう、セリカ」
背後で拳を握りしめていた侍女に、わたくしは短く告げた。
「……かしこまりました、お嬢様」
(この都の水がどこから来ているのか。誰の手で回っているのか。――思い知ることになりますわ、これから)
虹色の大聖堂を、わたくしは振り返らずに後にした。
◇
都を去る前に、わたくしは一箇所だけ立ち寄った。
〈虹柱の塔〉。都の中心にそびえる、水源制御の心臓部。
「お嬢様、本当によろしいのですか」
侍女のセリカが、押し殺した声で言った。栗色の髪をきっちり結い上げた彼女の瞳には、まだ怒りの火が残っている。
「都中があなたを嘲って……あんな連中のために、水を残してやる必要なんて、ありませんわ」
「残さないわ」
「……え?」
わたくしは塔の最奥、青白く光る魔術陣の前に立った。指先を宙にすべらせ、十年前に自分で組んだ制御式を呼び出す。
膨大な文字列の海。
「十年前、わたくしはこの制御式に、ひとつだけ安全装置を仕込んでおきましたの」
「安全装置、ですか」
「『聖女不在時、水源制御を管理者本人に完全帰属させる』。――前世で叩き込まれた、鉄則ですわ」
「鉄則……」
「システムは、必ず一人の責任者に紐づけろ。誰でも触れるインフラは、いつか必ず壊れる」
指先が、最後のひと筆を書き換える。
「こうしておけば、わたくし以外には解除できませんの」
かちり、と。
都の命脈が、わたくし一人の手に完全に落ちた音がした。
「……ええ、今、都の命脈がわたくし一人の手に落ちましたわ」
セリカが、はっと息を呑む。
「新しい聖女さまが、祭壇でどれだけ祈っても――水は、一滴も動きませんの」
それから――彼女はゆっくりと、口角を上げた。
「……まあ。それはそれは」
「ええ。祈りで水が出るのなら、前世のわたくしは残業なんてしていませんでしたわ」
「ふふ、違いありません」
塔を出ると、砂漠の乾いた風が頬を撫でた。
背後で、虹色の都が最後の輝きを放っている。あと数日で、あの虹は色褪せ始めるだろう。浄水は濁り、蛇口からは泥水が出る。
(さよなら、イリスレーヴ)
馬車の荷台には、十年分の水質管理記録と、結界の全設計図。そして――前世の知識という、誰にも奪えないチートが積まれている。
「次は、祈らなくても水が出る都市を作りますわ」
砂漠の隊商路の先へ。渇いた誰かが、きっと待っている場所へ。
◇
――クラウディアが去って、五日。
大聖堂の祭壇で、リゼットは必死に祈っていた。
「どうか……どうか、奇跡を……お願いします、水を……」
だが、虹色の水面は日ごとに濁っていく。あれほど都を彩っていた蜃気楼の輝きは、灰色に沈み始めていた。
「なぜだ!」
ユリウスが玉座の間で吼えた。手にした杯の中身は、泥のように濁った水だ。
「聖女よ、祈りが足りぬのではないか! 真の聖女なら、なぜ奇跡を起こせぬ!」
「わ、わたし……ちゃんと祈ってます……毎日、朝から晩まで……それなのに、水が澄まないんです……」
リゼットが涙ながらに床にくずおれる。
「この杯を見よ! 泥だ! 王が飲む水が、泥水だぞ!」
だが、いくら祈っても水は澄まない。給水網は各所で停止し、都の井戸という井戸から、清らかな水が消えていった。
民が騒ぎ始めた。
「水が出ないぞ!」
「奇跡はどうした!」
「そういえば……あの水は、誰が回していたんだ?」
十年間、当たり前に流れていた水。蛇口をひねれば出るのが当然だと、誰もが思い込んでいた恵み。
それが、止まって初めて――彼らは問い始めた。あれは本当に、聖女の奇跡だったのか、と。
宰相が、青ざめた顔で古い記録を漁っていた。そして、一枚の書類の前で凍りついた。
浄水結界の管理台帳。そこに記された、管理者の名。
『クラウディア・ミラージュ』
「……まさか」宰相の手が震えた。「都の水はすべて……あのお方が、お一人で……?」
「宰相! その手にある書類は何だ。何を漁っている」
ユリウスが問う。だが、宰相は答えられなかった。
ユリウスは、まだ理解していなかった。
「戯言を申すな! 水は聖女の力だ! クラウディアは偽物だと、余が断じたのだぞ!」
リゼットが、床に伏したまま、掠れた声で呟いた。
「……偽物、なのは……わたし、だったんじゃ……」
「黙れ! ……水を、誰か、水を持て……」
だが、その声はもう、渇いた喉から掠れて出るばかり。
王宮の廊下を、泥水のバケツを運ぶ使用人たちが行き交う。
蜃気楼の都から、虹が消えていく。
誰も、それを取り戻せないまま。
◇
「水は祈りではなく、技術で守るものですわ」
砂漠の辺境。名もなき小さな村で、わたくしは井戸の前にしゃがみ込んでいた。
この村は、水源が枯れかけていた。子どもたちは唇をひび割れさせ、大人たちは諦めた目をしていた。
見捨てられなかった。――いえ、正確には、前世の職業病だ。壊れたインフラを見ると、直したくなる。
「地下水脈はここ。深さはおよそ十五メートル。砂を濾せば、飲める水になりますわ」
「お嬢様、また職業病ですのね。壊れた井戸を見ると、放っておけないのですから」
「否定はしませんわ。……さあ、村の皆さん、砂の層をこう組んでくださいませ」
わたくしは砂の層を利用した簡易浄水設備を設計し、村人たちと共に組み上げていった。前世の緩速濾過の知識。ここでは、立派なチートだ。
三日後。井戸から、澄んだ水が湧いた。
「水だ……! おかあさん、水がでたよ! つめたい!」
村の女の子が、両手で水をすくって笑う。
「ええ。前世の緩速濾過。ここでは立派なチートですわね」
その光景を、少し離れた岩陰から見つめる巨影があった。
身長二メートル超。赤黒い鱗、傷だらけの肌、金色の竜眼。竜人傭兵ガルド・ザーグレン。わたくしの護衛として雇った、傭兵ギルド最強格の大男だ。
睨むだけで盗賊が逃げ出す「歩く災害」。道中、必要なこと以外は一言も喋らなかった無口な男。
その彼に、村の小さな女の子が、とてとてと駆け寄った。
「おじちゃん、これあげる」
差し出されたのは――飴玉、ひとつ。
ガルドの巨体が、びくりと固まった。
「……」
金色の竜眼が、飴を凝視する。赤黒い鱗の頬が、みるみる赤く染まっていった。
「……もらって、いいのか」
地の底から響くような低い声が、なぜか震えている。
「うん!」
ガルドは、そっと大きな手で飴を受け取った。そして――くるりと、そっぽを向いた。
その金色の目が、うっすら潤んでいる。
(……泣いてる? この人、飴一個で?)
「ガルド。甘いもの、お好きですの?」
「……別に」
嘘だった。だって次の瞬間、彼はわたくしが村人に配っていた水飴の壺を、恐ろしい真剣さで見つめていたのだから。
「あら。では、この水飴の壺を、そんなに真剣に見つめていらっしゃるのは何故かしら」
「……それは、何だ」
「わたくしが作った水飴ですわ。召し上がります?」
ガルドの尻尾が、ぱたん、と一度、地面を叩いた。
「……一つ、もらう」
(尻尾が地面を叩きましたわね。……耳が真っ赤なのは、黙っておいて差し上げましょう)
強面で無口な最強傭兵は、甘味の前では、この上なく素直だった。
◇
村に、身なりの良い一団が転がり込んできたのは、それから半月後のことだった。
泥にまみれ、憔悴しきった王家の使者たち。彼らは、わたくしの姿を見つけるなり、地面に膝をついた。
「クラウディア様! どうか、どうか都にお戻りください! 水を……水を、お願いいたします!」
セリカが、腕を組んで冷ややかに見下ろす。
「あら。偽物の聖女に、頼み事ですの?」
「そ、それは……!」
使者の後ろから、二つの人影が進み出た。
やつれ果てたユリウスと、泣き腫らした目のリゼット。かつて大聖堂でわたくしを断罪した二人が、今、砂まみれの膝を折る。
「クラウディア……」ユリウスの声は、掠れていた。「頼む。都が、滅びる。民が渇いて死んでいく。戻って、水を――」
わたくしは、静かに一枚の書類を差し出した。
「これを」
「……なんだ、この書類は。この、膨大な文字列は……」
それは、〈魔導浄水結界〉の全設計図だった。続けて、十年分の水質管理記録。膨大な計算式。制御魔術の術式。
「〈魔導浄水結界〉の全設計図。十年分の水質管理記録。制御魔術の術式。……ぜんぶ、わたくしの頭の中から出てきたものですわ」
ユリウスが、震える手で書類をめくる。理解できるはずもない。だが、その一枚一枚が、彼が「奇跡」と信じてきたものの、本当の正体だった。
「わたくしは、偽物の聖女でした。ええ、その通り」
「……なに?」
「奇跡なんて、一度も起こしていません。ただ――都の水を、十年間ずっと『動かして』いただけですの」
沈黙。
リゼットが、両手で顔を覆った。
「わたし……何も、できなかった……祈っても、祈っても、水は出なくて……ぜんぶ、あなたが……」
その肩が、細かく震える。祈りでは何も動かせなかった少女は、初めて自分の無力を、本当の意味で理解したのだ。
「祈りでは、一滴も動きませんの。それを、あなたは今、身をもって知りましたわね」
ユリウスは、設計図を握りしめたまま、膝から崩れ落ちた。
「偽物と……余が、偽物と断じた者が……都の、命脈だったのか……」
認識が、反転する。
聖なる奇跡だと崇めたものは、一人の技術者の頭脳だった。偽物だと切り捨てた女が、都のすべてを支えていた。
「気づくのが、遅すぎましたわね」
わたくしは、彼らを見下ろした。怒りも、憐れみもなく。ただ、済んだ帳簿を閉じるように。
「すまない……余が、間違っていた……だから、頼む……」
「でも――安心なさって。都の水は、止めたままにはしませんわ」
ユリウスが、はっと顔を上げる。
「本当か! では――」
「ただし。条件があります」
◇
「王家からの、完全な独立。そして、辺境一帯の水利権。この二つを認めていただけるなら、イリスレーヴの結界を再起動いたしますわ」
「そ、そんな……水利権を手放せば、王家の権威は――」
「では、都が渇いて滅ぶのをお選びになる?」
わたくしは微笑んだ。凪いだ翡翠の瞳のまま。
(さあ、どうぞお選びになって。命か、権威か)
ユリウスに、選択肢などなかった。彼は震える手で、独立と水利権の譲渡文書に署名した。
「……署名する。独立も、水利権も、すべて……」
「賢明なご判断ですわ。王妃の座も、婚約も、もう結構。あなたに差し出せるもので、わたくしの心を動かすものは何ひとつありませんの」
もはや、王妃の座も、婚約も、彼が差し出せるものは何ひとつ、わたくしの心を動かさなかった。
――そして、わたくしは都へ戻った。ただし、一度きり。結界を再起動するためだけに。
〈虹柱の塔〉の最奥。青白い魔術陣に、わたくしは再び指を走らせる。フェイルセーフを解除し、止めていた水源制御を、都へ返す。
ごう、と。
地の底から、水脈が息を吹き返す音がした。
濁っていた水面が、みるみる澄んでいく。給水網が脈打ち、都のすみずみへ、清らかな水が巡り始める。
「お嬢様、結界の再起動、完了いたしました。……ご覧ください、あの空を」
そして、涸れかけたイリスレーヴの空に――
虹が、かかった。
浄水結界を透過した光が、七色の弧を描く。かつて「聖女の奇跡」と崇められた、蜃気楼の輝き。
民が空を見上げ、歓声を上げる。だが、その虹は――もう、王家のものではなかった。
「ええ。虹が、かかりましたわね。……蜃気楼は幻。でも水は、本物ですわ」
幻を崇める者と、水を回す者。どちらが本物だったのか。
「幻を崇める者と、水を回す者。どちらが本物だったのか。……この空の虹が、その答えですわ」
塔を出ると、ガルドが待っていた。相変わらずの強面で、けれど手には、村の子からもらった飴を大事そうに握っている。
「終わったのか」
「ええ。これから忙しくなりますわ。技術者ギルドを興します。祈らなくても水が出る都市を、各地に築くの」
わたくしは新しい書類を掲げた。
「ガルド、護衛を続けてくださる?」
ガルドの尻尾が、ぱたん、と揺れた。
「……報酬は」
「わたくし特製の、砂糖菓子と水飴。生涯、食べ放題で」
金色の竜眼が、かっと見開かれた。赤黒い鱗の頬が、また赤く染まる。
「……契約成立だ」
あまりに早い即答に、後ろでセリカが吹き出した。
「まあ、ガルド様ったら。即答でしたわね。お嬢様のためというより、お菓子のためでは?」
「……両方だ」
ぼそりと呟かれた一言に、セリカが「あらあらまあまあ」とにやにやする。わたくしは気づかないふりをして、砂漠の地平を見つめた。
次の渇いた都市が、どこかで待っている。
「さあ、行きましょう。次の渇いた都市が、どこかで待っていますわ」
虹を背に、わたくしたちは歩き出す。
「祈りではなく、技術で。幻ではなく、本物の水で――世界を、潤していくために」
(――なお、元婚約者からの復縁のお手紙は、丁重に暖炉へくべさせていただきましたわ)




