クッキーと庭の約束
十五分ほど経って、ギルバートが戻ってきた。
手に、皿を持っていた。
フェリシアは目を瞬かせた。執事でも侍女でもなく、ギルバート本人が皿を持って戻ってきた。
皿の上に、クッキーが載っていた。
丸い、素朴なクッキーだった。焼き色は均一で、火の通りは悪くない。ただ、表面に何か模様が押してある。
フェリシアは目を凝らした。
花だった。
不器用な、丸っこい花の模様が、クッキーの表面にひとつひとつ押してあった。
ギルバートはフェリシアの前にそっと皿を置いた。それから腕を組んで、窓の方を向いた。フェリシアを見ない。
「……食べろ」
フェリシアはクッキーを見た。花の模様を見た。
「あの」
「……なんだ」
「この模様は、公爵様が」
「……食え」
ギルバートはフェリシアを見ないまま、低い声で繰り返した。その耳が、心なしか赤かった。
フェリシアはクッキーを一枚取った。
齧ると、素朴な甘さが広がった。バターの香りがして、少し塩が効いていて、嫌みのない味だった。
「……おいしいです」
ギルバートは何も言わなかった。
でも窓の外を向いた横顔が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
クッキーを半分ほど食べたところで、フェリシアは窓の外に視線を向けた。
雨が上がっていた。
雲の切れ間から、夕方の光が差し込んでいる。その光が、荒れ果てた庭を照らしていた。枯れた木々の影が、土の上に伸びている。
「……公爵様」
「なんだ」
「庭を、拝見してもよいでしょうか」
ギルバートが振り返った。
「庭を」
「はい。先ほど窓から見えたのですが、少し気になって」
ギルバートはフェリシアを見た。フェリシアはまっすぐ返した。
「……好きにしろ」
庭に出ると、雨上がりの冷たい空気が頬に触れた。
フェリシアは枯れた花壇の前にしゃがんだ。土に指を差し入れる。固い。ひどく固い。
長い間、何も育てられず、踏み固められた土だ。水はけも悪い。栄養もほとんど残っていない。
でも。
「……死んではいない」
フェリシアは呟いた。
土の奥の方に、かすかに何かが残っている。長い眠りの中で、息をひそめているものがある。
後ろで、足音がした。ギルバートがついてきていた。フェリシアが振り返ると、彼は少し離れたところに立って、こちらを見ていた。
「公爵様、この庭はいつから」
「……十年ほど」
十年。フェリシアは土を見た。
十年間、何も育たなかった庭。それでも土の奥に、まだ何かが残っている。
「あの」
フェリシアは立ち上がり、ギルバートの方を向いた。
「私の魔法は、地味なものです。派手な光も出ませんし、戦いにも使えません。ただ植物を育てることしかできない」
ギルバートは黙って聞いている。
「でも、この庭を……私の魔法で、直させていただけませんか」
沈黙が落ちた。
風が吹いて、枯れた枝が揺れた。
ギルバートはフェリシアを見ていた。その目が、何かを測るように、静かにこちらを見ていた。
「……雑草でも育てるつもりか」
フェリシアは一瞬、胸が痛んだ。
それは実家で何度も言われた言葉だった。
でも、ギルバートの声に棘はなかった。ただ、聞いているだけの声だった。
「……雑草でも、ちゃんと育てます」
フェリシアはまっすぐ答えた。
「どんな場所でも、どんな土でも。咲かせてみせます」
ギルバートはしばらく、フェリシアを見ていた。
それから、ゆっくりと視線を庭に向けた。十年間、枯れたままだった庭を。
「……好きにしろ」
低い声が、夕暮れの庭に落ちた。
フェリシアは頷いた。
しゃがんで、もう一度土に触れた。
指先から、微かに温かいものが流れ出る感覚があった。植物魔法の、始まりの感触だ。
土が、ほんの少し、柔らかくなった気がした。
立ち上がったとき、枯れ木の一本の、細い枝の先に、小さな緑の点が見えた。
芽だった。
フェリシアは息を呑んだ。
振り返ると、ギルバートもそれを見ていた。
何も言わなかった。
ただその目が、フェリシアがこれまで見たことのない色をしていた。
その夜、執事のホレスがギルバートに報告を入れた。
「奥様は、夕食を厨房で召し上がりました。料理人と、食材の話をされていたようで」
ギルバートは窓の外を見たまま、答えなかった。
「……それから、明日の朝に庭師を手配してほしいとのことでした。土を耕すのを手伝ってほしいと」
「手配しろ」
「かしこまりました。それから公爵様」
「なんだ」
「奥様が、大変おいしかったと」
ギルバートは窓の外を向いたまま、何も言わなかった。
ホレスは口元に手を当てて、静かに部屋を出た。




