意外な迎え
出発の朝は、雨だった。
前日から降り始めた雨は、夜のうちに嵐になった。風が屋敷の窓を揺らし、雨粒が石畳を叩いている。
「馬車の用意は」とフェリシアが尋ねると、使用人が目を逸らした。
「……奥様より、馬車は出せないと」
「そうですか」
フェリシアは頷いた。
驚かなかった自分に、少し驚いた。
荷物をまとめ、外套を羽織った。
荷物は小さな鞄ひとつだ。植物図鑑と、庭仕事の手袋と、着替えが少し。それだけ持てば十分だった。
厨房に寄り、マーサに庭のことを頼んだ。マーサは何も言わずにフェリシアの手を握った。その手が少し震えていた。
「ご無事で」
それだけ言って、マーサは顔を背けた。
フェリシアは玄関を出た。
雨が、外套を叩いた。
石畳が濡れて光っている。風が正面から吹き付けてくる。フェリシアは鞄を胸に抱え、俯いて歩き始めた。
見送りはいなかった。
振り返らなかった。
屋敷の門を抜けたとき、背後で窓の開く音がした。誰かが見ているのかもしれなかった。でもフェリシアは、振り返らなかった。
雨の中を、ただ歩いた。
公爵邸までの道のりは、馬車で二時間ほどだと聞いていた。歩けば、どのくらいかかるだろう。
考えても仕方がなかった。
フェリシアは顔を上げた。
雨が頬を濡らした。それが涙と混じっても、どちらがどちらかわからなかった。
ただ、足を前に出した。
一歩、また一歩。
風が強くなった。
それでも、フェリシアは歩き続けた。
どのくらい歩いただろう。
雨は弱まるどころか、強くなっていた。外套はとうに濡れ透き、鞄を抱える腕が冷えて痛い。
石畳が途切れ、土道になったところで、フェリシアは足を滑らせた。
膝をついた。
泥が、ドレスに跳ねた。
立ち上がろうとして、また風に煽られた。
(情けない)
そう思いながら、それでも立ち上がった。
鞄の中の植物図鑑が濡れていないか確かめた。外套で包んでいたから、大丈夫なはずだった。
顔を上げると、遠くに灯りが見えた。
大きな門と、その奥に広がる屋敷の輪郭。
ウィンストン公爵邸だった。
フェリシアは息を吐いた。
門に向かって歩き始めたとき、蹄の音が後ろから聞こえた。
振り返ると、黒い馬に乗った人影が、こちらに向かって駆けてくるところだった。
馬が止まった。
人影が馬から下りた。
黒い外套に、雨粒が弾けている。
顔が見えた。
フェリシアは目を瞬かせた。
「……あなたは」
ギルバートだった。
彼はフェリシアを一瞥して、それから鞄に視線を落とした。泥だらけの外套に。濡れた頬に。
何も言わなかった。
ただ、自分の外套を脱いで、フェリシアの肩にかけた。
「……っ、あの、そんな」
「黙れ」
短く言って、ギルバートはフェリシアの鞄を取り上げた。そのまま馬に括りつける。
「乗れ」
「え」
「馬に、乗れ」
フェリシアはギルバートの顔を見た。
雨に濡れた横顔は、やはり恐ろしいほど整っていた。でもその目は、先日の夜会の暗い庭で花を見ていたときと、同じ目をしていた。
フェリシアは頷いた。
ギルバートが手を差し伸べた。大きな、武骨な手だった。
その手を借りて、フェリシアは馬に乗った。
ギルバートが後ろに乗り、手綱を取った。フェリシアは前で、鞄があった場所に両手を置いた。
「……なぜ、こちらへ」
小さな声で聞くと、短い沈黙の後、答えが返ってきた。
「……迎えに来た」
それだけだった。
雨の中、馬が歩き始めた。
公爵邸の灯りが、少しずつ近づいてくる。
フェリシアは前を向いたまま、ギルバートの外套の襟を両手で掴んだ。温かかった。
(迎えに来てくださった)
その言葉が、雨音の中でゆっくりと沈んでいった。




