嵐の前に
縁談の話が届いたのは、夜会から五日後のことだった。
朝食の席で、父が封書を開いた。
フェリシアはいつものようにテーブルの端に立ち、水差しを持っていた。
カサンドラが欠伸をしながらパンをちぎり、継母が紅茶のカップを持ち上げる。
父が封書を読む間、誰も口を開かなかった。
やがて父が顔を上げた。
その表情が、いつもと違った。
「……ウィンストン公爵から、縁談の申し入れだ」
継母がカップを置いた。
カサンドラの手が止まった。
「ウィンストン公爵、と言いますと」
「ギルバート・ウィンストン。北方の大公爵だ。領地は広い。家格は……我々より、はるかに上だな」
父は封書をテーブルに置き、眼鏡を外した。
「相手として指定されているのは、ルミナリス家の娘、とだけある」
沈黙が落ちた。
カサンドラが、ゆっくりとフェリシアの方を向いた。
その顔に浮かんでいたのは、驚きではなかった。
「化け物に喰われるのは、お姉様がお似合いでしょう」
昼過ぎ、廊下でカサンドラに呼び止められた。侍女たちはいない。カサンドラはフェリシアの前に立ち、扇を開きながら言った。
「ちょうど良かったんじゃないかしら。お姉様、ここにいても雑草の世話しかすることないんだもの」
「……カサンドラ様」
「氷の魔王ですって。社交界でも近寄る人がいないくらいよ。呪いがかかっているとか、触れた者は皆死ぬとか。まあ、噂だけど」
カサンドラは扇で口元を隠しながら、くすりと笑った。
「でもお姉様なら大丈夫じゃないかしら。雑草って、どこに植えても生えてくるものでしょう」
それだけ言って、カサンドラは踵を返した。廊下の角を曲がり、その笑い声が遠ざかっていく。
フェリシアは廊下に一人残された。
壁に手をついた。
息を、ゆっくりと吐いた。
怖くない、と言えば嘘になる。氷の魔王という呼び名の意味くらいは、フェリシアにもわかる。
先日の夜会での印象とは、随分かけ離れているけれど。
でも。
(あの方は、水をやっておくと言ってくださった)
暗い庭で、黙って隣にしゃがんでいた背中を思い出した。
フェリシアは壁から手を離し、背筋を伸ばした。
父に呼ばれたのは、その夕方だった。
書斎に入ると、父は机の前に座っていた。継母が、その隣に立っている。
「フェリシア、縁談の件だが」
父は書類に目を落としたまま言った。
「受けることにした」
「……はい」
「ウィンストン公爵家は格式のある家だ。ルミナリス家にとっても、悪い話ではない」
フェリシアは父の顔を見た。
父は書類から目を上げなかった。
「お父様」
「なんだ」
「……私の意向は、聞かれないのですか」
短い沈黙があった。
父がようやく顔を上げた。その目には、迷いがあった。確かにあった。
でもそれは一瞬で、次の瞬間には継母の方を向いていた。
継母は何も言わなかった。ただ、静かに父を見ていた。
「……家のことを考えなさい」
父は言った。
「お前だって、いつまでもここにいるわけにはいかないだろう。良い機会だ」
フェリシアは一秒、父の目を見た。
「……承知いたしました」
頭を下げて、書斎を出た。
扉が閉まる音を、背中で聞いた。
その夜、フェリシアは庭に出た。
荷造りは、大して時間がかからなかった。
もともと持ち物が少ない。
ドレスが数着と、母から受け継いだ小さな植物図鑑と、庭仕事の道具。それだけだった。
庭の白い小花は、添え木のおかげで少し持ち直していた。折れた茎から、また新しい芽が出始めている。
フェリシアはしゃがんで、その芽に触れた。
「私、行くことになったわ」
花が揺れた。
「でも大丈夫。マーサに頼んでおく。水のやり方も、土の具合も、全部教えておくから」
そう言いながら、土の様子を確かめた。
明後日の出発までに、やっておくことがある。土を少し柔らかくして、水はけを良くしておく。肥料も足しておいた方がいいかもしれない。
フェリシアは無心に手を動かした。
どのくらい時間が経っただろう。気がつくと、空が白み始めていた。
立ち上がり、土で汚れた手を見た。
(雑草を育てるだけの無能、か)
カサンドラの言葉が、耳の奥に残っていた。父の、書類から目を上げなかった横顔も。
でも花たちは、毎日ちゃんと応えてくれた。
それだけは、本当のことだった。




