偶然の出会い
庭に出ると、空気が変わった。
室内の熱気と香水の匂いが薄れ、夜の冷たさが頬に触れる。
フェリシアは少しだけ、息をついた。
庭は広かった。
明かりは届いているが、会場から離れると人の姿もまばらだ。石畳の小道を歩いていくと、花壇が見えてきた。
フェリシアは足を止めた。
手入れの行き届いた花壇だったが、端の方に一株だけ、元気のない花があった。
茎がわずかに傾いて、葉の色が薄い。水が足りないのか、それとも根に何か問題があるのか。
フェリシアはドレスのことも忘れて、しゃがみ込んだ。
土に指先を差し入れて、様子を確かめる。
乾いている。今日は日中も乾燥していたから、水切れだろう。
「……大丈夫よ、ちゃんと咲けるから」
そう囁いた瞬間だった。
「……何をしている」
低い声が、背後から落ちてきた。
フェリシアは飛び上がりそうになりながら振り返った。
暗がりに、男が立っていた。
背が高い。軍人のような体格だが、今夜は飾りを外した黒い上着を着ている。
顔が影になっていてよく見えない。
ただ、声の低さと、その立ち姿の圧だけで、フェリシアの心臓が跳ね上がった。
「す、すみません、この花が元気がなかったので、つい……」
しどろもどろになりながら立ち上がる。ドレスの膝に土がついていた。
男は答えなかった。ただ、フェリシアが指差した花の方に視線を向けた。
しばらく、沈黙が続いた。
「……名前は」
「フェリシア・ルミナリスと申します。今夜はカサンドラ・ルミナリスのお付きで参っております。あの、失礼ですが、あなたは……」
男はフェリシアを見た。
暗がりの中でも、その目が真っすぐこちらに向いているのがわかった。
「………………」
長い沈黙の後。
「……客だ」
それだけだった。
フェリシアはまばたきをした。
客。なるほど、確かに客ではある。
でも普通、もう少し名乗るものではないだろうか。もしかして、名前を言いたくない事情がある方なのだろうか。
「そうですか。……あの、ご不快でしたら、すぐにこちらの場所を離れますが」
「……いい」
男はそう言って、フェリシアが先ほどまでしゃがんでいた花壇の前に歩いてきた。そして何の躊躇もなく、隣にしゃがんだ。
フェリシアは少し驚いた。礼服でそのまま地面に膝をつく貴族男性を、見たことがなかった。
「これが、おかしいと気づいたのか」
低い声で、男が言った。花に視線を落としたままだ。
「……はい。葉の色と、茎の傾き方が。水が足りていないようで」
「……ほかの株と、何が違う」
「根の張り方だと思います。この株だけ、少し浅いところに植えてあるようで。乾燥しやすいんです」
男は黙って聞いていた。
フェリシアは気がついたら、話し続けていた。植物の好む土の深さのこと、水の与え方のこと、日当たりと根の関係のこと。
普段は誰も聞いてくれないことを、この暗い庭でひとりの見知らぬ客に向かって話していた。
男は一度も遮らなかった。
相槌もほとんどなかった。ただ、黙って、聞いていた。
それが不思議と、居心地よかった。
「……あなたは、花が好きなのか」
しばらくして、男が言った。
「はい」
フェリシアは迷わず答えた。
「好き、というより……家族みたいな感じです。ちゃんと応えてくれるので」
男はそれを聞いて、何も言わなかった。
ただ、花に視線を戻した。その横顔が、先ほどよりほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。
「お姉様!」
声がして、フェリシアは顔を上げた。
会場の方から、カサンドラが歩いてくる。オーロラの展開が終わったらしい。
その後ろに、数人の令嬢と、それからアルヴィンがついてきていた。
「こんなところにいたの、探したじゃない。もう帰るわよ」
カサンドラが足を止めたのは、次の瞬間だった。
フェリシアの隣に、男がいることに気づいたのだ。
立ち上がった男の顔が、庭の明かりに照らされた。
カサンドラの顔から、血の気が引いた。
「……ギ、ギルバート・ウィンストン公爵……」
令嬢たちが息を呑む気配がした。
フェリシアは男の顔を見た。それからカサンドラを見た。
ギルバート・ウィンストン。氷の魔王、と呼ばれているという噂は聞いたことがあった。
戦場で幾多の敵を屠り、その冷酷さで知られる軍人公爵。社交界では近寄りがたい存在として名高い。
「あ……あの、先ほどは失礼いたしました。お名前もお伺いせずに」
フェリシアが頭を下げると、ギルバートはフェリシアを一瞥して、それからカサンドラたちに視線を向けた。
「……帰るか」
フェリシアに向けて、静かに言った。
命令ではなく、確認するような言い方だった。
「……はい」
「根元に、水をやっておく」
それだけ言って、ギルバートは踵を返した。長い足で、静かに夜の庭を歩いていく。その背中が暗がりに消えるまで、誰も口を開かなかった。
「……感じの良い方でしたが」
フェリシアが小さく呟くと、カサンドラが信じられないものを見るような顔でこちらを向いた。
「あなた、何も知らないの!?」
「はあ」
「あの方が誰だかわかってるの!?」
「ギルバート・ウィンストン公爵様、でしょうか」
「だったらなぜそんなに平然としているの!」
フェリシアには、よくわからなかった。
ただ、暗い庭で隣にしゃがんで、黙って話を聞いてくれたあの人が、そんなに恐ろしい人には思えなかった。
少し離れたところで、アルヴィンが静かに笑っているのが見えた。




