没薬の檻と跪く魔女ーThe Myrrh Cage and the Kneeling Witchー
【Dark fantasy】
The Myrrh Cage and the Kneeling Witch
没薬の香りが、満ちていた。
魔女アルカは、違和感を覚えた。
あれほど支配的で高圧的だった、レイの炎の心臓が――沈黙している。
魔女は、理解した。
宝石は、宝石箱を変えるように、レイという古い入れ物を捨て、魔女という新しく強い器に乗り移ろうとしているのだと。
永遠の黄昏にいた最後の魔物は、魔女アルカだった。
しかし、魔女は今、確信した。
さらにもう一体、魔物がいたのだと。
最初の魔物。
すべての始まりにして、すべての終わり。
夢幻の、炎の心臓。
魔女アルカは、レイに手をのばし、その肌に触れた瞬間に気付いた。
自分もまた、激しく焦がれ、黄昏に誘い込まれた一人なのだと。
レイの心の空洞に入り込み、甘き死の芳香をもって誘惑した。
まんまと捕らえた美しい獲物を腕に抱き、慈しみ、弄び、吸い付くした。
そして最後に、いよいよ「食すれば魔力を数百倍に高める」、かの心臓をえぐり出すべく、レイの胸に紅い薔薇色の唇を這わせた時ーー魔女アルカは知った。
雄蟷螂を食す雌蟷螂のつもりでいたのは、しかし間違いだったと。
自らの下で喘ぐ哀れな雄と思われたのは、
そうと擬態した妖しき――妖しき魔女よりもさらに妖しき――食虫植物だったのだ。
甘い蜜で誘い、触れた獲物を逃さない。
男の「弱さ」は、罠だった。
男の「優しさ」は、擬態だった。
いや――違う。
魔女は気づいた。
器の男ーーレイ自身ではなく、その中に宿る心臓こそが――獲物を待つ食虫植物なのだと。
心臓は魔女アルカが触れるのを待っていた。
その魔力を逆に吸い付くし、支配する為に彼女を呼んだ。
魔女アルカは抗う。
しかし彼女自身の解き放った熱情と蠱惑は、周囲に満ちた没薬の香りの檻に魔女を捕らえ、離さなかった。
細い首に、手が回された。
強い力。
抗えない力。
朦朧とする意識に、力強い声が語りかける。
レイの声。
美しいが無知な、他愛もない生物だと、魔女が見下していた者の声。
「他人から奪う事も壊す事も、やろうと思えばたぶん、いつでも出来たんだ――ただ、やりたくなかった。だがあんたは、母と亜瑠花を――。だから、手心は加えない」
冷徹な声だった。
「どうする?選べ」
選択を迫るーー破滅が、屈従か。
「あんたが、俺の代わりに器になるなら譲ってやる。ずっと心臓に抵抗してきた俺と違って、あんたはたちまち、意思持たぬ奴隷になるだろうがな」
魔女アルカは、理解した。
すでに、取り返しのつかない沼に自分が嵌ったのだと。
「俺が望んだ闇と言ったな。だがいまはその闇に、あんたも溶けて混じっている。さあ、選べ。食われるのは案外悪くない快楽かもしれないぞ。あんたに食われかけた経験からいうのだが」
レイが力をこめる。
魔女は身悶えした。
振り離せない。
一番良い手は、心臓を諦め、可能なら魔法の炎でレイを焼き尽くし、この場から去る事だ。
だが――
「レイ」
魔女は、苦しげに呟いた。
「お前は、それでいいのか」
首を締める手に、力が込められる。
「私にそいつを押し付ける機会だったのに。黙ってそいつに私を食わせれば、お前は平穏に死ねたのに」
レイは、答えなかった。
ただ、無言で選択を迫る。
魔女の選択。
このまま、心臓に支配され、無限の力を持つ意志のない美しい魔女として永劫を生きるか。
抗い、レイに心臓の力を抑えてもらい、力を半分近く奪われた弱き魔女として逃げ延びるか。
レイは言う。
「亜瑠花が転落したのは、時動かない永遠の黄昏だった。だから、即死でなければ、助けられる。まだあの子の時間は動いていない――取引だ。ファウストくらいは読んでいる。俺が死んだら魂も心臓も、お前が持っていけるものは全てくれてやる。だから俺が生きているうちは、俺に従え」
人間などに膝を屈するくらいなら、このまま身を焦がす悦楽の熱情に身を任せ、破滅するのも魔女らしくてよかろう――魔女アルカはそうも考えた。
炎に身を投じる蛾のように、快楽と共に滅びることは、恐れなかった。
しかし、その選択をしなかったのは、この男に――見た目よりは何倍もしたたかな、人形のような美しい男に――初めて、本当の意味で興味を持ったからだった。
永劫の時を生きる故の永遠の孤独の、あるいは退屈しのぎくらいにはなる男か?
魔女は紅玉の目を細め、レイの青い目を射抜いた。
そして、艶やかに微笑んだ。
「わかった」
魔女の声が、初めて柔らかくなった。
「私は、お前に命乞いをするとしよう」
魔女アルカは、レイに口づけた。
体の中に満ちていた心臓の力が、自分の魔力の一部と共に、男に吸われていくのを感じる。
焼かれ、奪われ、蹂躙される感覚。
それは、快楽のようですらあった。
魔女は深い溜息をつき、身を任せた。
こうして、魔女アルカは敗北した。
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