魚怪の罠と訪れし巫女②
【Japanese-inspired fantasy】
The Fish-Fiend’s Snare and the Shrine Maiden’s
真名を明かすわけにはいかない。
だが、私は由緒あるダーナ神族の末裔にして、英国に居を構える妖精の王女だ。
人はただ、今の私を「魔女」と呼んだ。
グラストンベリーの我が住処は、人間の街のすぐ裏側にある。
次元の狭間と呼ぶ者もいれば、異界と呼ぶ者もいる。
小さな石で囲まれたサークルの中、使われていない煙突の内側、或いは自動販売機の裏側と、いたるところに我が住処への入り口はある。
ただ、人の子の感覚では気付きにくいようだ。
全く哀れな生き物たちだ。
私は長く生きているが、それは人の世界から見ての事であり、私の世界での私は、若く美しいと自負している――時の流れそのものが、人の世界とは違うのだ。
息苦しい。
狭い。
私は今、水の中にいるのだろうか。
まあよい――今しばらく記憶をたどろう。
◇◇
あの日、珍しく人間の小娘が迷い込んできた。
なんと愚かな事に、当人は迷い込んだ事に全く気づかず――
あろうことか、我が家の前のローワンの木に、恋呪いの願掛けをしていった。
あまりの愚かさに呆れて見ていると、さらに恐ろしいことに――
「ああーっ、お腹空いちゃった! サンドイッチ作ってきて良かったよぉ」
――などと頓狂な声をあげ、チェダーチーズとリンゴの、なんとも美味そうなパンにかぶりつきおった。
我が家の前で。
我が結界の中で。
何の許可もなく。
誓って言うが、私はそのあまりの不遜さに腹が立って、小娘を眠らせ、サンドイッチを取り上げてやっただけだ。
ふん、バカな小娘め、目醒めたらせいぜいピィピィ泣くが良い。
サンドイッチをたいらげた。
美味。
ふと目をやると、小娘の手には一枚の写真があった。
どうやらこの男が、恋呪いの意中の男か。
どらどら――
なんだ、こいつ。影に纏わりつかれているではないか。
これはまもなく死ぬだろう。
顔はなかなか美しいようだが、美しいものほど薄命なのは世の常だ。
小娘には気の毒だが――ん?
違和感。
何かある――
写真の男の、心臓が赤く燃えていないか。
まるで夏至祭の太陽に捧げられる心臓のように――いや、もっともっと強く。
私は指先を写真の心臓部に這わせ、魔力探知を試みた。
「はうっ!」
迂闊にも、声が漏れた。
残存魔力とは思えぬ激しい迸りが、私の全身を貫いた。
あの炎の心臓――。
あれの本体は、どれほどの魔力を秘めているものか。
あるいはあれを喰らえば、我が魔力は数百倍にも高まるのではないか。
私はまるで熱病にかかったように、炎の心臓に焦がれてしまっていた。
なんとかして、あの心臓の持ち主に近づけないものか。
ふと、小娘が写真と一緒に持っていた書きかけの手紙が、目に入った。
「来週、帰国する?――東方人か。ジーパングの男か、こいつは」
私はもう抑制がきかなかった。
多大な魔力を消費する大魔法を用いて、体を霧状にし、小娘の空になったバスケットに入り込んだ。
さあ、小娘。
私を案内するが良い。
あの、夢幻たる炎の心臓のもとへ。
◇◇
意識混濁。
そうだ――そして私は、誘われ、罠に嵌り、焼きつくされるところを危うく――
あの男との契約で救われて――
あの男。
あの男?
誰だ。
私に縋り、私を貪り、時に私を辱め、時に我を救った――
忌々しい、くだらない、大切な男――
いや、心臓の入れ物として大切な男――
いや、そうだったか――
なんといったか。
ルイ、ライ、レイ――。
レイ!!
その名と共に、私の意識は完全に覚醒した。
私はいま、この金魚とか言う不細工な魚に封じられ、水中を漂っている。
ガラスケース越しには、その男――レイが、抜け殻になった私の体を激しく揺さぶりながら、何やら叫んでいるのが見える。
なんとかしなければ。
私を閉じ込めている金魚の意識に接触を試みる。
駄目だ。
知性のない物の意識に接触すると、ぬめぬめとした舌で脳を直接舐められているような感覚に陥ってしまい、耐えられない。
こうなれば、あの男を頼るしかない。
私があの男と逆の立場ならどうするか。
決まっている。「ヤツザキコウリン」で――。
私は自分の考えにゾッとする。
レイに切断魔法は使えないが、炎の拳がある。
あれで目覚めるまで殴ろうなどと考えられたら――
いや、何をバカな。
どうやら魚類の小さな脳に封じられた事で、まともな思考ができなくなっているようだ。
まともな思考ができない今だからこそ、言おう。
言える。
「レイ――」
私は、金魚の中から叫んだ。
私を救ってくれ」
◇◇
ドサッ
物音に気づいて振り返ると、アルカが倒れていた。
一瞬、またふざけて揶揄っているのかと思ったが、すぐに違うと分かった。
ふざけているなら、アルカは絶対にこんな無防備な姿で倒れない。
無意識に計算して、品がよくしかし扇情的かつ、襲われた際にすぐ反撃できるポーズで、倒れたフリをするはずである。
しかし今のアルカは、頭から座布団に突っ込むような形で、足も半開きのあられもない姿で倒れている。
むしろ、座布団がそこにあったのが幸運と思える。
レイはアルカを仰向けにし、脈をとる。
動いているーー生きている。しかし、弱々しい。
周囲を警戒する。
アルカほどの力ある魔女を一撃で倒したなら、それは恐るべき強敵のはずだ。
しかし、邪気は全く感じない。
敵ではないのかーー?
ならば、何かの病気とか魔力切れか?
いや、病気はともかく、エネルギーが切れたロボットのようにいきなりバタンとは倒れないだろう。
「アルカ、おいアルカ!ーーダメだ。心拍数が弱くなる」
こんな時、立場が逆だったらアルカはどうするだろうう。
いや、決まっている。「ヤツザキコウリン」で解決するだけだ。
レイは頭を振った。だめだ、動転しているようだ。
「よし」
ぱん。
両掌で顔を叩き、意を決してアルカの上着を脱がす。
自分でも嫌になる、慣れた手つきでフロントホックを外し、心臓の辺りに直接手を当てる。
「お前が欲しがって、お前が拒絶した心臓の力を、少しだけ分けてやる」
しかし、力は移動しない。
「チッ」
わかっていた。心臓は冷ややかにアルカを見捨てようとしている。それが嫌ならーー
(ああ、いいさ。おい、臓物。俺の心臓よ。使った力の分、お前に俺の体を「わけてやる」)
頭の中に、声が響く。
(Lirach Tasa Vefa Wehlc Belial 器の王は器の願いを聞き遂げ、68番目の鍵を開けり)
体内に炎が湧き上がり、生命力の奔流となって、アルカの肉体に注入されていく。
アルカの心臓が、強く脈打ち、形の良い胸が上下する。
「肉体はこれでいい。あとは、アルカの魂を探さないとーー仕方ない」
スマホを取り出し、電話をかける。
「あ、母さん? 突然すまない。頼みがあるんだ」
◇◇
御神流は関東北部を中心に、代々神事に関わってきた神道の流派だ。
「玲ちゃん、すぐ行くからね」
神木麗子、38歳は走っていた。
道ゆく人はみな、振り返る。
まだ、二十代後半にしか見えない容姿。
別に体のラインが浮くような服でもないのに、隠し切れぬ完璧なプロポーション。
レイによく似た、白い雛人形のような整った顔に、汗が浮き、薄い椿の香りが周囲に撒かれる。
18で結婚し、レイを出産するまでは、歴代最強の神力を持ち、邪気祓いの専門家だった。
引退し、主婦になっても神力は衰えず、時に生き霊を飛ばすほどの術も使う。
普段は夫の会社で、その事業を手伝っている。が、プロジェクトは難航し、損失も大きく、大事な息子への仕送りも滞ってしまっている。
しかし、そんな息子から助けを求める電話が来た。
一も二もなく家を飛び出して、新幹線に飛び乗った。
「この口座、ずっと放置でしたけれどーーカードが止まってなくて良かった」
間に合えばいいけれどーー麗子は呟く。
愁いの睫毛がかすかに震えた。




