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悪魔法違反につき、契約は無効です

掲載日:2026/01/23

ふと思いつきました

続きを思いついたら連載します



「第42条、えー…公序良俗違反の禁止…悪魔は、公の秩序又は善良の風俗に反する願いを履行してはならない。2、前項に該当する願いを内容とする契約は、無効とする──」


 駄目だ。

 まるで頭に入ってこない。

 文字が意味をなさず、ただの黒い虫の死骸のように紙面にへばりついているだけに見える。


 志波彰は手元にある分厚い革装丁の本を睨みつけ、肺の底に澱んだ熱い空気をすべて吐き出すように、深々とため息をついた。


──眠気を誘う午後の日差しは暴力的ですらある。  

 何年も磨かれていない窓ガラスを透過した光が、室内に気怠い黄金の帯を描いていた。舞い上がった埃が優雅に、そして無関心に浮遊している。  


 雑居ビルの一階、その奥まった一角。  


 磨りガラスの入ったドアには、剥げかけたカッティングシートで『志波相談所』と記されている──亡き祖父が遺したこの城を、彰が埃まみれの鍵で再び開いたのは、つい先日のことだった。


「クソ、意味わかんね……」


 独りごちた声が、乾いた床に落ちる。

 もう三十分は同じページと睨み合っている。だが、羅列された無機質な活字の群れは意味のある文章として結像することなく、ただの黒い染みとして網膜を通過していくだけだった。


 正直に言えば、この手の小難しい条文や解釈など彰の性分には合わない。得意か不得意かで言えば、間違いなく後者だ。机にかじりつくより身体を動かす方が性に合っている。


 だが、ここで匙を投げるわけにはいかなかった。

 これを修めなければ彰の人生は本人の意思とは無関係に、母が周到に敷設したレールの上へと自動的に流されていくことが確定している。

 管理という名の束縛。彰にとって、それは緩やかな窒息死と同義だった。


 祖父が孫娘にと遺してくれた最初で最後の蜘蛛の糸。何としてでも掴み取らねばならない。

 彰は手首に巻いていた黒いヘアゴムでもって視界を遮る鬱陶しい髪を束ね上げた。項があらわになり、空気が冷やりと触れる。

 眉間を揉みほぐし、気合を入れ直して、再び忌々しい活字の海へとダイブしようとした──その時だった。


 不意に、事務所のドアが軋んだ音を立てた。

 弾かれたように顔を上げると、入り口に一人の男が立っていた。

 年齢は二十代後半ほどか。だが、その背負っている疲労感は老人のそれだ。


 仕立ての良さそうなスーツは見るからにヨレており、肩には白いフケが雪のように浮いている。何より異様だったのは顔色だ。土気色の肌に、病的なほど濃い隈がコールタールのように張り付いている。

 まるで気という燃料が枯渇し、惰性だけで立っているような危うさがあった。


「ここって、その……変な相談も聞いてくれるって、噂で……」


──変な相談。


「まあ、内容によりますけど」

「……悪魔と、契約したかもしれなくて」


 その単語が鼓膜を震わせた瞬間、開いていた本を乱雑に閉じ、男の濁った瞳を射抜くように見据えた。


「詳しく聞かせてください」

 




──悪魔は実在する

 それは御伽噺の住人でも、宗教画に描かれた象徴でもない。人間界とは位相を異にする次元に彼らの社会は確かに存在する。そこには鋼鉄の規律があり、絶対的なヒエラルキーが聳え立ち、そして──逃れることのできない「ノルマ」が存在する。


 かつて祖父は言っていた。人間の会社組織など及びもつかないほど、彼らの社会は過酷でどす黒い、と。


 彼らは人間と契約を交わす。それは親切心などというものではなく、ただ己の利益を、人の魂を求めるため。

 魂こそが悪魔にとっての通貨であり、出世のための実績であり、存在を維持する糧なのだ。


 だが、彼らは暴力によって魂を奪うことはできない。遥か太古、ソロモン王が制定した絶対のルール──『悪魔法』が、彼らを縛り付けているからだ。


 悪魔法に従う限り、悪魔が罰せられることはない。

 だから彼らは『契約』という形式に固執する。どれほど詐欺まがいの手口であっても、人間が自らの意志でサインをし、契約書に判を押してしまえば、それは法的な『合意』となる。魂の譲渡は正当化されるのだ。


だが、逆もまた真なり──悪魔法に違反している瑕疵さえ見つけ出せば、契約は無効にできる。


問題は、人間よりも遥かに狡猾で、数千の時を生きる彼らが仕組んだその極小の違反を、こちらの目が捉えられるかどうかなのだ。


そう、悪魔法をもとに契約書の条文に隠された違反や矛盾を突き止める。それこそがソロモン王の末裔である祖父から受け継いだ家業であり、現在の彰の仕事だった。


「…………」


 彰は手元の名刺と、目の前の男を交互に見比べた。

 使い込まれた木のテーブルに置かれた名刺には、『三島健太』という文字と共に、都内でも五本の指に入る大手総合商社のロゴが箔押しされている。

 就活生なら誰もが羨み、その社名を口にするだけで周囲の空気が変わるようなブランド企業だ。名刺一枚が、そこらの純金よりも重い輝きを放っている。


 だが正直なところ、とてもそんなエリートには見えない。

 覇気はなく、背中は枯れ木のように丸まり、視線は常に中空を彷徨っている。

 「人は見かけによらない」という言葉があるが…ここまで乖離していると、名刺を拾っただけの別人ではないかと詐称を疑いたくなるレベルだった。


「三ヶ月前なんです。ずっと、彼女ができなくて。それこそ十年近く……合コンも、マッチングアプリも、金に糸目をつけずに試しました。でも、全部駄目で。」


三島は膝の上で、血の気が引くほど強く拳を握りしめている。そこに込められているのは自分の連敗の悔しさか、はたまた虚しさか。


「それで、その憂さ晴らしで一人で酒を飲んで、酔って帰る途中に、声をかけられたんです」

「声を?」

「はい。『彼女が欲しいんだろう?叶えてやろうか』って。」


 三島の声が微かに震える。アルコールの残滓ではなく、恐怖という名の冷水が当時の記憶と共に背筋を駆け上がっているのだろう。


「最初は、酔っ払いの戯言だと思ったんです。でも、その人がすごく真剣な顔で、懐から契約書のようなものを取り出してきて……」

「契約書、ですか」

「はい。『お前に最適な相手を引き合わせてやる。その代わり、出会いの対価として相応のものをいただく』って。泥酔していたのもあって、深く考えずにサインしてしまって……」 


 彰は表情こそ崩さなかったが内心では盛大に呆れ返っていた。

 彼女が欲しくて悪魔と契約。しかも、いい歳をした社会人が…、薄暗い路地裏で見知らぬ相手から提示された怪しい書面にサインをするとは。リテラシー以前に、正気を疑うレベルだ。


 だが──ふと思い直す。

 大手商社勤めだからといって人間関係が円滑だとは限らない。むしろ、高い肩書きと空虚な私生活のギャップに、心の隙間をこじ開けられたのかもしれない。なにしろ悪魔とは心の装甲に入った極小の傷を見逃さないものだからだ。とはいえそんな有名企業の人間が考えずにサインとかアウトだとは思うが。


「それで…彼女はできたんですか」


 努めて事務的に問いかけると、三島は弱々しく、しかしどこか熱に浮かされたような瞳で頷いた。


「契約の翌週に。カフェで隣の席になって、向こうから話しかけてくれて…。すぐに意気投合して、付き合うことになりました」

「へぇ、順調じゃないですか」

「そうなんです。彼女、本当に最高で。優しいし、綺麗だし、俺の話も聞いてくれるし…」


そこまで言って、ふいに三島の声が泥沼に沈むように重くなった。


「でも……それ以外が、全部駄目になっていくんです」


 三島の顔が歪んだ──泣き出す寸前の子供のような、無防備な絶望がそこにあった。


「最初は些細なことでした。財布を落とすとか、電車を乗り過ごすとか。でもだんだん、仕事でありえないミスが増えて、友達とも連絡が取れなくなって……体調も、日に日に…」


 三島が見下ろすその手は小刻みに震え、浮き上がった血管は枯れ木の枝のように頼りなく脈打っている。


「彼女といる時だけは幸せなんです。でも、それ以外の全部が音を立てて崩れていく。まるで、何かに吸い取られているみたいに感じるというか…」

幸福と引き換えに、自分の輪郭が削り取られていく感覚。例え始まりが自分のせいだったとしても三島からすれば藁にも縋りたくなりようなことは間違いないだろう。


「…今日、彼女と会う予定とかあります?」

三島はハッとしたように顔を上げ、縋るような目で頷いた。

「夜に……駅前で待ち合わせです」


 ギィ、と椅子を鳴らして彰は立ち上がった。

 舞っていた埃が揺れ動き、淀んでいた事務所の空気がわずかに流動する。


「じゃあ私も行きます。まずは接触せず、遠くから様子を見させてもらいます」

話を聞くだけでは悪魔と断定できはしない。だったら、足で稼いで調べるしかないだろう。

 三島は一瞬、不安そうに視線を彷徨わせたが、縋るような目で彰を見上げると、やがて小さく頷いた。





 夜の帳が重く垂れ込める頃、駅前の広場は帰路を急ぐ群衆の熱気と、都市特有の粘りつくような喧騒に支配されていた。平日の夜だというのに、人通りは多い。疲れた顔で歩くスーツ姿のサラリーマン、夕食の買い出し袋を提げた主婦、笑い声を上げる部活帰りの高校生たち。無数の足音、信号の電子音、どこからか流れる流行歌のベース音──それらが混ざり合い、巨大な生き物の唸り声のように空間を震わせている。

 

 やがて、人波の中から三島が現れた。

 久しぶりのデートなのだろう、気合を入れた形跡が見て取れる。髪は整髪料で固められ、少し上等そうなジャケットを羽織っている。

 だが、人工的な街灯の下で見るその顔色は、蝋人形のように白く、生気が感じられない。落ち着きなくスマートフォンを確認し、キョロキョロと視線を彷徨わせる姿は、まるで処刑台に向かう囚人が、万に一つの助命の知らせを待っているかのようだった。


 

 そうして数分後──空気が変わった。

 女が現れ──誰もが女を見る。主婦だろうが仕事帰りのサラリーマンだろうが、カップルだろうが、誰もが女を一目見てしまう。


 彰も例外ではない──その姿に思わず目を細めた。

 美しい。あまりにも完成されすぎている。

 濡れたような艶を持つ黒髪のロングヘア、黄金比を定規で引いたように整った顔立ち、モデルのようにすらりとした四肢。服装も上品で…それは男たちの「理想」をかき集め、丁寧に精製して結晶化させたような美貌といっても過言ではないだろう。


 それこそ母の店にいてもおかしくない…いや、それこそトップクラスの世界的芸能人レベルと言っても過言ではない。


 彼女が三島を見つけ、花が咲いたように微笑みかける様は、絵画から切り抜かれたような「幸福なカップル」そのものだ。


 だが──強烈な違和感が彰の肌を粟立たせる。


 何かがおかしい。致命的にズレている。

 視覚情報は「人間」だと告げているのに、本能が警鐘を乱打している。

 まるで最新鋭のCGで作られた高解像度のキャラクターが低画質の背景素材の上に無理やり合成されているような感覚。あるいは、彼女の周囲だけ世界のピントが狂っているような吐き気を催すほどの浮遊感。

…どうにも言語化が難しいが、そんな気がしてしまうのだ。



──二人が歩き出すのを確認し、彰は雑踏に紛れて追跡を開始した。


 群衆の体温に混じって、風に乗った微かな匂いが鼻先を掠める。むせ返るほど甘い花の香りと、その奥底に潜む腐敗した肉の臭い。


(……確定だな)


 この勘と嗅覚だけは外れたことがない。悪魔法の条文は覚えられなくても、奴らの気配を嗅ぎ分ける感覚だけは、祖父譲りの…厳密にはご先祖であるソロモン王譲りの確かなものだと思っている。


 同時に三島の背中を見つめながら、彰は脳内で情報を高速で整理する。


 期間は三ヶ月。契約から三ヶ月かけて、ここまでじわじわと真綿で首を絞めるように追い詰めている。


 破壊を好む『バエル派』の線はない。あの派閥はもっと短気で暴力的だ。欲しいものを一気に奪い去り、跡形もなく消える嵐のような連中だ。被害者が「幸せを感じながら衰弱する」などという、手の込んだ料理のような真似はしない。

 となると『ベレト派』だろう。恋愛や情愛、執着といった粘着質な感情を糧にする契約は、あの派閥の管轄だ。

 問題はベレト派の中でもどの系統に属するかだが──


 三島の証言を反芻する。

 最初は財布の紛失や電車の乗り過ごしといった些細な不運。それが徐々に拡大し、仕事での致命的なミス、友人関係の断絶、体調の悪化へとドミノ倒しのように繋がっていった。

 そして現在、彼女といる時間だけが唯一の「救い」であり、それ以外の外界との繋がりは全て崩壊しかけている。


 外堀を埋め、逃げ場をなくし、依存させてから髄まで啜る。

──系統的にはシトリー系ではないか。


 被害者に甘美な夢を見せ、脳髄を溶かし、その周囲を破壊して孤立無援にする。宿主を生かさず殺さず、中身だけを食い荒らす寄生虫のごときやり口だ。


…だが、まだ断定はできない。奴らは擬態が上手い。もしかしたら、ただ単に運が悪くなっただけかもしれないし、それ以外の可能性も捨てきれない。


 確証を得るため、彰は雑踏に紛れ、慎重に二人の背中を追い続けた。



──だが、物陰から二人を観察し続けるうちに、彰は別の事実に気づいてしまった。

 

──三島のデートが端的に言ってキツい。



「──で、この前の案件さ、俺がいなかったらマジで終わってたんだよね」




 やけに通るその声は、周囲の雑踏を切り裂いて響いている。相槌を打つ彼女の声は聞こえないが、三島は止まらない。


「部長も『三島くんがいてくれて助かった』って。まあ俺、入社三年目くらいからずっとエース扱いだから」

「そうなんだ。あ、そういえば私も今日──」

「あ、それでさ、来月また海外出張あるかもなんだよね。前回のシンガポール出張の時もさ──」



 彰は思わず天を仰ぎ目を逸らした──見ていられない。胃の腑が雑巾のように絞られる感覚だ。

 彼女が口を開こうとするたびに、三島が食い気味に自分の話題を被せてくる。マウントを取り、自慢話を重ね、相手のターンを強制的に終了させる。

 しかも本人は、会話が盛り上がっていると信じて疑っていない様子だ。悪意がないぶん、余計に救いがない。


──致命的に空気が読めていない。要は気が利かないタイプなのだろう。


 これは会話のキャッチボールではない。相手の顔面にボールを全力投球し続ける、会話のドッジボールだ。

 


 彰は肺の奥底から鉛のように重たい溜息を吐き出した。

 クソみたいに気が回らないこの性格こそが、彼がモテない主因ではないのか。

 大手商社の肩書きがあっても彼女ができなかった理由は、人間的な不器用さにあるのではないか。


…いや、今は関係ない。仕事とは無関係な感想だ。

 だが、見ているこちらの精神が削られるほど痛々しい。彼女──悪魔であろう女に対して同情すら覚えてしまう。


 とはいえ仕事は仕事。どうにか歯を食いしばって、もう少し会話を拾おうと、彰が身を乗り出した──刹那



 世界が反転した。

 

 右腕を万力のような力で掴まれ、同時に背後へ捻り上げられる。


「いっ──」

 悲鳴が喉で潰れる。



 反射的に身をよじって振りほどこうとしたが、関節を完全にきめられており、ピクリとも動けない。視界が明滅するほどの激痛が肩に走り、額に脂汗が滲み出した。



「──何をしている」

 耳元で響いたのは、感情の温度を感じさせない低い男の声だった。


「何って──いった、誰!?」

「あの男を尾けていただろう。ストーカーか」

「違う!!って、あだだだだぁっ!!!」

 

 否定した瞬間、腕の角度を容赦なく強められ、彰はたまらず絶叫した。

 筋肉が悲鳴を上げ、ミシミシと骨が軋む嫌な音が頭蓋骨に直接響く。



「関節を外されたくなければ動くな。今、警察を……」

「依頼されてんだよ!!離せ!!」

「依頼?」

「三島さんから相談受けてるんです!離してください!」


 不意に、万力のような拘束が解かれると同時に距離をとる──ジリジリと痺れる右腕を左手で押さえ、荒い息をつきながら、恨めしげに振り返った。


──そこに立っていたのは、三十歳前後の男だった。

 仕立ての良いダークスーツを着こなした、まるで死神のような背丈の大きな男。だが、何より特筆すべきはその目だ。

 黒目が極端に小さく、白目の部分が多い四白眼。何を考えているのか読めない硝子玉のように冷ややかで、鋭く尖った鷲鼻と相まって、爬虫類的な冷徹さを醸し出している。


「いったぁ……何なんですか、いきなり。あなたは」

「桐生晴海。三島の会社の先輩に当たる者だ」

「先輩だぁ……?」

「最近あいつの様子がおかしいと聞いてな」


 男──桐生は抑揚のない声で淡々と言った。人を暴力で制圧しておきながら、その呼吸は一切乱れていない。


「聞いて?…なんでまた」

「社内で話題になっている。彼女ができて浮かれていたのに、最近急に生気が抜け、仕事上のミスを連発していると」

「…相談でも受けていたんですか?」

「…いや、そういうわけではない」


 彰は眉をひそめ、ズキズキと熱を持って痛む肩を回した。

  

──社内の噂を耳にしただけで、わざわざ仕事終わりに後輩を尾行してきたというのか。随分と面倒見が良いというか、それとも単なるお節介か。


「……で、それがストーカーが原因ではないかと、私を見て短絡的に考え、捕まえようとしたと?」

「そうだ」

「私人逮捕を超えて、暴行罪一歩手前の力加減でしたけどね。…一応言っておきますけど、私、三島さんから正式に依頼を受けてここにいるんです。怪しい者じゃありません」


 彰は恨めしげに唇を尖らせた。まだ肩の奥で鈍い痛みが脈打っている。


「依頼と言っていたが…何の」

「何のって……いや、別にそれはアンタに関係ないでしょ」

「何故誤魔化す。やはり警察を……」


 桐生が内ポケットからスマートフォンを取り出そうとする。その動作には躊躇いがなく、交渉の余地を感じさせない。


「半分脅しじゃねえか! クソっ……」


 彰は唇を噛んだ。

 一般人に話して信じてもらえる内容ではない。まともな神経をしていれば、鼻で笑われるか、精神科を勧められるのがオチだ。だが、この男は本気で通報しかねない。背に腹は代えられない。


「…はぁあああ…、…三島さん、悪魔と契約したんですよ」


──夜の淀んだ空気に、あまりに突拍子もない単語が落ちた。

 スマートフォンの画面をタップしようとしていた桐生の手が、ピタリと止まる。



「……正気か? 頭を打ったなら、病院に行った方がいいんじゃないか」


 桐生の声は変わらず平坦だったが、そこには明確な憐憫の色が混じっていた。というより狂人を見る目だ。


「正気ですって。だから三島さんはああなってるんです」

「悪魔。本気で言っているのか」

「本気ですよ。あの彼女、多分悪魔です」

「根拠は」

「勘です」


 桐生は呆れたように目を細めた。

 いや、能面のような表情筋はほとんど動いていないのだが、纏う空気が明確に侮蔑の色を帯びた。


「……勘か」

「勘ですけど、まあ、それは外れたことないんで」


冷ややかな視線に晒されながら、彰は虚勢を張るように胸を反らした。

──根拠のない自信に見えるだろう。客観的に見れば、ただの妄言だ。

 だが、実際、外れたことはない。あの難解な契約書の条文読み解きは苦手でも、見極める勘と悪魔特有の腐った果実のような死臭を嗅ぎ分けるこの嗅覚は、祖父から受け継いだ確かな才能だと自負している。


 桐生は何か言いかけ、しかし反論する価値もないと判断したのか、無言で口を閉ざした──ただその四白眼だけが、射抜くように彰を見つめていた。



──瞬間、視界の端で三島が崩れ落ちた。


 先ほどまでの不健康な青白さとは、次元が違う。

 血管を流れる血液が一瞬で蒸発し、内側から光が消え失せたかのように、その顔は死人のごとき土気色に染まっている。


 苦しげに胸を掻きむしり、浅く速い呼吸を繰り返す姿は、陸に打ち上げられた魚そのものだ。


 隣にいる女が、三島の手を両手で包み込むように握りしめている──傍目には、体調を崩した恋人を心配し、必死に介抱する健気な女性の姿だろう。


 だが、彰の目には違って映る。

 あれは介抱ではない──捕食だ。

 握りしめた手を通じ、三島という器に残った最後の「生」を、ストローで啜るように根こそぎ吸い上げているに違いない。


「まずい……っ!!契約が進んでる……魂を吸われてる!」

「魂?」


 桐生が怪訝そうに眉を寄せるが、いちいち説明している暇はない。契約の履行が完了すれば、対価として三島の魂は彼岸へと持ち去られる。


 彰は弾かれたように飛び出そうとしたが──鋼鉄の万力のような指が、その二の腕をガシリと掴んで引き留めた。


「待て。説明しろ」

「離してください、時間ないんです! 多分シトリー配下で、恋愛絡み、そうなるとどこら辺が絡むんだっけ、えーっと、多分彼女に変身してるから、えー」


 脳内で必死にページを捲るが、肝心の知識が焦りで滑り落ちていく。

 膨大な悪魔の系譜、複雑怪奇な契約の種類。それらが頭の中でこんがらがり、言葉として出てこない。


「悪魔だの契約だの魂だの、意味がわからない。もっと合理的に説明しろ」


 彰は振り返り、男の四白眼を正面から睨みつけた。こっちは人の命がかかっているのだ。悠長にロジックを積み上げている場合ではない。


「あー!! 本当なんだって!! うるせえな!!」


 彰はポケットから一冊の小さな本を乱雑に引き抜いた──祖父が生前、肌身離さず持ち歩いていた『悪魔法』のポケット版。使い込まれて手垢に塗れたそれを、彰は力任せに桐生の胸元へ投げつけた。


「これでも読んどけ!!」


 桐生が反射的に本を受け止める。拘束が緩んだ──その刹那を見逃さず、彰は腕を強引に振りほどいた。

 バランスを崩しそうになりながらも踏みとどまり、地面を蹴ると、崩れ落ちる三島へ向かって、彰は雑踏を切り裂くように全力で疾走した。



 三島の苦痛に歪む額には脂汗が玉のように滲み、焦点の定まらない眼球が小刻みに痙攣している。

 女は、傍目には恋人を案じるような仕草で三島の手を握っている。だが、その華奢な指は、皮膚に食い込むほどの握力で手首を締め上げ、脈打つ血管を物理的に圧迫していた。


「離れろ!」

 彰は三島を庇うように、二人の間へと割って入った。

「誰?」

 女が──悪魔が──彰を見上げた。

 作り物のように整った顔立ちに、警戒の色が滲む。


「今、彼、具合が悪くて──」

「そうですね、あなたのせいで」

 彰は逃げずに、女の瞳孔を覗き込んだ。

 一瞬の静寂。周囲の雑踏の音が遠のき、そこだけ真空になったかのような冷たい沈黙が落ちた。





「……何の話?」

女の声色が、変質した。

 先ほどまでの砂糖菓子のように甘く柔らかい声ではない。舞台の上で下手な役者が台詞を吐くような、あるいは録音された音声を再生したような、湿度を伴わない無機質な響きだった。


「あなたは悪魔ですよね」


女は──いや、人皮を精巧に被った異形は、彰を見つめたまま瞬きひとつしない。

 やがて、その口元がゆっくりと、三日月のように深く歪んだ。


「……ふーん」

 笑っている。

 それは人が人に向ける愛想笑いではない。網にかかった獲物を前にした──捕食者の無慈悲な嘲笑だ。


「仮にそうだとして、何が悪いの?」


 彰は喉の奥で鳴る心臓を抑え込み、唾を飲み込んだ。ここからが本番だ。悪魔法の違反を突きつけ、契約の不当性を証明すれば、彼らの行動は強制的にロックされる──祖父ならば息をするようにできたことだ。


 問題は──彰自身のスペックである。


「何がって……悪魔法に違反して……」

「何条?」


 食い気味に問われ、彰の言葉が詰まった。

 悪魔法。あの気が遠くなるほど膨大な法典。読んではいる。必死に勉強もしている。だが、頭に入っていない。数字と文字の羅列が焦りと共に脳内で霧散していく。


「えっと……その……」


 冷ややかな汗が背骨を伝い落ちる。思考の歯車が空転し摩擦熱だけが頭を焦がす。


「言えないの?」


 彼女は首を傾げ、小悪魔的に微笑んだ。その笑顔は背筋が凍るほど美しく──同時に残酷だった。


「だから、えーっと、契約において……」

「はずれ」

「人間に対して不当な……」

「それも違うわね」

「くっ……」


 彰は奥歯を噛み締めた。

 駄目だ。何も出てこない。条文の番号も、正確な文言も、肝心なところが抜け落ちている。自分の頭の出来の悪さが、よりによってこんな土壇場で首を絞める。

 

 彼女は可哀想な子供を見るように、憐れむように目を細めた。


「知識がないのに突っかかってきたの?」

「っ……」

「私はね、ちゃんと契約通りやってるの」



 彼女は三島の手を愛おしそうに、けれど万力のような力で撫でた。三島は白目を剥きかけ、もはや状況を理解できていない。命が指先から漏れ出していく。


「『彼女を引き合わせてやる』って約束して、私がちゃんと彼女になってあげた」


──なってあげた。

 その身勝手極まりない論理に彰は息を呑んだ。



「対価も『出会いの対価』って最初に言ったわ。何も嘘ついてないよ?」

「え……彼女を、引き合わせる……?どういう……」



三島が掠れた声で混乱を露わにする。彼女は三島を一瞥もしない。ただ彰だけを見て、愉快そうに目を細めている。



「わかる? 私は契約を忠実に履行しているの。文句を言われる筋合いはないわ」




──必死に言葉を探した。

 何か、何かあるはずだ。この詐欺まがいの論理を覆す条文が、あの分厚い本の中にあったはずだ。祖父が生きていれば、一言のもとに切り捨てただろう。

 だが、今の彰の引き出しは空っぽだ。圧倒的な無力感が鉛のように肩にのしかかる。


「さて、邪魔が入ったけど、続けましょうか」


 彼女はゆっくりと三島の手を握り直した。


「うっ……あ、が……」


 三島が苦悶の呻き声を上げる。

 吸い上げの速度が強まっている。命の灯火が揺らぎ、今にも風前の灯火が吹き消されようとしているのが目に見えるようだった。


「やめろ……!」

「やめる理由がないもの。違法じゃないんでしょ?」

 彼女は嗤った。

 それは愚かな人間を見下す…絶対的な勝者の顔だった。


 くそ、何か──何かあるはずだ。

 焦燥で思考が空回りし、彰の視界が真っ白に染まりかけた──そのときだった。


「『悪魔法第十七条』」


 地の底から響くような、低い男の声が夜気を切り裂いた。

 彰は弾かれたように振り返れば、街灯の逆光を背に、あの男が立っていた。


 三島の先輩──桐生晴海


 その片手には、先ほど彰が八つ当たりのように投げつけた『悪魔法』のポケット版が握られている。


「『契約において第三者を介在させる義務を負う者は、自らがその第三者となることを禁ずる』」


 桐生は感情の一切ない声で、淡々と、しかし判決文を読み上げる裁判官のように正確に条文を読み上げた──女の余裕に満ちた表情が初めて揺らいだ。



「お前自身がその相手に収まるのは契約の不履行──手段の違法だ」


 桐生は本から視線を外し、氷のような四白眼で彼女を射抜いた。


「っ──くそっ……!」


 悪魔が三島の手を握り直した。

 愛おしげな仕草は消え失せ、ただの暴力的な圧力へと変わる。


「執行される前に──!」


「っ──!」


 三島が苦悶の声を上げた。

 顔色が、みるみるうちに死人のそれへと変貌していく。

 吸収の速度が跳ね上がっているのだ。追い詰められた悪魔の悪あがき。違反が確定し、契約が無効化されるその前に、少しでも多く魂を啜り尽くそうとしている。


──させるか。


 彰は躊躇なく一歩を踏み込んだ。

 狙うは顔面。


 腰の回転を乗せ、拳を突き出す。

 相手が絶世の美女?そんなの関係ない。中身は人を食らう化け物だ。男女平等、いや、種族平等の鉄拳制裁だ。


 ゴッ、と鈍い音が響いた。


 拳が肉ではない、何か硬質なものを捉える感触──瞬間、彼女の姿がノイズのように激しく揺らいだ。

 精巧に作られた人間の皮が剥がれ落ちるように、美しい輪郭がドロドロと崩れていく。

 滑らかな肌が裂け、その下から──本来の姿が露呈する。


「え、嘘……何これ……彼女、が……」

 三島が喉を引きつらせ、悲鳴のような声を上げた。

 

──そこに立っていたのは人間の女ではなかった。

 しなやかな肢体こそ人型を保っているが、その首から上にあるのは、凶暴な獣の頭部。

 凶暴な獣の頭部。

 黄色と黒の斑点模様の毛皮に覆われた、豹の顔だった。





「くそっ……なんで……」

 悪魔が低く呻いた。

 その声はもう、鈴を転がすような女の声ではない。喉の奥で骨を砕くような、ざらついた獣の唸り声だった。


「観念してください」


 彰は躊躇なく踏み込み悪魔の腕を掴んだ。毛皮の下にある鋼のように筋張った筋肉の感触が手に伝わる。


「離せ!離せぇ!」

「暴れないでくださいよ。余計に痛くなりますから」


 彰は容赦なく悪魔の腕をねじり上げ、肩関節の可動域ギリギリを攻め立てた。

 かつて母が経営していたスナックで暴れる泥酔客を鎮めるために見様見真似で覚え、数々の実戦で磨き上げた制圧術だ。相手が悪魔だろうと、骨格構造が人型なら物理法則からは逃げられない。


「待て待て待て!」


 豹の顔をした悪魔が情けない声を上げた。凶悪な牙を見せながらも、その声音は必死な哀願に満ちている。


「俺だって好きでこんなことしたんじゃない!」

「は?」

「ノルマがあるんだよノルマ! 今月あと一件って言われて、どうしても足りなくて!」


 彰は手を緩めずに、組み伏せた悪魔を見下ろした。

 

──ノルマ


 その世知辛い単語が、異形の口から飛び出したことに奇妙な現実感を覚える。

 悪魔社会にも過酷な成果主義が存在することは祖父から聞いていた。人間の会社と同じように──いや、失敗すれば存在ごと消滅させられる分、人間界よりも遥かにブラックで救いのない環境で、彼らは成果を求められているのだ。


「それがどうした」


 桐生が氷点下の視線で見下ろした。同情の余地など、ミクロン単位も存在しないと言わんばかりだ。


「ノルマのために違法契約をしたというなら、情状酌量の余地はない」

「仕方ねえだろ!!!!俺、低ランクなんだよ!だからまだ『縁結び』の権能なんて持ってねぇからこうしないとやってらんねんだよ!!」


 悪魔は必死の形相で、アスファルトの地面に毛深い頬を擦り付けながら訴えた。その瞳は涙で潤んでいる。


「『引き合わせる』なんて見栄張って約束しちまったけど、能力がないから自分でなるしかなかったんだよぉ!だって!俺!!!! 通り名が『セルフ彼女』だぞ!!」

「は??」


──その場の空気がピキリと音を立てて凍りついた。


 常に鉄壁の冷静さを保っていた桐生の表情が、ガラガラと崩壊した。

 感情の読めない硝子玉のようなあの四白眼が、限界まで見開かれ、隠しきれない驚愕に揺れている。


「……あー、なるほど……」


 彰の手から力が抜けそうになった。怒りではない。呆れでもない。──それは、あまりにも救いのない哀れみだった。


「低ランクで、そういう名前をもらっちゃったのか……」

「どういう意味だ」


 桐生が、理解不能といった顔で彰を見た。


「あー、悪魔ってのは名前が重要なんです。一応本名はありますが、それを人間に知られると支配されるリスクがある。それを防ぐためのビジネスネーム、つまり『通り名』や『役職名』を使うんです」


 彰は足元の「セルフ彼女」を見下ろした。


「未分化の新人に上司が通り名を命名すると、その方向に能力が固定されるシステムなんですよ。以降、その通り名に沿った能力しか発現しなくなる。昇進して良い名前をもらえば能力の幅も広がりますが……こいつは」

「なるほど。低ランクすぎて、本来の契約である『他者とのマッチング』を履行するリソースも能力もなかった。だから苦肉の策として、文字通り『セルフ』で彼女役を演じた。死活問題であるノルマ達成のために」


 桐生が顎に手を当て、瞬時に状況を整理する。その解析速度の速さが今は残酷なほど事態の滑稽さを浮き彫りにする。


「そういうことですね」


 彰は呆れ混じりに言った。

彰は深い溜息混じりに肯定した。 つまり、ここに魔法のような強制力は介在していない。魅了も洗脳もない。 ただ、この豹顔の悪魔が、必死に猫を被って──いや、美女の皮を被って、甲斐甲斐しく彼女を「演じていただけ」なのだ。


「あれ、じゃあ魅了の能力や洗脳は特にないわけで……三島さんが好きになったのは、幻術とかじゃなくて……?」

「三島の本心、というわけか」


 桐生がぽつりと呟くと同時に


「当たり前だろ!!!!」

悪魔が火がついたようにキレた。ねじり上げられた関節の激痛など忘れたかのように、豹の顔で夜空に向かって吠える。


「俺がどんだけ努力してると思ってんだ!!!!」

「えっ」

「人間体での徹底的なスキンケア! 体型維持のための地獄のホットヨガ! 男受けする趣味の完全マスター! 相槌の『さしすせそ』から、男を立てるトーク術の反復練習! どんだけ血の滲むような努力をして、この『理想の彼女』を作り上げたと思ってんだコラァ!!」


 絶叫が夜の駅前にビリビリと木霊した。

 それは単なる言い訳ではない。プロフェッショナルとしての矜持と、それが踏みにじられたことへの魂の慟哭だった。


「あの男、自分の話ばっかりで全然面白くないんだぞ! あのクソつまらない、擦り切れるほど聞いたマウント取りの自慢話ですら、俺は満面の笑みで『すごーい!』って聞いてやったんだぞ!!!! 全部実力だ! 魔法なんかじゃねえ! 俺が磨き上げた女子力の賜物だ!!」


 三島が白目を剥いて倒れている横で、悪魔は理不尽な労働環境と、報われない接客への不満を爆発させていた──その姿は、もはや恐怖の対象ではない。  

 クレーマーの理不尽な要求に耐え続け、ついに心が折れてしまった哀れな従業員の姿そのものだった。


「……いや、だとしても人の魂を取ろうとしてるんだからアウトだよ」


 彰は気を取り直し、悪魔が逃げられないように関節技をグイと締め直した。同情はするが…それはそれ、これはこれだ。


「は?魂なんか狙ってねえよ!」

「え」

「だから!魂なんか取ってねえっつってんだよ!」


 悪魔は心底心外だと言わんばかりに鼻を鳴らした。


「でも悪魔は魂を……」

「何千年前の知識だよ。魂は最高級品だぞ。俺みたいなド底辺の配下が扱えるような代物じゃねえ

よ!!」

おいどういうことだ爺ちゃん。聞いてた話と違うってばよ。


「てかいてえよ!!離せよ!!」


 悪魔は地面をバンバンと叩きながら叫んだ──その時だった。


音もなく、悪魔の頭上の空間が裂けた。

 何かを刃物で切り裂くような暴力的な亀裂ではない。

 まるで濡れた半紙にインクが滲むように、あるいは世界というキャンバスのテクスチャがそこだけバグを起こしたように。

 物理法則を無視して開いた虚空の口から、一枚の白い紙がヒラヒラと重力に従って頼りなく舞い落ちてくる。


 ぽかんとした彰の手を振り払い、悪魔は口を噤み無言でそれを空中でひったくった。


「……来やがった」

「何だ、それは」


 桐生が眉をひそめて問う。


「違反確定通知。罰則に応じて自動で発行されるんだよ。ソロモンの法システムに直で組み込まれてるから、上司だろうが72柱だろうが動かせない、絶対的な決定通知だ」


 白い紙には無機質な黒い活字が整然と並んでいる。そして下部には、人間界の文字体系とは異なる見たこともない複雑怪奇な紋章が焦げ跡のように焼き付けられていた。


 続けて、もう一枚。

 虚空から吐き出されたその紙には禍々しい赤の縁取りがなされていた。


「契約禁止……二週間……」



 悪魔が呻き声を漏らすと同時に悪魔の右手に異変が起きていた。

 斑点模様の毛皮に覆われた手のひらに、ジュッという幻聴が聞こえそうなほど鮮やかに、淡く光る幾何学模様が浮かび上がっている。


「これで二週間、俺は誰とも契約が結べない。手のひらにこの刻印が出てる間は、どんな魔術を行使しても無効化される」

「悪魔なのに営業停止処分か」

「笑えねぇよ……」


 さらに、ダメ押しとばかりに三枚目が降ってきた。先ほどのA4の大きさの紙とは違いA5程度の大きさの紙。

 それを見た瞬間、豹の顔からサーッと血の気が引き、土気色へと変わるのがわかった。


「っ──」

「何と書いてある」


 桐生が覗き込むように訊いた。


「…………」


 悪魔は紙を持つ手をプルプルと震わせている。


「何て書いてある、と聞いているんだが?」

「…追加罰則について……『一時的な人間社会への追放』『社会奉仕活動一ヶ月追加』『コンビニ勤務』『深夜シフト多め』……」

「随分と具体的だな」

「シトリー様、こういうとこ細かいんだよ……! ネチネチしてんだよあの御方!」


 悪魔は三枚の紙束を胸に抱えたまま、がっくりと項垂れた。

 その丸まった背中は左遷を言い渡されたサラリーマンの哀愁そのものだった。もはや猛獣の威厳など欠片もない。


「……はあ。帰ったら始末書と報告書書かなきゃ……」

「大変だな」

「お前らのせいだからな!!」


 悪魔は恨めしそうに彰を睨んだ。だが、もう濡れた瞳に害意や闘争心はない。あるのはただ、終わりの見えない労働への疲労と明日への絶望だけだ。


「今回の案件、成功したら通り名を変えてもらえるはずだったのに……」

「通り名?」

「『セルフ彼女』から『恋愛サポート』に……やっと昇格できるはずだったのに……」


「……それは、まあ、気の毒に」


 彰の声に僅かな憐れみが混じる。

 その昇進にかける切実さは、種族を超えて伝わってくるものがあった。


「同情するなら見逃せよ」

「それは無理だ」


 桐生が即答した。当然だが慈悲はない。後輩が騙されかけたのだからある意味当然ではあるが。


「……社会奉仕確定……悪魔界に帰れない……」

「人間界でバイト生活か」

「なんで悪魔が、人間界の最低賃金で働かなきゃなんねぇんだよ……」

 彰は少しだけ同情した。ほんの…それこそ爪の先ほどだけ。


「…くっそ、覚えてろよ」

「何をだ」

「次会った時は……いや、もう二度と会いたくねぇ……こんな面倒な案件、こりごりだ……」


 悪魔は色とりどりの罰則通知を抱えたまま、とぼとぼと夜の闇へと歩き出した。

 その背中は小さく、どこまでも心許なかった。煙のように消えることもなく、ただ徒歩で去っていくその後ろ姿は、この世の誰よりも「人間臭かった」



 招かれざる客が夜の闇へと消え、あとに残されたのは人間3人。


「…………」

「…………」

 重苦しい、鉛を含んだような沈黙が落ちた。

 先ほどまでの非現実的な騒動が嘘のように、駅前はいつもの無機質な静寂を取り戻している。遠くで響く車の走行音が波の音のように空しく鼓膜を揺らすだけだ。


「あの……」


 冷たいアスファルトにへたり込んだまま、三島が口を開いた。その声は小刻みに震えている。


「俺の彼女、悪魔だったんですか……」

「はい。紛れもなく」


 彰は短く答えた。

 慰めの言葉はかけない。というかかけようがない。それが変えようのない事実であり、甘い言葉で濁してはいけない現実だからだ。


「三島」


 桐生が冷ややかな声で名を呼ぶ。それは悪魔を追い詰めた時の声ではない。上司が部下の不始末を淡々と追及する胃の痛くなるトーンだ。


「何故、見知らぬ相手から提示された怪しげな契約書にサインをした?」

「それは……勢いで……」

「勢いで契約書にサインをするな」

 正論が鋭利なナイフのように突き刺さる。


「社会人として基本中の基本だぞ。内容も精査せず、リスクも考えず、その場のノリで判を押す馬鹿がどこにいる」

「すいません……」


 三島は深く項垂れた。


「でも……俺、本当に好きだったのに……十年ぶりの彼女で、合コンも連戦連敗で、マッチングアプリも全滅で……やっとできた、俺の、俺だけの彼女だったのに」


 その背中はあまりに小さく、哀れだった。エリート商社マンという堅牢な鎧は剥がれ落ち、そこにはただの孤独な男が一人うずくまっていた。


──地面に涙の粒が落ちる。

 騙されていたとわかっても、彼の中で過ごした「幸せな時間」までが嘘になるわけではない。その未練が痛々しいほど伝わってくる。


「三島さん、まあ、その、気持ちもわかりますよ。彼女が欲しいのにできないと、その、藁にも縋りたくなる気持ちは…」

 なんとなくその姿がどうしようもなく放っておけなくて、言葉が口から出てしまう。


「その、責めてるわけじゃないです。でも、あのまま続けていたら文字通り、骨の髄まで吸い尽くされて、死んでいた可能性が高い。それは変えようのない事実です」

「……わかって、ます」

「命あっての物種です」


 彰は大きく息を吐き膝についた砂を払って立ち上がった。


「次は、自分で頑張ってください。悪魔なんかに頼らないで、自分の足で探すんです。大丈夫ですよ、いつかいい人に出会えるかもしれませんよ」

「……はい」


 三島が涙を拭い、力なく頷く。

──同時に彰は少し言い淀み、しかし意を決して付け加えた。


「でも、もうちょっと相手の話を聞いた方がいいですよ。デート、隠れて見てましたけど…結構キツかったです、あれ。会話はドッジボールじゃありません、キャッチボールです」


──三島の動きが止まった。



「…………すいません」


 涙で濡れていた顔が、今度は羞恥で真っ赤に染まっていく。悪魔の正体を知らされた時よりも、ある意味で残酷な宣告だったかもしれない。自分のコミュニケーション能力の欠如を、赤の他人に指摘されたのだから。


「次から気を付けます…その、本当にありがとうございました……本当に……命拾いしました」


「お礼の言葉より、お代は後日請求書を送りますんで。そっちをよろしくお願いします」

「え、お金──」


 三島が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。


「当たり前でしょ。ボランティアで命懸けの仕事はしませんよ。うちは相談所、これはビジネスです」


 三島は複雑な顔をしながらも、どこかほっとしたように頷いた。

 金銭のやり取りが発生するという現実的な結びつきが、彼を悪夢から日常へと引き戻したのかもしれない。


 

──夜風が吹き抜ける。

 そこにはもう、魔の気配は微塵も残っていなかった。




 三島が何度も頭を下げ、逃げるように夜の闇へと消えていく。

 その後ろ姿がネオンの海に溺れて見えなくなるまで見送ると、あとには二人だけが取り残された。


 ふと気がつけば夜風が少し強くなっている。

 頬を撫でる風は冷たく、先ほどまでの非現実的な緊張感が嘘のように街は急速に静まり返っていた。



「……これ」

 不意に、目の前に小さな本が差し出された。

 桐生が、彰が放り投げた『悪魔法』のポケット版を持っている。

「あ、どうも」


 彰はそれを受け取った。

 手馴染みの良い革の表紙。祖父の形見だ。

 いくら緊急事態だったとはいえ、商売道具であり、何より大切な思い出の品を鈍器として全力投球したことを、今更ながら少しだけ後悔した。彰は申し訳なさそうに、手のひらで表紙の埃を払った。


「…………」

「…………」


 それきり会話が途切れた。重たい沈黙が二人の間に横たわる。


 何を話せばいいのかわからない。ついさっきまで肩を並べて悪魔と対峙し、見事な連携プレーを決めた相手だというのに、終わってみれば、彰はこの男のことを何ひとつ知らないのだ。


「あー…その、お節介ですね」

 間を持て余し、彰は口を開いた。

「何が」

「後輩のためにわざわざ。仕事終わりなんですよね、これ」

「……別に。たまたま気になっただけだ」



 桐生はそれ以上、何も言わなかった。

 たまたま──到底そうは見えなかった。


 ただの噂を聞いただけで、疲れているはずの仕事終わりに後輩を尾行し、ストーカーと誤認して一般人の関節を極める。そこまでする行動力が『たまたま』の範疇に収まるだろうか。

 だが、彰はそれ以上追及しなかった。初対面で土足で踏み込める距離感ではない。


「名刺をくれ」

「え?」


 唐突に桐生が口を開いた。


「また何かあったら連絡する」

「あー……名刺、まだ作ってないんですよね。相談所の連絡先でいいですか」

「ああ」


 彰はポケットからくしゃくしゃになったメモ帳を取り出し、ボールペンで事務所の電話番号と住所を書くと、ピリ、とミシン目に沿って破り取って、差し出す。

 桐生はそれを受け取り、街灯の明かりにかざして眺めた。安っぽい紙切れと高級スーツの対比がどこか滑稽だった。


「志波相談所……」

「ああ、はい。えー、まあ、その自己紹介をするのであれば、一応所長の志波彰です」


「機会があれば、行く」


 それだけ言って、桐生はメモをスーツの内ポケットに丁寧にしまった。


「……どうぞ。お茶くらいは出しますよ」


 桐生は一度だけ小さく頷くと、踵を返して歩き出した。

 彰はその背中を、見えなくなるまで見送った。

 隙のない仕立ての良いスーツ姿が、夜の雑踏に紛れ、ネオンの光の中に溶けていくのをただ眺めていた。



 




 

──事務所の鍵を回し、重たい鉄扉を閉める。

 カチャリ、という施錠音が響いた瞬間、外界の喧騒がふっつりと切断された。


 彰は革張りの椅子に、泥のように深く体を沈めた。

 ギィ、と古いバネが悲鳴を上げる。


 疲れた。


 その一言に尽きる。

 全力疾走した後のような筋肉の疲労ではない。得体の知れない存在と対峙し、命のやり取りをしたことによる、神経が磨り減るような精神的消耗だ。

 瞼を閉じると、今日の出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


 三島の悲痛な依頼。彼女の正体。桐生晴海という奇妙な男との出会い。対決、そして決着。

 だが、思考は必ずある一点で停止し、レコードの針が飛んだようにそこから先へ進めなくなる。


「『何条?』って聞かれて……何も言えなかった」

 乾いた独り言が、誰もいない部屋に落ちた。


「クソ、ダサすぎる……」


 顔を覆いたくなるような羞恥が遅れて込み上げてくる。


 あの瞬間、頭の中は真っ白な更地になった。必死に勉強しているつもりだった。祖父の跡を継ぐのだと意気込んでいた。それなのに、いざ命がかかった本番で、引き出しの中身は空っぽだった。


 もし、あの男──桐生晴海が現れなかったら?

 自分はあのまま悪魔に論破され、三島を見殺しにし、自分もただでは済まなかったかもしれない。

 たまたま通りがかった他人の方が、専門家の看板を掲げている自分よりも優秀だったという事実が重くのしかかる。

 彰は机の上に鎮座する『悪魔法』へと視線を移した。

 使い込まれた分厚い本。祖父が遺した、膨大な知識と経験の結晶。

 それは今、見上げるほど巨大な絶壁となって彰の前に立ちはだかっている。



「勉強しないと……」

自身に言い聞かせる呪文のように呟き、重たい表紙に手を伸ばした。

 ページを開く。古紙とインク、そして祖父が愛用していた煙草の匂いが微かに鼻をくすぐる。

 悪魔法第一条、本法の目的。すべての基礎にして原点。


「…………」

 文字を目で追う。

 視線は確かに文字の上を滑っている。


「…………」 


 だが、それだけだ。

 活字は意味を持った情報として脳に定着せず、ただの黒い染みとして網膜の上を素通りしていく。

 脳が拒絶している。疲労のせいか、それとも根本的な適性のなさか。


 パタン、と乾いた音を立てて、彰は本を閉じた。

 椅子の背もたれに全体重を預け、天井を仰ぐ。

 古いビルの天井には、雨漏りの跡のような茶色いシミがある。切れかけた蛍光灯が、ジジ、ジジ、と微かな音を立てて点滅を繰り返している。

 その不規則な明滅を見つめながら、彰は深い溜息をついた。


「わかんねえ……」


 その弱々しい呟きは、夜の静寂に吸い込まれ、誰に届くこともなく消えていった。

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