90話 振り上げる手降ろす手
──ローウェン・トレザール伯爵と謁見の手配を。
誰も知らない伯爵に、室内の誰もが同じ表情になった。
その名は雷鳴のごとく落ちて、だが落ちた先には、何もなかった。
静寂。
一同は思った。
──誰?
セドリックが眉をひそめる。
マリアが小さく首を傾げる。
アルヴェルトは側近と視線を交わし、互いにわずかに首を振る。
セレスティアでさえ、蒼い瞳をわずかに細めた。
「……説明を求めます、小聖。」
「イベントの規模をようやく経験できたからね。
もう後手を踏むのはうんざり。
運命にやりたい放題なんてさせないわ。」
クラリッサはにやりと笑う。
世界が沈みかけているというのに、その笑みはやけに楽しげだった。
愉悦すらある中で、彼女はゆっくりと拳を握る。
骨格は未完成。
だが反復と負荷を、永遠と繰り返した筋肉は応える。
大陸を呑む海。
空を巡るレヴィヤタン。
暴走する精霊。
崩れゆく秩序。
嵐に軋む天蓋。
「アルシェリオン王国が破滅の淵だろうが、関係ない。
全部ぶっ飛ばす!!
こんなんが続いたら、いつまで経っても筋トレできないから!!
生活を防衛しないとならない!!
さあ、セレスティア。そういうわけで拘束を解いて。」
「えっ!?嫌ですけど。
治療が終わって、作戦の段取りが終わるまでは解く気ないですよ。」
「期間が伸びてる!!
世界が沈む前に原因を叩く。そのための宣戦布告!!
兵は拙速を尊ぶ!!」
「あなたは現在、全身打撲の骨折多数で、生存が危うい状態なんで。」
「そこをなんとか!!先っちょだけ!!」
よれよれと歩きだし、セレスティアに交渉を始めるクラリッサに、誰も口を出せないが、一同は引き続き思っていた。
だからトレザールって誰だよ?
「ローウェン・トレザール伯爵。
夏合宿で使った海岸のところの領主様。
てーかなんで、みんな知らないのよ。」
クラリッサは、よれよれのままマリアに支えられるように教会の外へ移動しながら言った。
蘇生済みだが、数日前に心停止。
肋骨に巻かれた固定帯が呼吸のたびに軋む。
包帯は白くない。乾いた血で色づいている。
ローウェン・トレザール伯爵が治める、トレザール領。
魔術学校別棟がある海岸線。
王都の建物の隙間、傾いた鐘楼の向こう。
空を穿つ蒼い奔流。天と地を縫い止めるように立つ、異様な水の槍。
つまり水の柱が、そこからも見えた。
水の柱は巨大だ。
空と海が直結したかのような垂直の様相。
石造りの家々や街中の建物の隙間から、煙る空の裂け目のように目視できる。
マリアに寄り添われるように、療養衣に身を包み、クラリッサは白い石段の上、教会の外で潮風を浴びていた、
塩を含んだ冷たい風が、袖の隙間から入り込み傷口に風が染みる。
──まずは情報収集からか。
(盤面は、すでに展開されている。
問題のコアと守護の構造は単純。
半精霊化と物理的抑止力。
外周圧力として魔物の上陸。
環境要因としては海面上昇
盤面は三層構造。
……制限時間はあと、どれくらいかしらね。)
どのような段取りを取るとしても、まずは接触の為に近づくタスクは挟むだろう。
水の竜巻の「供給源」を断ち
海面上昇に至る循環を“失速”させろ。
「お嬢様。
お体に障ります。
早めに戻りましょう。」
「そうね。
わかってる。」
マリアは腕を回し、クラリッサの重みを受け止める。
クラリッサは療養衣の下、縫合の痕が引きつる。
仲間達への大まかな指示は終えている。
海岸を整備し、レヴィヤタンを打倒し、水の竜巻を何とかすればいい。
言葉にすれば、それだけだ。
「いてて……セレスティアめ。さっさと、回復魔術をかけてくれれば良かったのに。
傷跡残るかなこれ。」
「よく、生き残られましたね。」
「まーね。
……悪かったって。マリア。
泣かないでよ。」
「ぐすん。泣いてません。」
マリアは、いつも以上に甲斐甲斐しくクラリッサの世話をしていた。
療養衣の裾を正し、
包帯のずれを確かめ、
歩幅を合わせ、風が強くなれば体を盾にした。
──あんな思いは二度とごめんだ。
(お嬢様の生存の連絡を受けたのが三日前。
胸には固定帯。
腕は包帯だらけ。
唇は乾き、
呼吸は浅くて……)
あの、いつも威勢のいいクラリッサ・グランディールが。
筋トレだの戦略だのと騒がしい主が。
まるで壊れた人形のように。
「ねえ。
もしかして怒ってる?
ポーションの塗り方雑じゃない?
包帯もなんだか荒々しいんだけど。
普通に痛い。」
「怒ってません!!」
「怒ってるじゃない……こんな怪我したからよね。
でも怪我のあるマッチョって、かっこいいじゃない。」
「きーーっ!!!」
「いっっっった!!」
「……次はもっと上手に塗りますね。」
「ナチュラルに嘘つかないでもらえる?
せめて、その振り上げた手を降ろしなさいよ。
もー。乱暴なんだから。
いっっっった!!」
びしゃっ!!
ポーションを塗りたくられていた。
大聖堂。
場所は、大聖堂。
天井は高く、光は色づき、祈りと権威が何世代も沈殿した空間での会議だ。
アルシェリオン王国教会定例会議。
司会はエルンスト教皇代理。
参加者は高位司祭。
枢機卿。
学園と教会を繋ぐ“調整役”たち。
そしてそセレスティア陣営。
それは聖女セレスティアを中心に据える教会の派閥。
現アルシェオン王国教会派閥の主派閥といっていい。
「今回の水位の上昇の原因は、クラリッサ・グランディールが原因だという噂があります!!なぜクラリッサ聖女候補をそのままにしておくのですか!!
魔物の上陸も今まさに続いています!!もし民衆に被害が出てからでは――」
セレスティアは神妙に頷いて思った。
──確かに。
「言いたい事はわかりますが、それがそうだとして、現実としてどうするのですか?
仮に、小聖クラリッサをここに呼んだとして、何が変わるとも思えませんが?
彼女は今生死の境をさまよっています。
彼女の扱いを決めるなら、呼ぶ前に決めないと段取りとしては正しくありません。」
司会であるエルンストは言った。
「小聖クラリッサには聖女の名が重すぎかどうか、我らで裁定します。」
「裁定の段取りは?エルンスト教皇代理殿。」
「こちらを。
各国の教会、およびクラリッサ以外の聖女見習い達からからクレームです。」
資料が提示されていた。
セレスティアはひくついた。
──あら……こんなに……
要約するとそれは一つの事に集約されていた。
──回復魔術も使えない聖女がどこにいるんだ。
(確かに。)
セレスティアはひどく納得した。あの子、聖女やめた方がいいと思う。
セレスティアの中の冷酷な部分が告げている。
だけど、これら全ての人間の声を集めても、クラリッサのもたらすであろう成果には、到底及ぶまい。




