89話 目覚めし者
見慣れない天井だった。
視線を巡らせれば、石造りの壁。
祈祷文が刻まれた板。
薬草の匂いと、清潔な布の気配。
体を起こすと、鈍い痛みが波のように押し寄せた。
全身が痛い。
「……っ、いった……」
声も、ひどく乾いている。
──つーか、最近非常に気を失ってばっかりなんだが……
──次はどこよ。ここ。
(あんなでかい津波に飲まれても、生きてるんだ。
体は鍛えておくものね。やっぱり。
神もきっと、引き締まった腹筋が好きなのだろう。
わかる。)
教会の医療施設。
天井の交差するアーチを見上げる。
「……」
そして。
「……あれ?……筋肉、減ってない?これ。
やれやれ。しょうがないわね……」
細い腕。
華奢であった腕の線は、さらにわずかに萎えて華奢に、柔らかな裏切りの丸みを帯びている。
病み上がりだろうが関係ない。
女子供であろうと、
死にかけだろうと、
お年寄りでも関係ない。
筋トレは命より重いのだ。
──そして、そっと布団をめくる。
「一回だけ……一回だけだから……」
(体力がないと、次に気絶したとき目覚められない気がする。)
そしてクラリッサは床に手をついた。
──ぷるぷる。
腕立て伏せ。
──ぺたん。
現実は残酷だった。
崩れ落ちて、床と仲良くなる。
「え、重っ……!」
(弱くなってる……!なんで!?!?)
破滅フラグが、筋肉までをも奪い去ってしまった。
「あなた……
何やっているの?動ける状態じゃないんですが。
ホントに死にますよ?」
声は部屋の入り口から。
振り向けば、扉口に一人の女。
瞳は蒼。
白金の髪は、月光を編み込んだかのよう。
衣は純白で、胸元には淡く輝く聖印が揺れる。
そして彼女は心底呆れていた。
今代の聖女。
セレスティア。
「死にたいのなら、止めませんよ。
いえ、むしろそのまま死ねば良かったのに。
クラリッサ・グランディール。
あなたの存在は、啓示にはない。
ならあなたの生死は、神の視点から見た時にさもないという事ですから。」
「セレスティア……どうしよう……筋肉がなくなっちゃったの。
……ぐすん。」
「全身打撲。複数箇所の筋断裂。
肋骨は五本骨折、鎖骨粉砕骨折、左橈骨ひび。
胸骨に亀裂。
骨盤に微細骨折。
肺挫傷による出血。軽度気胸。
さらに三日間昏睡。
心停止二回。蘇生処置済み。
ついでに栄養失調。」
蒼い瞳が、容赦なく見下ろす。
「それで腕立て伏せ? 正気ですか?
肋骨骨折があと少しでもずれていれば、肺を貫いていました。
なので動けるわけないです。
というか、激痛で動けないはずなんですけど。」
床にカエルのように潰れながら、クラリッサは泣いていた。
確かに気持ち、体が痛い気がしてきた。
「……ぐっすん。
でも腕立て伏せって、そういうことじゃないじゃない?」
「いえ、限りなくそういうことです。」
セレスティア。
救済の象徴にして、選別の聖女。
教会勢力の頂点。
彼女を中心に、信仰は回り、
彼女を通して、神意は言葉になり、
彼女が頷けば、それは是あり
彼女が沈黙すれば、それは否ある。
その聖女が、衣擦れの気配と祈りの残香ともに近つき、ベッドへとクラリッサを戻す手伝いをする。
そして流れるように、白く細い指が、そっとクラリッサの手首へ触れた。
カチっ。
──かち?
小さな乾いた音とともに、拘束具でクラリッサの手首を固定した。
理解が一瞬が遅れるほどの、あまりの早技だった。
「あの。セレスティアさん?これは?」
「事態は急を要します。
魔力の乱れ。
天候と海象。
魔物。
全部狂ってる。
ありえない事に、休眠状態の精霊が暴走した。
さあ、ちゃっちゃと解決策を吐きなさい。小聖クラリッサ。
あなたには、それしかないんだから。
それを吐くまで、拘束は取れないと知りなさい。」
「ね、ねえセレスティア。
もしかして、私を拘束したのって。……まさか。」
「尋問。
それと治療中なのに、腕立て伏せするおかしい患者の拘束の意味もあります。」
「……なんてしょうもない……」
クラリッサは、天を仰いだ。
クラリッサは、自ら拘束する銀色の輪を引きちぎろうと試みる。
微動だにない。
「じっとしてるし、話すから、拘束解いてもらえる?これ」
「今回、私は波間より、あなたの命を救いました。指示は聞いていただきます。」
「礼を言うし、話すわ。
それじゃ拘束外してもらえる?
救済に見返りをもとめないものでしょ。聖女って。」
「そういうのいいんで。」
いいんだ。
話し合いは、初手にして平行線を描いていた。
──がちゃんっ!
お盆が落ちた音とともに銀の盆の上にあった包帯が散らばり、薬瓶が転がる。
見ると、扉の傍らにマリアがいた。
「お嬢様!!」
「マリア!!
ちょうどよかった!!この聖女なんとかしてもらえる?
頭おかしいの。」
「良かった!!お嬢様!!二度と目覚めないんじゃないかと!!!!
うええええん!!!!!」
「ちょ、苦し……マリア……」
クラリッサの言葉を無視して、マリアがベッドの上に飛びついた。
ためらいなくクラリッサの身体を抱きしめている。
マリアは号泣していた。
堰を切ったように、嗚咽がこぼれている。
上下する肩や頭をなでながら、クラリッサは苦笑する。
──泣いている。
全然泣き止まない。
どうしよう。
慰めの言葉は、どうにも苦手だった。
だってそのうち元気になるし。人って。
「マリア。心配かけたわね。」
「ホントですよ!!
今回はホントにひどいです!!
ホントのホントにひどいです!!
ホントに怒りますからね!!!」
「いや、ごめんって。」
「絶対反省してませんよね!!!
なんで何も相談してくれなかったんですか!!!!」
「何かあると思ってたけど、何が起きるかまでは想定できてなかったのよ。」
「それでもです!!
お一人で抱えるの、もうやめてください!!
私は従者です!!
盾です!!
勝手に命を賭けないでください!!」
「いや、でも、バーベルって一人で持つじゃない。」
「お嬢様よく、フォーストレーニングするじゃ、ないですか!?それと同じです!!」
「な、なるほど。確かに。
一理あるわ。それもそうね。」
(※フォーストレーニング……自分の力だけでは最後の1回が挙げられないところを、パートナーがほんの少しだけ補助して挙げ切る方法。)
セレスティアが、呆れた顔で言った。
「どうするんですか?クラリッサ・グランディール。
いえ。小聖クラリッサ。
水精霊の力は暴走。アルシェリオン王国の水位は今も上がっています。
このままでは大陸は全て海に呑まれます。
原因となっている水の柱には、超越種である巨大空中回遊生物レヴィヤタンが巡回していて近づけない。」
「そうね。笑っちゃうくらいの最悪な状況ね。」
「破滅まっしぐらです。
破壊の規模で言えば、魔王が襲撃してきたに等しい。」
「決まってるでしょ。」
そして気づけば、そこにいたのはマリアだけではなかった。
クラリッサの回復を聞きつけて集まったみんながいた。
兄であるセドリック・グランディール。
バルド・ガルディウスの一味。
第二王子アルヴェルト。アルシェリオン。
そしてアルヴェルト側近騎士アランと魔王戦線で共に戦った仲間達。
ここまで、一緒に駆け抜けてきた仲間達。
奇跡でもなく、啓示でも、イベントでもなく、ただ歩き続けた結果として集った人々。
床に足をつける瞬間に、わずかに身体が揺れながら、クラリッサはベッドから降りる。
痛みも、傷も、後回しにして立つ。
クラリッサは不敵に笑った。
血の気の戻らぬ顔で、包帯を巻いたままで、謎に手首を拘束されたままで、それでも。
言葉は、乱暴で、粗野で、けれど妙に眩しい。
「当然。全てぶっ潰す。
殿下。またお力をお借りします。」
「ああ。任せてくれ。」
「まず、ローウェン・トレザール伯爵と謁見の手配を。」
一同は思った。
誰?




