88話 津波。そして。
リーシャは上空に浮かんでいた。
天候を操作し始めている。
空中に黒い雲が集まり、渦を巻き、空を満たす。
その中央にリーシャ。
レヴィヤタンは、すでにリーシャが召喚した水龍に食いつかれ、沈黙している。
龍の顎に挟まれ、身動きひとつできず、沈黙を強いられている。
その瞳は、ただ、空を仰ぐのみ。
クラリッサは見上げる。
少女一人。
砂浜に立つその姿は、黒雲に対してあまりにも小さい。
細い肩に、濡れた金の巻き髪が風に揺れるが、その瞳だけは、冷静。
水平線が持ち上がる程の津波を、つり気味の瞳が射抜く。
──津波とは単なる水の壁ではない。
──それは、海面全体の体積移動。
(高さ……ざっと100……いや、沖合を含めればもっとか。
波長が長い。
仮にこの沿岸の水深を平均三百メートルと仮定して――)
──来る前に、地形を利用できるか
──山間は駄目。波の高さがあまりに高すぎる
──岩礁……いや、衝撃で崩れたら、そっちの方が危ない
──etc
空ではリーシャが天候を掌握。
天を黒鉄に塗り替えている。
雷雲が形成。
超低気圧も生成。
──おそらくだが、リーシャのスキルを考えるに、重力場と気圧場による操作。
──水精霊の干渉もあると考えるに、空気中、水中、あらゆる水分子に宿る精霊群が流体制御を請け負ってる。
(黒雲は演出ではない。
上昇気流を極端に発生させ、低圧域を作り、海面を吸い上げ、遠心的に圧縮。
リーシャを中心とする“災害規模の気象制御フィールド”をつくりあげたんだ!!)
天候制御という名の外殻。
重力偏向と圧力降下を同時展開。
水精霊が空気中、水中、深海に至るまで流体制御を補助。
因果が逆転していた。
──地震がない。
──なのに、海底から水塊が動いている。
──半径……少なくとも数キロ。いや、海流も連動しているなら十数キロ規模か。
──リーシャを殺すしかない。
──いや、殺しても無駄か。
(リーシャはすでに、半精霊と化している。
ならば海の意志をその血肉に宿し、物理法則からすら、いずれは逸脱する。)
通常の魔術において、精霊に力を借りる場合の魔力ルートはこうだ。
人間 ⇒精霊へ干渉。
だが今は違う。
海 ⇒精霊 ⇒ リーシャ ⇒ 世界。
リーシャは発信源ではなく、通路にすぎない。
その精神は水精霊に囚われ、膨大な魔力の奔流にさらされ続け、自我が近い将来消滅する。
(そうなれば新たな水精霊が誕生する。
あるいは、水精霊に飲み込まれた全く別の新たな精霊だ。)
信じるしかない。
破滅ルートとは、あくまでリーシャが半精霊と化し、暴走するまでを示したものであると。
その後の選択は、ゆだねられていると。
つまり。
これは、神が世界を本気で滅ぼそうとしているのではないと。
ただ、選択肢の一つとして、暴走という出来事を世界に配置しただけなのだと。
──くそ。やばいくらい後手を踏んでる!!
──こんな浅はかな神頼みに、希望を託さなければならないなんて!!
砂浜で。
滅びの演算が進行する世界の中心だとして、
生き残る術が全く見えないとして
──考えろ。
終わる。このままでは。
ゲーム画面があったなら見えている。
イベント専用CG。
BGMは荘厳にして不穏。
画面の端に微かにノイズ。
ゲームオーバー。
水平線は、もはや線ではなかった。
蒼き断崖。
世界を閉じる壁。
波音であり、
同時に、データ消去の軋み。
砂浜に立つのは、ボロボロの令嬢と、その侍女。
「お、お嬢様、どうしましょう!?リーシャちゃんが!?いえ、その前に私達が……」
「マリア……お願い。殿下を……」
「どうするんですか!?」
クラリッサにしては、ひどく曖昧な指示だった。
命令でも、懇願でもない、世界を懸けた一片の祈りのような。
「あなたと殿下を、今から全力で投げる!!津波の影響範囲から逃がすから!!ごめん!!マリア!!」
「いけません!!!!それでは!!!」
「マリア!!!私は失敗した!!!
少しでも世界に未来を残さないとならない!!!お願い!!!!」
令嬢の仮面は、どこにもなかった。
あるのは、失敗の責任を背負おうとする姿だけだった。
「嫌です!!!それだけは、それだけは嫌です!!!聞けません!!
今までどんな事でもお嬢様の事は聞いてきました!!
でも、それだけは聞けませんから!!」
「マリア。」
クラリッサはマリアを抱きしめた。
泥にまみれた腕で。
傷だらけの体で。
抗えぬ運命を握る手。
抗えぬ運命を投げる手がそこにはある。
その両方を持つ者の、震える抱擁。
「お願い。あなたにしかできないのよ。
幼い頃からずっと一緒にいてくれた。
私にいくら叱られても、無茶振りされても、絶対に離れなかったあなたになら託せる。」
「ずるいです。いっつもお嬢様はそうです。
一人でいっつも何かを抱えて。一人だけで突っ走って!!!
私は、いっつもこんなに心配しているのに!!!!」
「世界とは言わない。グランディールを守って。マリア。
私たちが育った場所を……
そして未来を。お願い。
最後の無茶ぶりになると思う。」
アルヴェルトを抱えたマリアを、しっかりとクラリッサは腕に収める。
「目を閉じないで。
あと、どうでもいいんだけど、メイドってなんなのかしらね?
冷静になると、すごいわよね。」
「なぜこの場面でそれを言うんですか!!
……絶対、迎えに来ます!!!」
「待ってるわ。考察しとく。」
クラリッサは、アルヴェルトを抱えたマリアを投げた。
この世界で鍛えた肉体。
筋肉が、静かに唸る。
世界を閉じる水壁が、彼女を呑み込む。
天は砕け、
海は跳ね返り、
黒雲は絶え間なく渦巻く。
そしてその島は、天をつく津波に包まれた。
──後日報告。
砂浜で、グランディール家所属メイドであり、魔術学校生徒であるマリアに抱えられるように、第二王子アルヴェルトは、漂着している所を発見された。
マリアに抱えられ、アルヴェルトは砂浜に漂着した。
業務どおり海を監視していただけの若い兵が、夜明けの巡回中に発見する。
発見時、アルヴェルトは意識を失っていたが、周囲に敵性存在の反応はない。
波浪は、津波の影響かやや強いが、直ちに生命に危険を及ぼす状況ではなかった。
早急に医療機関に運ばれたアルヴェルトに傷はなく、鼓動も問題ない状態であり、総合判断として、重大な負傷は認められない。
一過性の意識消失と推定された。
教会の医務室。
意識を取り戻したアルヴェルトは、同じ教会に搬送されていたマリアの所へ訪れた。
「マリア……クラリッサ殿は?」
「お嬢様は、あの島に残られました。私達を助けるために……」
救われた命。
置き去られた運命。
それは少なくとも祝福ではない。
始まりの音。
沖合の無人島付近で津波が発生したが、それは近隣の街を呑むほどの暴威でなく、津波の被害は限定的ではあった。
最初に気づいた者は、港の老灯台守だったという。
その後王国全土の海における水位に上昇が観測され、その影響は各所に及ぶ。
余韻は、王国全土を侵していた。
海。沖合5キロ。
無人島があったそこに、水の柱が立っていた。
螺旋を描く、水の竜巻のようなもの。
滝が逆巻くように。
柱には、レヴィヤタンが巡回する。
超越種。
人間が未だ打倒した事がない、災厄に等しい魔物。
有象無象の魔物が、海から吐き出され始め、やがて日がたつと被害は拡大した。
鐘を七度鳴らし、王都にて宣言がなされた。
これは災害にあらず。意志を持つ災禍なり。
破滅の形は、水位の記録。
傷跡は、塩害。
終末への片道切符が王国を抱きしめる。
そして。
クラリッサは目覚めた。
「どこよ、ここ。」
なんか、決して持ち上がらないバーベルを上げる、そんな幸せな夢を見た。




