7話 魔物
クラリッサは、伯爵家の中庭の片隅で、子供とは思えぬ鋭い目つきでプッシュアップに向き合っていた。
──だめだ。これでは。
やはり、一刻も早く、タンパク質の供給ラインを整えねば。
「……クラリッサ。ここにいたのかい。」
透明な声が降るように届いた。
振り返れば、陽光を背に立つセドリック。
白金の髪が細い光をこぼし、まるで彫像が瞬きしたかのように優雅だった。
「妹よ。その小さな身体に、そんな真剣な強度を課すとは……美しい努力だ。実に、眩しい。」
「……お兄様。まだまだでございます。これでは、こんな事では、ゴリラにはなれない。」
セドリックは、クラリッサの汗ばんだ額に触れないように、そっと風を送るように優雅に腰をかがめた。
「体はね、鍛えるだけでは育たないんだ。水分と、心の余白が必要。──これは学府の先生が言っていたよ。間食に行こうか。」
「……お供いたしますわ。お兄様。」
「うん。君が笑うだけで、世界が少し優しくなる気がする。」
(そんなわけない。)
「キリがいいところまでやりますね。数秒なので。」
それは春風の微笑み。
ふんぬ、ふんぬ、ふんぬ、ふんぬ
それとゴリラの雄叫び
2人は歩いていた。
「マリオンが間食を用意したんだよ。最近の間食は凝っていてね。
……今日は柔らかさと硬さ、対照的なものを調和させている逸品だそうだ。」
(それはヨーグルトと乾燥チーズ……)
「ええ。先日、食事について私の方から提言致しましたので。早速間食に反映されています。さすがですわ。」
全てわかっているという風に、セドリックは頷いた。
「それにハーブティーもある。レモンバームとカモミールと、少しだけミントが入っている。身体の緊張をほどき、呼吸を整える……まるで、“努力に寄り添う精霊”の飲み物だね。ふふ。」
クラリッサは吹き出しそうになるのをこらえる。
変態だ。
セドリックは、乙女ゲームの攻略対象の一人だった気がするが、そのナルシズムが需要があるのだろう。
兄は世界をを、己の耽美な感性で昇華させる。
単なるヨーグルトと乾燥チーズを、まるで詩のように、時を刻ませていた。
彼の食べる姿は、完璧な芸術であった。
そして、ナルシズムの極地であった。
「さて、次ね。厨房に行きましょう。」
間食の片づけが終わると実務的にクラリッサは言った。
「あの、クラリッサ様。切り替えが……ひどく余韻をぶった切られるんですけど。」
「セドリックお兄様は、面白いのよね。
魔術の詠唱を習い始めてから、ああなったらしいわ。」
「へー。」
「絵になるというか。普通のこと言ってるだけなのに、自分の世界に入るっていう、ある種才能よね。」
マリアは足早に歩きながら言った。
「時間がない。ちゃっちゃいかないと。」
「お嬢様のお小遣いがなくなると、タンパク質を購入できなくなるから、そんなに急いでおられるんですか?」
「さすがマリア。わかってる。」
クラリッサとマリアは、廊下を、小さな足で踏みしめていた。
向かう先は――厨房。
「ところで、クラリッサ様。嘘ですよね?魔物を食べるなんて」
「不安よね。わかるわマリア。私も不安だもの。だけど、安心して。もちろん安定的に肉や魚を手に入る事は目指すつもり。
魔物の食肉化なんて、あくまで安定供給までの“繋ぎ”だから。少し魔物について調べたけど、不確定要素が多すぎるもの。」
「いや、そうではなくて、クラリッサ様って6歳……。」
クラリッサは止まった。
思わずたんぱく質への危機感から、本気になってしまっていた。
「……クラリッサ、子供だから、よくわかんない。」
「いや、もう遅いですー!!今更猫を被らないでください!!」
「マリアがこわーい。」
「そもそも6歳の子供が、魔物を食べようとしている方がおかしいですから!!」
厨房へ到着する。
厨房の一角のテーブルの上に、食材を広がっていた。
そこはすでに、暗黙の了解でクラリッサとマリアの開発エリアとなっており、老マリオン料理長が、監視という名の見守りをしている。
「魔物の肉についてだけど、すでに準備してあるの。」
「なんで!?いつですか!?!?」
「夜に決まってるじゃない。昼はマリアの監視が厳しいもの。」
「1人でですか!?!?」
「当たり前よ。あなた寝てるもの。」
「んなー」
マリアは口から魂が出た、
首になる。首になってしまう。
「安心してマリア。急いでただけだから。
それは悪魔の囁きだった。
「今回だけ。もうやらないし、何をしたかなんて、絶対に言わないわ。」
「ほ、本当ですか?」
マリアは完全に崩れ落ちた。
「お嬢様ぁぁぁ……!!だ、誰かに見つかったら……わたくし……絶対に首になります!
侍女失格です!お目付けの役目が……わたくしの存在意義が……!わたくしが仕事を失っては……家族が路頭に……」
「そうよね。首になっちゃうよね。だから、私のしたことは、黙っててもらえるかしら?もし言ったら、どうなっちゃうか、言わなくてもわかるわよね?」
「はいいいい!!!!」
「よろしい。」
クラリッサは、何事もなかったように花のような笑みを浮かべだ。
「それじゃ、次からはマリアもね。ずっと一緒よね。私たち。よろしく。」
「はい、わかりました!!……え?ええええ!!!!私も??た、戦えませんよ!!私!!」
「よろしくねマリア。よし、完璧に話はついた。」
老料理長は思った。
何も話がついてない。
権力による、ひどいゴリ押しを見た。
マリアは、眉をほんの少しひそめた。
なぜかテーブルの上に、ゴブリンの死骸が乗っている。
「……あの、このゴブリン、頭が陥没してるんですが。」
「ああ、それはアイアンクローで、ちょっと……」
「アイアンクロー……」
「ゴブリンの頭の陥没した跡が、手の形みたいになっているでしょ?私の手の形と一致するから。」
「……なるほど。そこまでおっしゃっていただければ、もう大丈夫です。」
クラリッサは小さな手で、さらに二つの肉の塊を示した。
「こちらが普通のウサギの肉。そしてこちらが、ホーンドラビットの肉。違いはわかる?」
「そもそも、本当に本気ですか?クラリッサ様……魔物を食べるなんて。」
クラリッサは首をかしげる。
彼女はただ純粋に、効率的に筋肉をつけたいだけなのだ。
マリアは震える声で言う。
「お、お嬢様……。これは、食材として……安全……なのでしょうか……?」
「それを今から確かめるんじゃないの。大丈夫、私が食べるのですから。」
その小さな一言が、厨房の者たち安堵させた。
思わず厨房の中に弛緩した空気が流れる。
ならいいか。
マリアと老マリオンは思わず目を合わせた。
え。いいの?




