68話 初日
光を反射する水面の向こうで、ひとつの影が、ありえない速さで流れていた。
否、それは奔流そのものであった。
──ばしゃああああっ!!
遠くで海が爆ぜる。
それは遊泳という名の蹂躙であった。
ふとリーシャは我に返った。
「なんで!!!
グロッキーだったじゃん!!!ほぼ死体だったじゃん!!
待って待って待って!!
あの速度はおかしいでしょ!!?」
「リーシャちゃん。気持ちはわかります。
でもお嬢様の中で、水泳は、内なる分類において有酸素にカテゴライズされるんです。
卓越した筋肉をお持ちなるお嬢様にとって、水泳など陸地を歩いているのと、全く変わりありません。」
「……つまりクラリッサさんにとって、泳ぐ=歩く?」
「然してそうですね。」
「おかしいから!!!
納得されそうになったけど、絶対におかしいから!!
「……お嬢様は、ご自身の“基準”でしか世界を測りませんので。」
「その基準がもう、人類じゃないんだってっ!!!!」
「ぐっすん。だって止めても聞かないし。
何回も止めたんですよ?
魔物だって出るのに……海は危ないのに……」
「あきらめないで!!!」
そしてクラリッサは、岸に上がってきた。
そしてその脇には、鮫が抱えられていた。
捕えたのだろう。
クラリッサは、岩の装甲を持つ海の暴君を砂浜に転がす。
その身体には、拳の形をした陥没が刻まれていた。
その横顔は、どこまでも無意味に、あまりにも無意味に美しかったという。
「海って結構危ないのね。
こんなの出てきたんだけど……
とするなら、追い込むまでトレーニングは厳しい……疲れた時に襲われたらひとたまりもない。強度を落とすしかないか……」
「お嬢様。お疲れ様です。
そうですよ。海は危ないんですよ。
それにお嬢様は本調子ではありません。さすがに今はやめた方がいいのでは……」
「なりません。
カロリーが足りなければ、筋肉が分解されてしまう。
そしてこのペースで動いてしまえば、カロリーがすぐにでも枯渇してしまう。
幸い魚は、たんぱく源として非常にすぐれている。
この機会を逃す手はありません。
とにかく、量が必要です。」
クラリッサは、濡れた前髪をかき上げた。
すでに理性は切り捨てられていた。
「消費し続けるカロリー以上のカロリーを、海産物から摂取します!!」
リーシャは、にこにことしながら、冷や汗を垂らしていた。
──……鮫には誰もつっこまないの!?!?
絶対海に入りたくないんだけど!!!!
──休憩時間。
マリアは剣をもっていた。
それで魚を捌く。
「上手……」
「慣れておりますので。」
そしてマリアは、捌き終えた魚を調理していた。
迅速に天然の料理設備を整え、調理をしていく。
石組み。
火起こし。
即席とは思えぬ天然の料理設備。
食材の量は、食べきれる量ではなかったので、余剰分は学校へ献上した。
保存処理を施せば、しばらくは今回の合宿や、学生食堂でも使えるだろう。
クラリッサはひたすら魚を食べていた。
表情は変わらない。
会話もない。
ただ、摂取だけが続いている。
焼かれた身。
揚げた切り身。
蒸された白身。
──etc
「……増量期、に入るそうです。
筋力トレーニングには、減量期と増量期がありまして、増量期に、筋肉は増大すると。」
リーシャは、串を持ったまま固まっていた。
──いまって、合宿の休憩時間じゃないっけ?
午前最後のカリキュラム。
基礎体力向上訓練。
すなわち。オールアウトを目指すためのトレーニング。
(※クラリッサ意訳。)
リーシャは、杖を構える。
お婆ちゃんの形見の杖で、入学当初からリーシャを支えてきた杖を。
そして最近覚えた重力魔法。
対象の重力を増大させる、高等魔術。
対象は、クラリッサ・グランディール。
魔力が杖を通り、空気がわずかに沈み、クラリッサの足元で、砂が沈んだ。
──どんっ。──どんっっ。──どんっっ!!!
重力が、重ねられていく。
ふん。ふん。ふん。ふん。
「リーシャさん!!ファイトです!!」
リーシャは、マリアの張りのある声援を受けながら思っていた。
――なぜ、夏合宿のこんな炎天下の中で。
砂浜では、級友たちが笑い、水を掛け合い、普通に、訓練とは名ばかりに楽しんでいるというのに。
――なぜ私は。声援を受けながら級友に重力魔法をかけているんだろう。
「リーシャさん、出力、安定しています!
もう少しです!お嬢様、とても良い負荷だそうです!」
「わかった!!」
全然わからん!!!!
午後のカリキュラム。
実践訓練を兼ねた、探索実習。
「ダンジョンね。」
潮騒の響く崖。
──そこに穴が空いていた。
断崖の陰で、波が岩を削り続けている。
穴の中は暗く、海風が、ひやりとした湿気を運んでくる。
自然に穿たれたものではない、歪んだ形。
それは悪魔のささやきのように手ぐすねを引いていた。
「よしよし。今日は調査中心だからね。レポート用の羊皮紙持ってきた。
潮位は問題なし。」
「お嬢様。内部は、魔物の反応があります。視界は悪いけれど、構造は単純そうです。」
「んじゃ出発。」
リーシャは手を上げた。
「えっと……
わ、私は後方にて声援を担当するね!」
「声援は力になる。
だけどダンジョンにおいて、声援をあげるものが安全な場所に留まることは、ほとんどない。
なぜなら、うるさいから魔物に狙われるから。」
「いや前に出ろってことだよね!!
怖いから!!!!わかったから!!!!」
古き英雄譚における扉を開く場所で、運命が試されようとしていた。




