35話 逃避行
バルドは、大剣を構えていた。
そしてクラリッサは、彼の肩幅と重心を見ていた。
(ほう……やはりいい体をしている。)
──クラリッサの筋トレレーダーがビンビンに反応する。
すでに調べていた。
バルド・ガルディウス。
剣一本で戦場を渡り歩き、王侯貴族の護衛から裏社会の汚れ仕事まで請け負ってきた、名の知れた傭兵の男──でありマッチョ。
アルシェリオン王国武術大会本戦の常連。
優勝こそ一度もない。だが――必ず本戦に残る。それだけで、彼の実力を疑う者はいない。
「面白いことになってんな。大人しく牢屋に戻れよ。嬢ちゃん。怪我をさせたくないんだ。」
「バルドさん。マリアに負けて、こんな負け犬みたいな仕事してるんですね。
ああ、言っておきますけど、私、マリアほど甘くないので。牢屋に戻るわけないのはわかりますよね?」
「そいつを離してもらう。俺は今、雇われた用心棒でね。
まさか誘拐された貴族令嬢を監視する仕事だとは思わなかったが、契約は契約だ。そいつを殺されると金が入らないんだ。」
「離すのはいいですよ。この男については、生きても死んでても、どっちでもいいので。」
拘束から解放された男爵の執事は、怯えた犬のようにバルドの後ろに隠れた。
「殺せバルド!!今すぐその女を殺すんだ!!!」
「おい。てめえ。逃げろ。」
「早く、殺せ!!」
「しょろしょろしてんなって言ってんだ!!殺されたくないなら逃げろっつってんだ!!!!死にてえのか!!!こいつは化け物なんだよ!!!!」
執事の顔から血の気が引き、彼は階段を転げ落ちるようにして逃げ出した。
そしてバルドは剣を構え、重心を下げ、肘を締めた。
完全に「殺し合い」へとスイッチする。
「いい判断です。退避誘導ですね。」
「言ってろ。クソガキが。」
「ですけど、私と戦うのは、いささかいい判断とは言えません。」
バルドは言葉を無視した。同時に大剣が唸りを上げた。
速く、重い、振り下ろし。
これを正面から受けるのは、普通は自殺行為――普通なら。
クラリッサは指を二本、差し出した。
そしてすでに完全に戦闘態勢に入っていたバルドの一撃を、クラリッサは受け止める。
──あり得ねえだろ
そのままクラリッサは返すように拳を打ち出す。
それをバルドの顔面で寸止めする。
それは皮膚の数センチ手前。
「まだやりますか?いいですけど。殺しちゃわないかなあ……独学にしては相当に完成度が高い、そのトレーニングの事を聞きたかったんですが……
死にたくない程言いたくないならしょうがないか……筋肥大しているのは、あなただけじゃないし……次の奴を見つければ……うん──」
クラリッサが何やらぶつぶつ言い始めたので、バルドは降参した。
バルドと一緒に、クラリッサは廊下を歩いていた。
いや、並んでいるように見えるだけで、外から見れば「捕まった貴族令嬢と護送役」に見えている。
(人は配置で物を見る)
バルドとの距離は半歩、そして剣の利き腕側。逃がさない配置だが、拘束はない――これで十分。
廊下の先で、足音がした。見回りの兵が視線を向ける。一瞬の訝しげな目。
バルドの“名の知れた傭兵”という看板──
その実績。
筋肉と傷の説得力。
「……通れ」
人は情報の九割を、肩書と見た目で判断する。
二人は、そのまま歩き続けた。
「以外とばれねえもんだな……。深掘りもしてこねえし、そんなもんなのかもな。
だが人質の振りしても無駄だと思うぜ。ここはあんたの敵しかいない。お目当てのラインハルト男爵は武術大会の会場の貴賓席だ。
そこにたどりつくのに、どれだけの護衛がいると思ってる?たどり着いたところで、護衛に拘束されて終わりだ。」
「そちらはどうでもいいのです。欲しいのは記録です。お客様の記録。」
「……記録?なんの話だ?」
「闘技場の裏賭博をご存知ないんですか?そのお客様名簿ですよ。」
(裏賭博……だと?)
武術大会で行われる誘拐騒ぎ。傭兵に出された場違いな高額依頼。
点と点が、嫌な音を立てて繋がりはじめていた。
「……はは。嬢ちゃんやべえんだな。さすがはあのメイドの主人だ。メイドよりイカれてやがる。」
「バルドさん。私に鞍替えしませんか?」
「は、敵をスカウトかよ。笑えるな?」
「どのみち、今回の失敗で、あなたは処分されると思いますけど。」
「……」
厚い木製の、鉄帯補強された扉にたどり着いていた。
内部シリンダーと閂で固定され、枠は石造り。かなり頑強といっていい。
「……鍵は?」
「いりません」
(負荷方向、こっちかな──多分。よっと!!)
ノブに手をかけ力は、入れすぎず、一瞬で外側に引く。
キィィィィ――!!ギャァン、バキィッ!!
数秒後、扉は「開いた」というより、壊れた結果としてそこに無かった。
クラリッサがドアノブをそっと握ると、悲鳴を上げ、蝶番が歪み、鋼が“引き剥がされる”音が廊下に響いた。石枠だけが耐えていた。
「……」
バルドは突っ込むのを諦め、剣を肩に担いだまま、何も言わなかった。
机の上にそれはあった。
「ありました。詰みです。」




