34話 誘拐された伯爵令嬢
そこは、かすかな風が隙間から吹き込むだけで、人通りはほとんどなった。
王都闘技場の、普段は用具や装備が雑多に積まれている薄暗い物置。
クラリッサは目を覚ました。
手首や足首が縛られていた。クラリッサは素早く周りを見渡す。
──どこだ?ここ。
まず呼吸。浅くはない。
次に脈拍。やや遅いが許容範囲。
――視界は問題なし。
手首と足首に感触。
鎖だ。錠はしっかりと固定されている。
(……薬か。睡眠系。たぶん中枢性。持続時間長め。)
「起きたか……噂通りの化け物ぶりだ。大型魔物ですら3日は昏睡する劇物なのだがね。」
「……貴方は?」
手足を縛られながらも、クラリッサは起き上がる。動作に焦りはない。
(ここは……推測するに闘技場の物置。空気が乾いてる。油と鉄の匂い。人目につかない。――誘拐した者を捕らておくには、なかなかに合理的。)
「私が誰かは知らない方がいい。あのメイド──マリアさんはやりすぎた。彼女が本線を勝ち進めば、クラリッサさん。あなたも死ぬことになる。」
「ふふ。」
クラリッサは冷静に周囲を睥睨しながら、笑った。
「何かおかしい事でも?」
「いえいえ。ただ感心していたのです。」
起き上がりながらも、クラリッサの頭はまだひどく揺れていた。
それに重い。筋肉も弛緩していた。
(――強力な筋肉弛緩効果。残留感あり。多分、結構盛られた。)
「よく眠れるお薬まで使用されるとは思っていませんでした。
私のプロテインに混入されたのですね。ちょっと変な味がしたんですよね……。気にせず全部飲みましたが……混入したのは私の周りの誰かかなあ……炙り出さないと。」
「……大人しくしていれば帰れる。君のメイド次第だが。」
「武術大会は、賭博の温床になっている。利権が動いていて、八百長も多い。
私とマリアは、そのご愛用者達の怒りに触れたということですね。」
「わかってるなら、静かにしていた方がいい。」
クラリッサは平然と受け答えしていた。その姿に違和感があった。
手足を拘束され、猛獣用の巨大な檻に入っているが、あまりに自然というか。まるで意に介していないというか。
「そうですね。お薬が効いているので、じっとしてますね。お喋りをするつもりは?」
「ない。静かにしてた方がいい。」
「つれないですねー。暇なんですけど。
檻の内径は三歩弱。天井高は二メートルちょい。ストレッチくらいはできますね。」
グランディール家は一線を越えていた。
組織は、利権を確保するためなら、誘拐などの手段を問わない。
睡眠薬も使用する。目的のためなら手段を選ばない。
王国武術会、4回戦。
マリアは、闘技場の中央で男と向き合っていた。
対戦相手はニヤニヤしていた。
直感的に悟る。
──こいつだ。こいつがお嬢様を攫ったのだ。
目が言っていた。わかっているよな?お前が戦えばお前の大事なお嬢様がどうなるか。
試合は開始された。
対戦相手の男は、手に細身のレイピアを握って立っていた。
マリアは動かなかった。男の攻撃を全て甘んじて受けていた。
痛みは鮮明に身体を貫き、血が服の裂け目から滲む。それでも瞳は揺らがず、どこか遠くを見つめるような静けさを湛えていた。
――マリアは、攻撃をすべて受ける。理由はただ一つ。
──おい、もうやめてやれよ。
観客の誰かの声が、ざわめきの中で響いた。
武術を競う大会が、公開処刑へと変化していた。
服はレイピアにより無残に切り裂かれ、顔面は殴られ、それでもマリアは膝を折らない。
女性の観客が飛び散った血液に思わず悲鳴をもらす。
「……お嬢様。すいません。」
「どうしたメイド。戦わないのか?俺は一向にかまわないぜ。」
手が出せないとわかっているからこそ、その男は揶揄する表情を崩さない。
「考えていたんです。お嬢様なら、どうするのかって。」
「答えは出たのかよ。そのお嬢様は助けてって言ってると思うぜ。」
「違います。きっとこう言います。──なんで、石鹸の宣伝しなかったの?
なんで勝って、筋肉の美しさを誇示しなかったのって。」
「意味が……おまえ、俺に手を出せば──」
「──よくも……よくも、お嬢様に手入れして頂いたこの体に、ここまで傷をつけましたね。万死に値します。」
慈悲も、躊躇もない、処刑の前口上に、男の表情が、凍りつく。
大仰な構えも、雄叫びもない。
マリアは、日常の延長のような、ごく自然な動作で箒を構えた。
「今まで、今までずっと手加減していたんです。戦った相手を殺してしまうかもしれないから。武術大会だって、本音を言えば出たくなかった。
でも、お嬢様が喜ぶから、本当に喜んでくれるから。だから少しだけ頑張ろうって。」
クラリッサが大切にしていたこの体が、誰かの血で汚れることを、無意識に避けていた部分もあった。
だが――今、この瞬間だけは違った。
相手が死のうと、構わなかった。
むしろ、積極的に死ね、とすら思った。
その一撃は、ただ箒を振り抜いただけだった。
箒が空を切る音は軽い。
しかし、それに触れた瞬間、男の世界は一変する。
闘技場が割れた。地面ごと。観客を守る結界が、衝撃で不快な音を立てて軋んだ。
レイピアごと男の体は弾き飛ばされ、卑屈な自信も、嘲る笑みも、まとめて粉砕された。
闘技場に広がったのは、悲鳴ではなく――理解の遅れた沈黙だった。
男は意識を失う寸前に悟る。
もしかしたら自分達は、竜の尾を踏んだのではないか?
勝利してマリアは控室に戻る。
クラリッサの姿はなかった。
マリアは不安だったけど、これが最善だと導き出す事ができた。
だって、──自分はこんなにも強くなったのに、クラリッサを殺害する手段が、一切浮かばないのだから。
クラリッサはあまりに暇だったので 檻の中で筋トレしていた。
(手首と足首を縛られ、猛獣用の檻に押し込められているという状況。
待機時間が長いし、一眠りして回復も進んでる――冷静になってみると、動かない理由がない!!)
手足を縛られている拘束のせいで、クローズスタンス。
静かに腰を落とし、スクワット。
続けて、床に手をつき、プッシュアップ。
次に躊躇なく跳び、檻の天井部分にぶら下がる事で、懸垂。
「どうやら、君のメイドは、主人を見捨てたらしい。薄情なことだ。順調に勝ち上がっているよ。
ところで、さっきから何を?」
ぶら下がったまま、クラリッサは答えた。
「トレーニングの日課。あと暇なので。話なら後にしてくれます?バルクが冷めます。」
「……」
一度、身体を引き上げ、静止。それを何度か繰り返していた、その時だった。物置に荒くれ者が入ってくる。
監視している男と話した。男は肩をすくめた。
「処分が決定された。君は奴隷商行きだ。変態貴族が君をご所望だとさ。デビュタントの時から目をつけていたんだと。恨むなら、薄情なお前のメイドを恨んで死ね。」
クラリッサは安堵した。
「良かった。ちゃんと私を信じたのですね。マリア。しっかり教育したかいがありました!
とはいえ、伯爵家令嬢に手を出せるとなると、誰でしょうか。結構しぼられますね。」
「……おまえ……拘束が……」
クラリッサは、ぶら下がった状態から、ゆっくりと檻の床に降り立つ。
いつの間にか、クラリッサの両手、両足が自由になっていた。
少女の姿をした名伏し難い存在は、軽く肩を回した。関節の具合を確かめるように。拘束していた鎖が無惨に捩じ切られ、破壊されていた。
「私。これでも怒っているんですよ。パワーアンクレットを外されて、今日の日課が終わらないじゃないですか。
せめてパワーアンクレットも一緒に誘拐してくださいよ。虚弱どもが。日課の強度が落ちて、筋肉がカタボリックしたらどうするのよ!?!?」
※カタボリック……筋肉縮小のこと。
「筋肉は正直です。私の筋肉は、今日も成長する予定だったんです。
それを邪魔した。筋肉が縮んだら、取り戻すのに何日かかると思ってるんですか。刺激が不足すれば、分解が始まりかねない。許せない。殺してやる。」
「……化け物。」
男は後ずさった。
全ての人間が無力化されていた。クラリッサに。
「まあ、こんなものですね。そもそも誘拐手段の為に薬を使うくらいだし、対人戦闘の想定が甘い。ウォーミングアップにもならない。
あと思い出しました。その体格と筋肉。ラインハルト男爵家の執事の方ですよね。顔を隠しても無駄ですよ。体格で覚えています。デビュタントの時にいらっしゃいましたよね。」
「くそ。」
「逃げても、無駄ですよ?」
回り込むと、男の首をクラリッサは片手で、締め上げ、そのまま持ち上げる。
クラリッサは、力を込めすぎない。あくまで、適正負荷。
(意識は保たせる。会話は必要だから)
少女の姿をした存在によって、男の足が床から離れ、体が宙に浮いていた。片手で。
「楽しいお話し合いのお時間です。さあ、あなたの主人様のところへご案内して頂きましょうか。」
「あ……が……」
(うん。会話可能。問題なし)
喉から、かすれた音が漏れる男を、荷物のように扱い、部屋から出ようとしたところで、1人の男が、クラリッサの前に立ちはだかった。
その男は、大剣を扱う巨躯をしていた。
「ああ。あなたもやりますか?バルド・ガルディウスさん。」




