28話 浴室にて
入浴場の床は、薄い灰色の石を磨き上げたもので、湯の熱を受けて仄かに温かく、歩くたびにしっとりとした感触が足裏に残った。
大きな浴槽からは湯気が立ち上っていた。
クラリッサは腕をまくり、静かにマリアを洗っていた。
「なんかすごいいい匂いしますね。」
「食事管理の一環で、油も色々試したのよ、エゴマ油とかあればいいんだけど。まあ、研究中。
ちなみにこれは、木を燃やして出る灰を水で煮出すことで得られる弱アルカリを、油にぶち込んで香料を入れて固めたもの。石鹸ね。」
彼女は泡のついた手を湯に軽く沈め、とろりと滑るような泡をすくってマリアの肩へ落とした。
「まあ、経済にはそんなに興味はなかったから、作って満足してたけど、状況が変わったわ。筋肉だけじゃダメとか、終わってるわ。ホント。」
「お嬢様って、一体どこへ向かってるんですかね?」
「最強。」
微笑すらないクラリッサの言葉に、マリアは慌てて手を振る。
「いえ、あの、そういうことではなく」
「どうやら、お金が足りなくなりそうなのよ。だから、美容品の生産ラインを整えて、それを王子のツテで売り出します。
マリアの武術大会出場は、美容品販売のための宣伝も兼ねてるの。」
「あの……お嬢様。私ってそこまで容姿に優れていませんけど。」
「――宣伝に必要なのは“絶世の美”じゃなくて、“変化が目に見えること”だから。」
マリアは瞬きをする。
クラリッサは泡をすくい上げ、マリアの二の腕を優しくなぞった。
逃げられないが、守られているような、不思議な強さだった。
「あなたは、努力が外側にちゃんと出るタイプ。清潔にして、肌を整えて、髪が艶を持てば――周囲はすぐ気づくわ。『マリア、最近綺麗になった?』って。お高く止まってる貴族の淑女どもを、嫉妬させましょう!!そしてその財布の中身を搾り取ってやる!!」
「お嬢様はなんでそんなに戦意が高いんですか!!!嫌な事でもあったんですか!!!」
「デビュタントで学びました。やる時は徹底的にやるのが貴族社会だと。」
「こわ。貴族社会こわ!!」
クラリッサはマリアの肩をぐっと掴んだ。
「マリア。搾取される側に回りたくないなら、やりなさい!!徹底的にやりなさい!!いいわね!!」
「はいいい!!!!」
クラリッサは淡々と瓶の蓋を開け、透明な化粧水を掌に受け、マリアに塗り付ける
次に乳白色のローション。
そして最後に、クラリッサはオリジナルの魔術を行使した。
ただし派手な光はなく、皮膚表面の水分保持を補助する、極めて地味な術式。
「あとは数時間は静止。筋肉痛と一緒ね。回復待ち。」
「そんなにじっとしてたら……あの、業務が。というか、なぜそんなものがここに?」
「え?筋トレの間のレストタイムが暇だったから、インターバル中でせこせこ……あとはアイディアを設計図を書き起こして、お父上に流すだけよ。材料聞きたい?水。蜂蜜。塩。ゴブリン。」
「はい?」
「ゴブリンの死後、しばらくしてから、骨の内部に滲み出す魔力を含んだ水分。
あと眼窩の奥に溜まる半透明の粘液。
魔力成分と美容についての関連は、さすがの私もまだ研究途中でして……サンプルがねー」
「ひええ!!!!」
翌朝。
まだ陽の光が柔らかく、廊下に薄い金色を落としている時間帯だった。
クラリッサは食堂の隅で瓶を軽く振っていた。
その液体は琥珀色の液体が光を弾き、どこか薬品めいた香りが漂っている。
「マリア。これを飲んでもらえる?」
「お嬢様がいつも飲んでるやつですよね。」
「飲んだわね。じゃあ教会いきましょう。」
教会の簡易鑑定魔法陣が淡く光り、
司祭がぽつりと告げた。
レベル12。
「……え?なんで?」
教会の重い扉を開け、そして出てくると、マリアは首を傾げていた。
クラリッサはマリアを出迎え、先ほどの琥珀色の液体を再度渡す。
「お嬢様……レベルが上がっていたんですけど……あの……絶対おかしくないですか?私ってレベル10だったんですけど……あ、これ飲むんですね。」
「そう。レベルが上がっていたの。良かったじゃない!」
「すいませんお嬢様。私ってデビュタント以降、魔物一匹も倒してないんです……これ、何を飲ませてるんですか?」
「魔石。」
「ぶーーー!!!!」
「マリア。勿体無いんだけど。あと私にかかってる。汚い。」
「ええええ!!!!言ったじゃないですか!!!!魔石は食べられないって!!!!死んじゃうって!!!!うええ……!!」
「教会の提唱してるソウルコア理論に基づいて考えたのよ。
私達って、魔物を倒した時に、その魔物の持つソウルフラグメントをソウルコアが取り込むから、教会はその時に出るノイズを除去する事で、その共鳴を使えるようにするのがレベル上げの仕組み。
だったら、魔石を直接摂取すれば手っ取り早いでしょって、それでうまくいっちゃって。」
「いっちゃってじゃないです!!!ま、まさか最近うちの騎士団がやたらレベル高いのって……まさか……」
言葉が、喉で引っかかる。
ゆっくりと、クラリッサを見る。
「……まさか……」
クラリッサは微笑んだ。
否定も肯定もせず、ただ一言。
「内緒でご飯に混ぜたの。」
マリアはその場で固まった。
「はい。バーベル。」
屋敷に戻ってきた。
庭の小屋を改修したジムで、クラリッサはマリアにバーベルを勧めた。
マリアはポジションをセットしながら、ふう、と息を吐いた。
「以前にレベル10になって、腕立て伏せがようやくできるようになったばかりなんですけど……ですよねー。上がりますよねー、体が軽いです。」
レベル12の恩恵は恐ろしいほどに即効で、マリアの身体を重さに順応させていた。
クラリッサは満足そうにうなずいた。
「そう良かった!そのうちゴブリンの頭を握り潰せるようになるわ!」
「いやです。乙女がいいです。乙女の未来を歩ませてください!!」
「はは」
「冗談じゃないですから!!!!聞いてぇぇぇぇぇ!!!!!」
小さな緑の魔物が悲鳴を上げ──次の瞬間、ぶしゅ、と嫌な音がした。
マリアの手の中で、ゴブリンの頭が、本当に潰れた。
本当に、握り潰せていた。
「……」
マリアは固まり、クラリッサはというと、慣れた手つきでゴブリンの体から光る欠片を拾い上げていた。
「魔石の質が今日はいいわね。」
いそいそと袋にしまいながら、
実験材料が手に入ったとばかりの満足げな顔。
マリアは白目になりかけていた。
そしてマリアは悟ったという。
──本気だ。
──本気でお嬢様は、自分を武術大会に出場させる気だ。




