27話 王子帰る
王子が帰ることになった。
夕暮れの庭先で、王家の紋章を刻んだ馬車が、すでに出立の準備を整えていた。
護衛騎士たちは、剣を誇示することなく、正しい位置に立ち、無駄のない仕立て衣装の文官の視線は鋭く、この訪問を機会と捉え、グランディール領を評価し終えていた。
さらに侍従は、手際よく王子を先回りして先導を行う。
クラリッサ達は見送りに来ていた。
「クラリッサ殿。今日の話……軽々しく扱うつもりはない。
筋肉の大会も、教会の件も……正直、簡単な話ではないと思う。だが、無視できる話でもない。」
「ありがとうございます、殿下。
その“無視できない”という評価だけで、十分です。細かい打ち合わせは、書簡でやり取りするということでよろしいですか?」
「では、子細はのちに。」
王子は帰った。
「話がわかる王子で助かったわ!この国の未来は明るいかもね!……マリア?あれ?おーい。」
マリアは、魂が半歩ほど体からずれるように、完全に白目をむいていた。
立ったまま、どこか遠い世界を見つめている。
クラリッサは、マリアの再起動をすぐに諦めた。
「教会」「レベル上げの平民への開放」「マリアの武術大会出場決定」の情報過多と危険ワード。さらにの重圧の三連続で、胃が限界突破しているのだろう。
かわいそうに。
「まあいいや。よし!!お父様たちに報告しよっと。どうやら、教会と事を構える事になりそうですって!!」
るんるんとフリーズするマリアを置いて、クラリッサは父の元へ報告するためにその場から消えた。
そして伯爵も目を白黒させる事になる。
──もう、後には引けない。
クラリッサからそれを聞いた時、エドワード・グランディール伯爵は腹を決めた。
殿下に話を通すことはそれだけの重みを持つ。
殿下に話を通す。
それは単なる「了承」ではない。
王族の時間を使い、王族の名を動かし、王族の立場を賭けさせるということだ。
失敗すれば、責任は必ずこちらに返ってくる。
最悪の場合、家が潰れる。
全力でサポートをしなければならない――
そう自分に言い聞かせ、エドワードはクラリッサのトレーニング場へ足を運んだ。
クラリッサはエドワードの姿に軽やかに振り返り、ぱっと笑みを浮かべた。
「クラリッサ。励んでいるようだね。少し見学させてもらっていいかい?」
「父上。勿論ですわ。
今、マリアへのトレーニングに取り組んでおります。何か気になることがあったら、忌憚のない指摘をお願いします。フィードバックするので。」
その瞳――
光の加減も手伝ってか、鋭く、純粋に、まるで世界のすべてを測定するように見据えるクラリッサの瞳がガチすぎて、エドワードはその時点で引いた。
マリアは、トレーニング中に突然のエドワードの登場に、小動物のように縮こまりながら、姿勢を正して立っていた。
「いい?マリア。食事から変えます。申し訳ないけど、私と同じ食事をとってもらうから。
あなたの食事メニューは確認したけど、タンパク質が足りていない。
これからあなたは運動をするから、食事内容を変化させて、体重×2倍グラムのタンパク質を取らないとならない。」
クラリッサはそう告げ、マリアに小さな容器を手渡した。
「はい、プロテイン。飲んで。今後はお腹を空く時間を作らないようにして。
食事の間に、3時間おきになるようように飲む。空腹は筋肉を溶かしている時間だから、それを無くす。味もいくつかあるけど、多分粉っぽいと思う。それは我慢して。開発が追いつかなくて。」
やがて指導は、具体的なトレーニング方法へと及んだ。
「腕立て伏せは、赤ん坊にキスをするくらいの速度で行う。」
マリアは腕立て伏せをしていた。
「プッシュアップなどの、キャリステニクスは、多くの筋肉を使う事に意味がある。
イタズラに勢いよくやるのもいいけど、より小さい筋肉、より多くの筋肉まで意識を張り巡らせてやるようにして。ネガティブ刺激の意識も忘れない。
メニューも同時に用意します。」
彼女達は、騎士団の訓練設備へ、流れるように移動していく。
「グランディール騎士団との模擬戦も用意したから、いろんな人と戦って、戦う事に慣れましょう。一般的な護身をならってるから、、剣の持ち方はわかるわね。よろしい。」
――一連の流れを見ていたエドワードは思った。
うわあ。
すごい、本格的だ。
後日、グランディール家が武術大会に出場することが正式に決定した。
王都議会の広大な議場。
階段状に配置された座席には、各地から集まった伯爵・侯爵・男爵がずらりと並んでいた。
議長が声を落ち着けて議事を進行する。
「本日の議題、税制改正の審議を開始する――」
正式な議事の傍らで、ざわめきがひそやかに立ち上がっていた。
「おや、グランディール家が平民の女子を武術大会に出すそうだが……」
「家の威信を賭ける大会に、武家でもない者を加えるとは、奇怪極まりない」
「伝統を顧みぬ振る舞いではないか」
「ここまで来ると、グランディール家も常識を捨てたか。」
ざわめきの中心に立つエドワードは微動だにせず、胸を張ったまま、すべての視線を受け止めている。
殿下とのコネで手にした王国武術大会の出場枠だ。嫉妬や皮肉が飛ぶのは容易にわかっていた
貴族は、面子を重んじる。
威信、伝統、格式──それらが彼らの血肉に刻まれている。
だがクラリッサは、筋肉への過酷な刺激を血肉に刻み付ける。
恐るべき凶愛でもって。
その筋肉が災厄と化すまで。
こと戦いにおいては、理不尽なまでの力は、ルールそのものを変化させる。
彼らは数か月後、それを身を持って体験し、その口を閉ざす事になるだろう。
──とはいえ一つだけ言えた。
もし仮に、武術大会で散々な結果になれば、領の威信は傾きかねない。




