21話 テラスにて
「殿下。」
クラリッサの口が勝手に動いていた。
クラリッサは毒づく。ドラマパートだ。くそが。
「夜風に当たっておられたのですか、クラリッサ嬢」
「ええ。少し……人に当たってしまいまして。」
アルヴェルトはテラスの欄干に並ぶことなく、半歩後ろに立っていた。
「公爵家は毎年、こうしてこれを開く。
若い貴族に入口を示すために。貴族としての華やかさと、そして……厳しさを示すために。
音楽も、衣装も、言葉遣いも、すべてが美しく整えられ、だがそれは同時に、比較され、選別される場でもある……とはいえ貴方には、優しすぎたようだ。」
「光栄です。」
「皆が貴女に目を奪われていました。今日のデビュタント。主役は間違いなく貴方だった。」
「……殿下は、どうお感じになられているのですか?」
問い返すと、アルヴェルトはわずかに目を細めた。
「皆、私の前では“王子”という仮面を見せる。
王子である私に跪き、王子である私に笑いかけ、王子である私に想いを寄せる。──それだけだ。クラリッサ殿も……そう思っていますよね?“王子”という肩書を外した私には、何の価値もないと。」
「そんな事はありませんが……」
(お、喋れる。多分選択肢シーンだ。バッドコミュニケーションにしてやれ。)
クラリッサの胸の奥で、冷ややかな計算が走った。
「思うに相対評価ではないでしょうか?
自分を細分化して、他者との価値を細分化したルールに則って定量的に評価すれば殿下の肩書以外の価値の答えはでます。
それで説明がつかない部分を王子や、他の影響をプラスすればいいのではないでしょうか。
殿下である事は、殿下の価値から外して考える事はできないと思いますけど。」
「それは君が自由だからだ。自由だからそう言える。」
「自由?私のことを自由といいますか?こんなちゃちな手すりすら握り潰せないのに。」
「すまない。君は深層の令嬢だったね。自由ではない。失言だった。それに手すりは、潰せないとおもうが……」
──バキバキ!!
「あ、すいません、握り潰せました。老朽化してたかな?」
「……」
アルヴェルト王子は思わず手すりを確かめる。明らかに劣化していない。
「殿下。おそらく殿下の周りの方々が、すでに殿下に対して、大切な事を伝えているはずです。改めて私が真実をお伝えします。不敬になるかもしれません。その際はご容赦を。」
「構わない。」
「私の手をとっていただけますか?」
「手を……?」
「はい。そして、その手を動かせますか?」
「手を取ればいいのだな?そして動かせと……それで何が……は?」
動かない。まるで万力に固定されているようにその手は動かなかった。
「……え?」
「殿下の筋肉量では動かせませんよ。ダンスの時に確認しました。上腕筋群、背筋、大胸筋で腕は固定していますが、生半可な力では動かせない。力の差は理不尽です。残酷なほど真実です。殿下は現時点では、絶対に私の腕を動かせない。なぜかわかりますか?」
「いや。」
「愛着を持って筋肉を育てたからです。
昼夜問わず悩み、時間と労力を惜しまず、人を使い、設備を用意し、心血を持って愛情を注ぎました。
ですから動かせない。国も同じであるべきです。そこに人が住み、生きていますので。」
「……」
「殿下。殿下がするべきことは周りと比べることではなく、目の前の事に全力で取り組む事だと私は思います。
国を愛し、愛着を持ち、悩み、その歩んだ努力が、殿下そのものとなるのでしょう。はじまりは王子という肩書きなのかもしれない。だけど──
その歩んだ道が決して揺るがないものであるのなら、それが殿下であると言えます。
そして殿下の努力は、殿下にしかできない事なので。」
クラリッサの瞳には、揺るがぬ確信が宿っていた。取り繕う気は一切なかった。
というか、普通に嫌われても良かった。
「先は分からなくても、歩んだ後が確かであればいい。
私の筋肉は、その歩んだ道があるから動かせない。
それも、圧倒的に動かせない。
殿下がいくら力を込めても動かせない。他の何もいらない。揺るがない。ただ。そうであればいい。」
クラリッサは微かに頭を下げ、声をひそめて言った。
「……クラリッサ殿は、筋肉と国が同じであると言いたいのか?」
「そうかもしれませんね。すいません。出過ぎた事を言いました。それでは、これで。」
夜風が頬をかすめ、言葉の余韻が静かに空間に溶ける。
アルヴェルト王子は一瞬、言葉に詰まり、そして気づいた時には、もうクラリッサの姿はなかった。
帰りの馬車は、夜の静けさに包まれていた。
クラリッサは窓の外に視線を向けたまま、薄いカーテン越しに、街灯の明かりの淡さをみている。
珍しく疲れた様子をしていた。
侍女マリアは対面にすわっていた。
「どうでした?お嬢様。舞踏会は。」
「そうね。もう二度と行かない。絶対、帰ったらトレーニングして、プロテインがぶのみしてやる。暇すぎる。」
「……今からですか??お嬢様、日付変わってしまいますよ! 今日はもう終わってるんです!!」
「終わってないもん。まだ寝てないもん。“寝るまでが今日”だもん。」
「うわ。お嬢様がストレスのあまりに幼児退行してしまわれた!!」
「当たり前でしょう!今日は舞踏会で一回もスクワットしてないのよ!
日課どうするのよ!!!すごい量があるのよ!!!!」
「クラリッサ様、舞踏会でずっと踊っていたのだから、運動扱いで――」
「踊りは“有酸素”でしょう?筋肉は“無酸素”なのよ。カテゴリーが違うのよ!!!!」
マリアは思った。
――誰が何を言おうと、やるんだ。
石畳を転がる馬車の音が、伯爵家の屋敷の前で静かに止まった。
扉が開き、夜明け前の冷たい空気を押しのけるように、疲労は隠せないクラリッサが戻ってきた。
迎えに出たのは深夜であっても、社交の世界に生きる女性としての癖か、眠っていなかった母マルグリット。
「おかえりなさい、クラリッサ。どうでした? 初めての舞踏会は。」
娘の表情から何を読み解こうとする、やわらかな笑み。
社交界の掟を知る者の視線。
クラリッサはドレスの裾を軽く持ち上げて礼をし、淡く微笑んだ。
「勉強になりました!令嬢ってゴブリンよりも虚弱なんですね!!あれだけ筋肉ないなら、どうやって戦うんでしょうか!?」
「……クラリッサ。令嬢は、戦いません」
「あ、それとストレスのあまり、テラスの手すりを何本か握りつぶしました!!なので、公爵家から請求が来るかもしれません!!!」
「……」
マルグリットは意識が飛ぶような気持ちを味わったという。
そして後日。
「王宮より、正式な書簡が届いております」
侍女が差し出した封筒には、見覚えのある王家の紋章と無駄に重い封蝋。
王子からの婚約の通知だった。




