20話 デビュタント後半
令嬢は、アンクレットの重みに潰れたまま、顔を上げることすらできない。
その目に映るのは、微笑みながら静かに見下ろすクラリッサの姿――
「こ、こんな、え……?え?こんなの、おかしいよ……!な、なにこれぇぇ……!!う、動け……っ、ない……っ!!」
「恥ずかしながら僧帽筋を鍛えたくて。
なのでパワーアンクレットを使用して、舞踏会の最中にシュラッグを行っておりました。
あと足首にもつけてあります。主に腸腰筋と、下腿3頭筋にききますね。」
「ば、化け物……!」
クラリッサは、慈愛の表情でしゃがみこみ、ひょいとアンクレットをつまみ上げる。
そして慣れた様子で、腕に巻きつけた。
「体を痛めませんでしたか?急に重い物をもつと簡単に人の体は壊れますので。」
「ひぃ!!!」
声は小さな悲鳴のように震え、しかしその場の空気に鮮烈に響き渡る。
周囲の貴族たちも、一瞬息を呑む。
クラリッサは、ごく自然に令嬢の肩にいたわるように手を添えた。
「起き上がられたらいかがですか?
淑女が舞踏会で、そしてまさかそんなところで寝そべるなんて、非常識にも程がありますわ。見たところ怪我はなさっていないようです。無理になさらず。」
「とッ……とってぇぇぇ!!おろしてぇ!!これぇ!!!」
クラリッサは「あら」と目を瞬かせ、もう一度だけ優雅に微笑んだ。
「そういえば、何か面白い事をおっしゃいていた方がいらっしゃったんです。ケーキを倒したとかどうかとか。」
「も、もう……っ、もう言わない……っ!!ケーキでも何でも……認めますからあぁぁ……!!」
令嬢は完全に折れていた。圧倒的に折れていた。なんなら物理的に折れていてもおかしくなかった。
クラリッサは慈母のような微笑を返した。
「まあ、最初からそう仰ってくださればよかったのに。」
クラリッサは何も言わず、静かに頷き、何事もなかったかのように立ち上がった。
小さな事件――いや、小さな戦争のような出来事はあったものの、社交界の舞踏会は、その華やかさを失わずに続いていた。
床に潰れた令嬢は、涙をぽろぽろとこぼしながら、皆に支えられ、顔を覆って会場を後にする。
その姿は、まるで小さな嵐が過ぎ去った後の残骸のようだった。
というか、クラリッサはもはや舞踏会に飽きて、途中から、料理のカロリー数を計算していた。
「……このポタージュ。カロリーは……味から判断するに、カボチャとジャガイモが中心に使われているから、タンパク質は不足気味……でも脂質は許容範囲……」
──だめ、計算も集中できない!!危機感でどうにかなりそう!!
ドゴオ!!
思わず机を叩く。
ギョッとして周囲の貴族が見るが、何事もなかったかのように歓談に戻った。
クラリッサはすでに触れてはならないものとしての地位を確立していた。
物語の力、運命の力、舞台装置としての世界の圧――
いくら鍛え抜かれた体でも、物語の決定論の前では無力。そして無意味だった。
時間がない。
今は12歳。
あと4年で魔法学校へ入らねばならない。
ザ・レイディ・ファーストキスのゲーム開始は、魔法学校への入学から。
そこからはイベント目白押しとなる。
今回のようなドラマパートの連続になるはずだ。おそらく軌道修正は限定的になる。
にも関わらず、ドラマパートに入ってしまえば、無力という事実。
歯噛みをしながら、必死に記憶をたぐる。
乙女ゲームの攻略対象は、主に5つのルートがあった。と思う。
王子ルート。
セドリックルート。
公爵嫡男ルート。
王国騎士団ルート。
魔王ルート。
そしてそれら全てを満たす逆ハーレムトゥルーエンド。
それら全てで、クラリッサは破滅する。
筋肉は十分には使えない。
イベントが始まってしまえばオートパイロットになる可能性が高い。
背筋に冷たい汗が伝う。
クラリッサの瞳の奥には、静かな焦燥が揺れていた。
頭を冷やすためにテラスに出る。すでに煌めく星々が無数の瞳のように空を埋め尽くすほどに日が暮れていた。
遠くで街灯が柔らかな光を放ち、広間での喧騒がかすかに聞こえる。
だがそれでもクラリッサの胸中には、苛立ちとも困惑ともつかぬ感覚が渦巻いていた。
「クラリッサ殿……こんなところで一人ですか?今日の舞踏会……お疲れ様でした。もしよければ、少しお話ししませんか?」




