2話 転生したおっさん乙女ゲームを考える
銀の燭台が十も並ぶ長卓の上、蝋がゆるやかに滴り落ちてゆく。
カトラリーの音が、ひとつ。
まるで楽団の調律のように、控えめで、それでいて完璧に計算された響き。
テーブルの中央には、夜の湖を閉じ込めたかのような黒葡萄のソースが光り、
その中に沈む白鳩のローストが、まるで眠る聖女のように横たわっていた。
「……クラリッサ。体調のほうは、どうだ。もう、座ってもいいのかい?」
父であるエドワード伯爵の声は低く、何かを壊してしまいそうなほど慎重だった。
「ええ。父上。問題はありません。」
「クラリッサ、……どうか、正直に教えてくれ。まだ、胸の奥が重いのか、それとも頭の方がふらつくのかい……?」
「はい。正直に申せば。胸のあたりが……少し、張るようになりまして。」
クラリッサは背筋をぴんと伸ばし、ゆっくりとナイフとフォークを取る。
しかしその動きには、妙なぎこちなさがあった。
腕が、軽く震えているのだ。
「張る? 咳ではないの?」
母、マルグリット侯爵夫人が眉を寄せる。
「いえ。昨日から、“プッシュアップ”をしておりまして。」
「ぷ……?」
「うでたてふせ、ですわ。」
「………………」
一瞬で空気が止まった。
フォークを落とした兄、セドリックが、信じられないという顔で彼女を見つめる。
「クラリッサ、君、昨日まで寝込んでいたじゃないか!」
「……ぐぬっ……!」
「クラリッサ!? どうしたの!」
「いえ……昨日の二回目のセットで……もう少し、レップ数を抑えるべきであったかと……」
「セット……?レップ……?」
「repetitionの略で、反復や回数を意味します。1回の動作の一連の動きを1レップと数えますね。」
兄、セドリックは頭を抱えた。
「……何を読んだのだ、また。」
「プリズナートレーニング。名著です。刃の上を歩くように、肉体は鍛えねばならない。」
父、エドワード伯爵は咳払いをして、ポタージュをひと口すすった。
「うむ……。だが、ほどほどにしなさい。」
クラリッサは真面目に頷いた。
だが、銀のスプーンを持ち上げようとして――
ぴくり、と腕が痙攣した。
兄セドリックは、珍獣を見るような顔で、その様子を見ていた。
「……庭園の噴水が止まった」
「修理の職人を呼ぶ予算が、もう無い」
「パンが少し、硬い」
「議会での発言権が、もう……」
まるで、天気の話をするような穏やかさで、あまり芳しくない領内の話題が続く。
クラリッサは、ゆっくりとナプキンを畳み、
静かに口を開いた。
「――父上、申し上げたいことがございます」
「なんだね」
「プッシュアップバーを、所望いたします」
再度、時間が止まった。
蝋燭の炎すら息を詰めたように揺らぎ、一同の手が銀盆の上で凍りつく。
「……ぷ、プッシュ……?」
エドワード伯爵の声がかすれた。
クラリッサは静かに頷く。
その眼差しはまっすぐで、まるで祈りのように真摯だった。
「はい。胸筋の可動域を最大限に活かす道具です。回数を重ねるごとに、意志が鍛えられます。
それに、おりいって、お願いがございます。——剣術を、学びたいのです。」
母マルグリットはハンカチで口元を押さえ、兄セドリックは、スープを吹き出しかける。
「……クラリッサ。もう一度言ってくれるかね?」
エドワード伯爵の声には、静かな驚きが混ざっていた。
「剣術でございます。護身として、また……己を鍛える術として。病に負けぬ心をつくるには、まず体を制さねばなりません。」
エドワードは目を閉じた。
「剣術……か。クラリッサよ。我らは“剣の家系”ではない。学問と礼法の家だ。剣は他家に任せておけば良い。」
「承知しております。」
クラリッサの瞳は、まるで夜明け前の星のように澄んでいた。
「ですが、私は知りました。弱さを言い訳にしていては、病に伏していては、誰が貴族として誇りを果たせましょうか。」
「……プッシュアップで?」
兄の声が震える。
「はい。プッシュアップで。上半身の力を引き出すのに、これ以上効率的なキャリステニクスはありません。」
※キャリステニクス……自重トレーニングの事。
クラリッサは静かに立ち上がり、スカートの裾をつまんで頭を下げた。
「父上。どうか剣術を学ぶ事を許していただけませんか。
貴族の娘としてではなく、一人の人として——強くなりたいのです。」
エドワード伯爵は長く沈黙した。
家の没落、財政難、そして娘の突然の筋肉志向。
クラリッサは、長く病弱で、陽の光にも当てぬほど大事にされてきた。
一歩でも庭に出れば侍女が傘を差し、階段を降りるだけでも兄が手を貸す——そんな日々。
そして今、その娘が“剣”を求めている。
クラリッサのその背筋の伸びた姿を見て、
ほんの少しだけ、エドワードは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……よかろう。だが条件がある。」
「はい。」
「二度と倒れるな。倒れるくらいなら、倒れる前に助けを呼べ。」
「承知いたしました!」
エドワード伯爵の目頭が熱くなる。
母マルグリットは呆然と見守るしかなかった。
そして兄セドリックだけが、小声でつぶやく。
「……いや、無理じゃないか?……」
誰にも気づかれず、クラリッサはガッツポーズをしたという。
(よし。公認の筋トレの時間ゲットだぜ!)




