19話 社交界の洗礼
クラリッサは、わずかに肩を震わせていた。
頬に赤みがさし、それが羞恥なのか怒りなのか、自分でも判別できない。
倒れた五層ケーキ――
白いクリームとベリーの鮮烈な色が、やたら残酷に床へ広がっている。
──触っていない……なのに、なぜ私が……?
倒れたケーキの前で、クラリッサは思わず息を飲む。
「ち、違います……!なんか、勝手に……」
周囲の視線は刺すように鋭く、囁き声が耳に突き刺さり、周囲の紳士淑女たちの視線は容赦なく彼女に注がれる。
「まあ、クラリッサ嬢が触れたのでは……?」
「クラリッサ嬢、少し不注意だったのでは?」
「お嬢様が手を伸ばしたのを見ましたわ」
口元に微笑を浮かべていても、その声には明らかな疑いが混ざっていた。
小声で囁かれる。
耳に届くのは、驚きと微笑みが混ざった社交界の冷ややかな空気。
クラリッサは手を胸に当て、目を大きく開く。
──ちょっと待て……私は一切触れてないのに……?なるほど?本来のクラリッサは、ここで洗礼を受けるわけだ……!
罪を決めるのに、証拠はいらない。視線と噂と、微笑をまとった悪意だけで十分!なるほど!
「……見ましたわ! クラリッサ様が立ち上がられた瞬間に……!」
「ええ、ええ! あれは……食欲にかられていた。」
「そんなにケーキを食べたかったのかしらね……ふふ。」
――控えめに言って言いがかりも甚だしい。
クラリッサの眉が、わずかに動いた。
(……ケーキを食べる?この私が?糖質と脂質を厳正に管理している私が、糖質と脂質しかないケーキに手を延ばす!?この私が!?!?)
「……言い切ってくださるのですね?」
その声は刃があった。
令嬢たちは一瞬たじろぐ。
一歩下がると同時に、背後から別の陰がにじり寄った。
「皆、どうしたのかな。ケーキが……倒れたのかい?」
声は男にしては柔らかすぎ、美しい絵画の中から抜け出したような気品を備えていた。クラリッサの兄。
セドリック・グランディール伯爵嫡子。
その麗しい眼差しが、ケーキの残骸と妹を見比べると、にっこりと微笑む。
「……成程。ケーキが倒れたのを、我が妹のせいにしているわけだ。我が妹は食事の管理は徹底していてね。そういった甘いものには一切食指が動かないんだ。」
「で、でも……! クラリッサ様が近くにいらしたのは事実で……!」
「そして、ケーキが……!」
令嬢たちの肩が、瞬時に震えた。
「──それは、どなたの“観測”で?あるいは……どなたの“憶測”かな?
可愛らしい。では問おう。“倒れかけたケーキの近くにいた”それだけで、有罪になる国を――君たちは望むのかい?」
令嬢たちの顔が一斉に青ざめる。
クラリッサはテーブルの前で静かに身を正す。
そして、抑えた声で、しかし確かな口調で言った。
「私、ケーキは倒せませんわ。」
その場に一瞬、静寂が訪れる。
周囲の紳士淑女たちは、クラリッサの言葉に耳を傾ける。
「だって……ほら、パワーアンクレットをしているのですもの。重すぎて腕があがりません。ですから、ケーキを物理的に倒せないのです。」
一同は思った。
会場中の貴族たちは、まるで心臓の鼓動がぴたりと揃ったかのように、全員同じことを思ったという。
(((……また出た。またパワーアンクレット……。)))
──そもそもパワーアンクレットとは……?
クラリッサの指先が、そっとスカートの裾をつまみ上げると、その一瞬の動作だけで、場の視線は自然と一点に集まった。
ちらりと覗いたのは、鉛色に輝く、見るからに重そうで、装飾品。
というより“拷問具”。
貴族たちの間に、微かなざわめきと、理解できない恐怖の空気が広がる。
クラリッサ自身は平然と微笑み、指先でゆっくりとアンクレットを示す。
「……みなさん。混乱なさっているので、もう一度言いますね。
だって、ほら、この通りです。パワーアンクレットが重すぎて、腕が上がらないのです。」
倒れたケーキを前に、社交界のざわめきが再び小さく広がる。
令嬢の一人が、鋭い目でクラリッサを見つめ、口を開いた。
「さっき踊ってたじゃない!!」
「いえ……先ほどまでは動けました。」
「なら!!」
「筋疲労でございます。筋肉とは……疲労すると、動かなくなるものなのです。」
クラリッサは落ち着いた表情で、しかし微かに唇の端を上げ、答える。
「筋肉を動かすためには ATP が必要ですの。これが不足すると筋繊維が収縮できません。
さらに、激しい運動によって乳酸――正確には水素イオンが増え、筋肉内の pH が下がります。すると収縮効率が落ちまして……腕が重く、上がらなくなるのです。ですから――」
彼女は凛として宣言した。
「今の私は、腕を上げるどころか、ケーキを倒すための“最低限のトルクすら発揮できない状態”です。」
「嘘よ!!」
「──つけてみます?」
まるで甘い毒を含んだ誘惑のように空気を震わせながら、迷うことなく手首の重厚なパワーアンクレットを慣れた様子で外すと、令嬢に差し出す。
「どうぞ?」
クラリッサは静かに微笑む。
令嬢は驚き、そして恐怖と好奇心の入り混じった表情でアンクレットに手を伸ばす。
そして、その瞬間、重さの現実が一気に彼女の体を襲った。
ぐちゃ!!
アンクレットの圧倒的な重みで、白磁のような肌の令嬢が、品位も矜持もすべて置き去りにして、カエルのように潰れた。
社交界の華やかなディナーの場に、微かに悲鳴とも笑い声ともつかない空気が漂う。
冷ややかな目で、それをクラリッサは見下ろしていた。
──いや、そりゃ持てないでしょ。片方50キロあるし。




