12話 バーベル
時はほんの少しだけさかのぼる。
クラリッサは自室の鏡の前で珍しく、衣装選びをしていた。
「マリア。ちょっと今日はおめかししてもらえる?サイドチェストの胸の厚みをごまかせる感じで。」
ちょっと何言ってるかわからないなと思いながら、習慣的にマリアは頷いた。
「はい。承知しました。一番お嬢様の魅力が映えるものに仕立てますね。」
「そうね。子供らしい可愛らしさを全面に押し出せる感じでお願い。」
やがて完成する。
鏡の前で、クラリッサはくるりと一回転する。
光の加減でドレスの裾が揺れ、髪が肩にかかり、柔らかな陰影を作り出す。
「バックラットスプレッド!!!」
「それってなんなんですか?」
「広背筋を見せる基本的なポーズ……筋肉量が少なすぎて悲しい……!これなら……サイドトライセップス!!」
鏡の前でポージングをしながらクラリッサは言った。
「ダメね!!!全然ダメ!!!!」
「お嬢様。そもそもなぜおめかしが?出かける用事とかもありませんよね?」
「大事がお客様が見えるのよ。私の今後にかかわってくる。本気で臨まないとなりません。一世一代の勝負です!!」
「鍛冶屋さんですよね?それ。」
「マリア。そんな気持ちじゃ死ぬから!!!!」
鍛冶屋の胸中には、静かな覚悟とともに、微かな感情の波が押し寄せていた。
伯爵夫人きっての依頼。
伯爵家からの依頼は、失敗すれば職や命を失う事すらある。その重みは理解していた。
──そして来てみれば、目の前にいるのは、伯爵家の深層の令嬢クラリッサ。
(ははーん。これは、娘がわがままを言い出した奴だな。
俺にも娘がいる。気持ちはわかるぜ……さて、どう応えようか。腕も頭も試されることになるだろうな……)
クラリッサは澱みなくそれを言った。
「名称、バーベル。鉄の棒の両端に重りをつけたものです。
材質は加工しやすく耐久性に優れたものを選びました。
筋トレにおいて、使用者の体格や筋力に合わせた負荷設定は命題にも等しい。この形状と機構なら、成長に応じて段階的に負荷を調整できます!!」
クラリッサは、言葉と資料と視線の力で圧を生んでいた。
「重りはキログラム単位で調整するために規格をそろえてください。
筋肉には漸進的な成長が不可欠です。
昨日までにできた重さを正確に把握する必要がある。持ち幅にもこだわる必要がある。金属にも関わらず、手にフィットするような感触が必要です!!」
応接室の空気が、その熱によって静かに震えていた。
(こ、これは、ただの注文じゃない……。挑戦状のようなものだ……。試してきてやがる。こいつ。俺を試してきてやがる……)
──おまえにこの熱を受け止め切れるのか?
鍛冶屋は背筋を伸ばし、手元の金槌を握り直した。
それなりの日付がたっていた。
伯爵家奥庭。
急遽作られた急増の、頑丈なこや。
静謐な空間へ、鍛冶屋と力自慢の従者たちが、黒鉄の塊を慎重に運び込んでいた。
バーベルの試作型のお披露目。
持ち込まれた“それ”は、見上げるほどに大きい。
布をひらりと払うと、その試作品は静かに姿を現した。
「おおおお……こ、これは……おおおお!!!……──」
炉で鍛えられた鋼鉄はくろがねに輝いている。
特殊な処置をしていため、錆びず、歪まず、常に一定の重量を維持する。。
バーベルの握り心地は、現代式のそれと驚くほど近い。
中央のグリップには細かな溝が刻まれ、両端には円盤状の重りが通せる構造になっていた。
「……この熱さ、この輝き……す、素晴らしい!!こんなに重くて……美しくて……官能的で……──」
ふとクラリッサの動きが止まった。
意識が、ゆっくりと霧の中へ溶けていく。
「……クラリッサ様?クラリッサさ……ま?え、嘘……ちょ、ちょっと、お嬢様???」
間。
「お嬢様あああああああああああああ!!!!」
奥庭全体に声が響いた。
柔らかな光が、カーテンの隙間から淡く差し込む。
クラリッサはベッドの中で、まぶたを重く感じながらゆっくりと目を開けた。
(…………夢を、見た気がする……光の中にいる、夢を……)
クラリッサは、ゆっくりと覚醒する
まだ身体の奥に残る熱さ、胸の高鳴り、指先に残る微かな痺れ――あれは桃源郷でなければ、一体なんだったのだろう。
「…………あれは……夢……?」
「夢じゃないです!! 現実です!!お嬢様のための、どう見ても人類の敵のような鉄の柱です!!」
マリアはベッドの脇に駆け寄り、慌てふためきながらも必死に声を張った。
クラリッサは、窓の外を見た。
奥庭に存在する。黒鉄の光を宿す、巨大で、重厚で、異質な装置。
フリーラックは城のように聳え立ち、中央に据えられたバーベルは獣の背骨のような存在感を放っている。
クラリッサは風の香りを吸い込みながら、ゆっくりと窓から空を見上げた。
青い空は、どこまでも澄んでいるのに――胸を満たすのは、別の何かだった。
破滅フラグ?
婚約?
伯爵家の未来?
乙女ゲームの運命?
――いや、そんなことなど、本当にどうでも良かった。
この世界に来てから、ずっと心のどこかが空洞だった。
何をしても、どんなに考えても、その穴が埋まらなかった。
けれど今。
オーダーメイドで作った、繊細でありながら無骨な印象を抱かせる鉄塊。
冷たく、重く、圧倒的で、美しいほどに“揺るがない”その存在を見た瞬間、胸の中心で、何かが“カチリ”と噛み合った。
ようやく見つけた。
ようやく埋まった。
私の半身。
触れれば確かに応えてくれる、絶対の相棒。
クラリッサは、ゆっくりとベッドから降りる。
「お嬢様っ……!無理をなさらないでください!!失神し、意識を失われたのですよ!?」
無視した。
クラリッサは、歩き、窓からそれを見る。
フリーラックとバーベル。
「……あぁ……これですわ。」
誰に言うでもなく、息のように零れる。
「あの……重さ。あの……無言の存在感。あの……裏切らない冷たさ。私……ようやく……本当に、探していたものに出会いましたわ……」
「お嬢様!? 言い方!言い方が完全に“運命の恋人”なんですけど!?」
クラリッサは愛おしそうにバーベルを眺める。
「……生と死?……立場?……哀しみ?ノブレスオブリージュ?そんなもの……なんてくだらない!!」
「くだらなくしないでください!! 」
クラリッサは静かに言った。
「マリア。私は……ようやく理解しました。」
「何を!?」
クラリッサは微笑む。
「愛を。」
「あ、愛って!?……そんな馬鹿な……!!そんなの、筋肉と数字しか喋らないお嬢様に最も似合わない言葉ですから!!!!」
「さぁ。まずは、スクワットから始めましょう。」
「始めないでください!! せめて医者に診てもらってからにしてください!!」
奥庭に降り立ったクラリッサは、ゆっくりと足を止め、フリーラックに整然と並ぶバーベルの前に立つ。
その姿は、まるで神秘的な儀式の前に立つ、女王のようだった。
「……すばらしい……」
(ぜ、全然理解できない……!!)
「……お、お嬢様。バーベルってそもそもなんなんですか?」
「安直にいえば、持ち上げた後、上げ下げする為だけの金属の塊。」
「それで?」
「説明は終わり。」
「え……?」
クラリッサの瞳が、その黒鉄の塊を見てわずかに光った。
「便利なのよ、これ。
できるのって、ベンチプレスだけじゃないの。ラックの高さを変えれば、デッドリフト、スクワットもできる。
フレンチプレスや、ブリチャーカール的な使い方もできるけど、そこはフレキシブルベンチじゃないと厳しいから。それはしょうがないから、これから開発する。」
マリアは思った。
──まずい。お嬢様がいつも以上にわけがわからない。
「まあ、おいおいは、革職人に声をかけてパワーグリップを用意して、関節を保護する感じね!黒鉄の二本柱に、等間隔で穴が空いているから、そこへ差し込むことで、安全装置の高さも調整できる。うん。繊細で確かな仕事ぶり!!じゃあ解散!!!」。
「なるほど。え……?」
「トレーニングするから。あっち行ってて!」
そしてマリアは小屋から閉め出された。
「ええええ!!??開けてくださいよ!!!!」
「ふん!!ふん!!ふん!!」




