プロローグ:炊きたての記憶
辺境の村、コノエ。
世界の地図にも載らぬほど小さなその村は、外界からの訪れを拒むように霧と山に囲まれていた。
近づく者は少なく、そこに住む者も、長い間、変わらなかった。
風は冷たく、夜になると息が白くなるほどの山間に位置するその村では、朝の煙が何よりも尊ばれていた。
それは、誰かが炊き立てのごはんをつくっているという証であり、人の営みがまだそこに続いている証でもあった。
この地では、“炊き煙が天に届く限り、村は生きている”という古い言い伝えがあった。
ハルは、まだ六歳だった。
祖母トワと二人きりで暮らす彼は、ほかの子どもたちのように外で走り回るよりも、炊き場のそばにいる時間を好んだ。
「はぁ〜……いい匂い……!」
小さな体を布に包み、炉の前にしゃがみこむ。
鼻をくすぐるのは、湯気の中に混ざったほんのりとした焦げの香り。
そして、かすかに混じる梅干しと出汁の匂い。祖母・トワが得意とする、村一番の茶漬けの香りだ。
「炊き加減はどうだい、ハル?」
優しく笑いながら、祖母は湯気越しに尋ねる。
「うん! 今日のは……ちょっとやさしい匂いがする。たぶん、昨日のより弱火だったでしょ?」
「ははっ、当たり。あんたの鼻は、本当に……炊きの才を持っとるよ」
ぽん、と頭を撫でられて、ハルは照れくさそうに笑った。
彼にとって、「炊く」という行為は特別だった。
ごはんの蒸気の中には、何か言葉にできない“気配”のようなものが潜んでいる気がするのだ。
それはまるで、昔の誰かがごはんに込めた「祈り」や「思い」が、湯気になって語りかけてくるような感覚だった。
ある夜、ハルは不思議な夢を見た。
無音の闇がすべてを包む夜空。星ひとつなく、時間すら凍りついたかのような静けさの中に、突如として浮かび上がる一大きな樹――
それは、燃え尽きたように黒く枯れ果て、無数の枝を天へ向けて伸ばしていた。
その根元、割れた大地から一つの碗が現れる。
『……お前は、炊き手だ』
囁くような声が響く。
誰のものか分からないその声は、穏やかで、どこか懐かしかった。
ハルが手を伸ばそうとした瞬間――
激しい“煙”が視界を覆った。
──翌朝。
ハルは息を荒げながら目を覚ました。
額には汗がにじみ、胸の奥がじんわりと熱い。
枕元には、昨晩炊いたご飯の香りがかすかに残っていた。
夢だったはずなのに、あの“碗”と“声”の感触は、妙に鮮明だった。
まるで何かが始まる合図のような、そんな予感を残していた。
異変は突然だった。
「帝国徴収隊だ! 炊釜を隠せ! 古文書も持っていけ!」
村の男たちが叫び、鐘が鳴る。
帝国の兵士たちが鉄甲を鳴らしながら村に雪崩れ込み、家々を蹴破っていく。
「“神米”はどこだ! 秘釜は!? 神炊の文献がこの村にあると聞いたぞ!」
家の奥、祖母が小さな木箱を取り出すと、中から光る石が現れた。
琥珀色の宝石のようなそれは、湯気のような淡い霧を漂わせていた。
「これを、持って逃げなさい……ハル」
「え……?」
「これは“茶雫石”――あんたの父さんが残した最後の炊の欠片よ」
祖母は震える手で、もう一つの道具――銀色に光る“しゃもじ”を渡す。
「忘れちゃいけないよ。炊くことは、ただの調理じゃない。“記憶を読む行為”なんだ。お茶漬けには、そのすべてが宿る」
「おばあちゃんも来て――!」
「行きなさい、ハル!」
祖母の叫びと同時に、蔵の梁が軋みを上げて崩れ落ち、乾いた爆ぜ音とともに炎が立ち上る。木が焼け焦げる匂いと、焼けた釘の鉄臭さが一気に押し寄せ、耳をつんざくような爆音が響く。
ハルの目には、立ちのぼる煙と、割れた壁の隙間から見える赤い炎が重なって揺れていた。
叫び声、鉄のぶつかる音、そして最後に残ったのは、祖母が炊いた茶漬けの、あのやさしく香ばしい香り。
それだけが、ハルの記憶に、深く深く刻みつけられていった。
──あれから、十年。
青年となったハルは、放浪の旅を続けていた。失われた五柱穀霊を探し、各地に眠る“記憶”を炊き起こすためだ。
彼の目的は、かつて世界を支えていたという神霊の気配を、炊術を通じて呼び戻すこと。
背負い籠には、祖母の形見である古びた茶釜と、淡く光を宿す茶雫石。
腰には、今もあの時の銀しゃもじ。
彼の旅路は、祖母の意志を継ぎ、世界の根幹に隠された“炊の真実”へと迫るものだった。
今日もどこかの村で、ごはんを炊く。
それは、腹を満たすだけではない。
世界に眠る「記憶」を、ひとつひとつ炊き上げていく――その旅の始まりだった。
そして今、彼の前には枯れた巨樹――かつて神霊が棲んだ「飯心樹」の苗木が、静かに葉を揺らしていた。
――これは、ごはんと記憶、そして“炊き手”の物語。