第四章 血煙の社
そして鬼退治ははじまる
夜。
海は凪いでいた。
月も星も隠れ、世界は闇に沈んでいる。
景虎は、胸まで海水に浸かりながら、冷たさに歯を食いしばった。
体を包むのは、濡れても動きやすい最小限の衣。
荷は背に括りつけた防水袋。中には短槍、短剣、弓、そして煙玉が収められている。
横には、片野玄道、宇治田孝兵衛、和賀茂多聞。
誰も声を発さず、ただ波の音と呼吸だけが、微かに夜に溶けていた。
霧に紛れて接近し、煙であぶり出す――それが、作戦だった。
(ここまで来たら、もう戻れない)
景虎は心の中でつぶやき、手足を動かし続ける。
冷たい水に、体力は容赦なく奪われる。
だが、心の内側はむしろ、熱を帯びていた。
命を懸ける。
それが、たった今、ここにいる理由だった。
やがて、島影が迫る。
黒々とした岩場が、夜の中に口を開けて待っていた。
景虎は、最後のひと漕ぎで岩に手を掛け、身を引き上げた。
その直後、濡れた衣が海風に晒され、鋭く体温を奪っていく。
歯が自然に鳴る。
しかし景虎は、震える体を意志の力で押さえ込んだ。
立ち上がった目の前――
朽ちた鳥居が、闇の中に静かに佇んでいた。
木は黒く変色し、注連縄は風に千切れ、垂れ下がっている。
そして、その鳥居の根元――
槍に串刺しにされた、村の若者たちの首が並んでいた。
血の気配すら生々しく、目を見開いた顔は、今にも呻き声を上げそうだった。
和賀茂が小さく息を呑む。
玄道がすかさず振り返り、無言で制する。
景虎は、無言のまま、手を合わせた。
すべての感情を、濡れた肌の下に押し込めるように。
(必ず――おまえたちの無念を晴らす)
濡れた衣を絞る暇もなく、鳥居を静かに潜った。
その先、崖の岩肌に穿たれた黒い洞穴が、牙を剥くように口を開いていた。
闇と湿気、血と鉄の匂いが、波のように押し寄せる。
「ここが……禊之宮か」
景虎が低く呟く。
本来なら、神を祀る神聖な場所。
だが、今やそこには神も祈りもなく、ただ人の怨嗟と血の気配だけが充満していた。
景虎は、腰の袋から煙玉を取り出す。
火打石を擦る――ぱちり、と火花。
煙玉に火が移り、白く淡く輝いた。
景虎は躊躇なく、それを社の奥へと放り込んだ。
数秒の静寂――
それは、世界が息を呑んだ一瞬だった。
……湿った岩肌を這うような、重く濁った足音が、奥の闇からひとつ、聞こえた。
そして。
「……ゴホッ、ゴホッ!」「――ガアァッ!」
中から怒号と咳き込み。
足音とともに、鬼たちが洞窟から飛び出してきた。
武器は――粗末な長刀。
鍛えも足りず、刃こぼれし、錆びついたそれでも、
振るわれれば人を裂くには十分な凶器だ。
景虎は即座に短槍を構えた。
「構えろ!!」
玄道の号令と同時に、宇治田と和賀茂が弦を引き絞る。
ピシィ――ズブッ!
最初の鬼が胸に矢を受け、地面に叩きつけられる。
だが鬼たちは止まらない。
理性を捨てた獣のように、吠えながら突進してきた。
景虎は左へ回避。
飛び掛かる鬼の刃を紙一重でかわし、
反撃の槍で喉を突いた。
血飛沫。
鬼が喉を掴んで倒れこむ。
間髪を容れず、別の鬼が長刀を振り下ろしてくる。
景虎は槍を斜めに立て、刃を受け流す。
火花が散り、腕に衝撃が走る。
(重い……だが隙だらけだ!)
景虎は半歩踏み込み、槍の石突で膝を打ち砕いた。
鬼が膝をついた瞬間、喉元へと突き立てる。
横目で玄道を見やる。
玄道もまた、短剣を操り、二人目の鬼を捌いていた。
歳を重ねた身とは思えぬ鋭さ。
宇治田と和賀茂も、必死に矢をつがえて支援している。
「六、七……!」
景虎は息をつきながら数を数えた。
「八、九、十――」
煙は徐々に晴れ、洞窟の中からは新たな気配がない。
戦場には、荒く呼吸する自分たちと、
倒れ伏す鬼たちの屍だけが残った。
躰は人のまま、魂だけが削れていた。
「角は……ない。だが、すっかり“鬼”だな」
景虎が小さく呟いた。
夜明けの光が、薄く差し込み始めていた。
静寂。
景虎は、血塗れの短槍を握りしめたまま、洞窟の口を睨み続けた。
薄明の光が差し込む中でも、社の入口にはなお濃い煙が立ち込めており、内部の様子ははっきりと見えない。
その靄の向こうに何があるのか、景虎は息を殺して見定めようとしていた。
***
そのころ、遥か瑞京。
夜の宮中、霧栖命を祀る祠の前に、紫苑はひとり膝を折っていた。
風もないはずの空間で、彼女の指に巻かれた藤紫の紐がふわりと揺れる。
紫苑は、静かに両の手を合わせた。
(どうか……あの人の目の前の霧を払い、進むべき道を照らしてください)
その祈りに応じるように、祠の鈴がひとりでに鳴り、小さな風が生まれた。
鈴が鳴った。風が生まれた。
それは――霧を払う神が、目覚めた証。
紫苑の胸の奥に、不意に映像のような幻が揺らめいた。
黒く沈んだ社の奥で、かすかに震える白衣の影。そして、その背後に佇むもうひとつの気配。
(まだ、中に……人がいる。あれは、巫女……? それに、何か……気配が)
風は、祠から天へと昇り、神域へと吹き抜けていった。
***
「まだ……終わってない」
玄道が息を切らしながら呟いた。
「娘たちは、中だ」
その言葉を受けて、景虎は一瞬だけ目を細めた。
そのときだった。洞の奥から、音もなく風が流れてきた。
海の風とは違う、どこか澄んだ、清らかな気配を帯びた風。
同時に、煙の帳がすっと引くように薄れていった。
景虎は目を凝らす。
闇に沈んでいた奥の空間――そこに、白い布が揺れていた。
血と煙の中、ただ一筋だけ清らかな香が鼻をかすめた。
縄で縛られ、壁に凭れかかるように座り込む巫女の姿。
そして、そのさらに奥。
光も届かぬ闇の底に、なおも動かずに潜む、何かの気配。
動かずに潜むそれは、先ほどの鬼たちとは異なる空気をまとっていた。
息遣いすら聞こえぬまま、まるでこちらを見返しているかのような、静かな視線のように感じられた。
(……まだ、生きている。そして、まだ……)
景虎は槍を構え直した。
静かに息を吸い、闇の奥へと視線を据える。
冷たく湿った空気の中、
その瞳だけが、燃えるような光を宿していた。
まだまだ鬼退治