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蓮池の鞠  作者: まぐろ
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第三章 対岸の火、鬼の爪

怒涛の投稿!

 春霞の立ち込める朝だった。


 海から漂う塩の香りと、山からそよぐ若葉の匂いが、潮騒とともに混じり合う。

 瑞京から南へ二日の旅。山あいの道を抜け、川沿いを下り、やがて海が見えた。

 そんな旅路の果てに、和久井景虎は、かすかに汗ばんだ額を拭いながら、静かに村へ足を踏み入れた。


 春霞村――


 かつては豊かな田畑と交易港で知られ、桐葉国でも指折りの大村だった。

 肥沃な土地には年に三度の実りがあり、港には諸国の商人が行き交っていた。

 家々は入母屋造りの屋根が連なり、路地には笑い声と湯気が満ち、どこか懐かしさを覚えるような活気があったという。


 だが今、景虎の眼前に広がるのは、深く傷ついた村の姿だった。

 折れた柵、踏み荒らされた畑。田の畦道には草が生い茂り、耕作の手は久しく入っていない。

 ヤギ小屋の屋根には大穴が開き、干された藁束は風に裂かれて飛び散っている。

 港には舟の姿がなかった。浜辺には繋がれたままの舫綱と焦げた木片が散乱している。かつての交易の栄えを思わせるそれらも、いまや風に晒された亡霊にすぎなかった。


 景虎が村の入り口を進むと、民家の戸がひとつ、またひとつと音もなく閉ざされていく。

 わずかに開いていた障子の隙間から、誰かがそっと手を伸ばして音を立てぬように閉める様子が見えた。人々の気配はあるのに、歩く音も話し声もない。ただ、恐れと疑念が、風に乗って張り詰めているのを景虎は感じた。  

 細い隙間から覗く視線。幼子が一瞬顔を覗かせては、怯えたように引っ込む。

 ここに生きる者たちは、静かに怯えていた。

 ただ暮らしていただけの村人が、ある日突然、正体もわからぬ“鬼”によって日常を奪われたのだ。

 その心に巣食ったのは、怒りよりも、戸惑いと恐れだった。


 岸辺に並ぶ小祠には破れたお札が張られ、注連縄は風雨にさらされて色を失っている。

 禊場には荒れた足跡と、流されぬままの祓布が残されていた。

 神域に近いこの村の空気には、ただならぬものが漂っていた。

 景虎は荷車を押しながら、村の中央へと向かった。


 広場には十数人の村人が集まり、誰もが押し黙って景虎を見ていた。

 中央には、一人の老人が立っていた。背が曲がり、身体は小柄。その人物こそ、村長・矢吹善左衛門である。

 景虎を見つめる村人の目には、戸惑いと落胆が浮かんでいた。

 その沈黙を破ったのは、皺の深い手を握りしめた一人の母だった。


「……息子は、神渡島に向かったきり、帰ってきません。どんなに待っていても……帰って来ないのです」


 続けて、杖をついた老人が嗄れた声を絞り出す。


「孫娘がさらわれた夜……家の柱に、血がついておった。相手は長刀を持っている。何も……我らには、どうすることも……」


 村人たちの声は次第に重なり、どれもが沈んだ哀しみと、自らを責める悔しさに満ちていた。

 痛みと怒りが混じった訴えが、次々と景虎に向けられる。

 しかし誰も景虎を責めているのではなかった。  

 ただ、どうしようもなく張りつめていた想いが、近衛兵の姿を前に、溢れ出たのだ。

 その想いを、景虎は黙って受け止めていた。

 ひとつ、またひとつと重なっていく声が、胸の奥へと沈んでいく。

(……必ず、終わらせる)


 そのとき、広場の奥から力強い足音が近づいた。

 姿を現したのは、がっしりとした体格の日焼けした男だった。

 腰には捕縄と十手を下げ、どこか慣れた様子で人々をかき分けて進む。


「片野玄道と申す。見回りの途中で戻ってきた、ここの治安維持部隊の部隊長だ」


 そう名乗ると、玄道は村人たちに向かって言い放った。


「心配無用。この若者は――桐葉国の至宝、近衛兵である。帝を護る、最も信頼されし武人のひとりだ」


 ざわり、と村人たちがどよめく。


 近衛兵。


 その名を知る者たちの顔に、わずかに希望の色が灯った。


「近衛兵様……!」


「なら……きっと、大丈夫だ……」


 善左衛門も深々と頭を下げた。

 だが、その老いた目には、なお消えぬ憂いがあった。

 一人の近衛兵で、本当に“鬼”を退けられるのか――その疑念を、言葉にする者はいなかった。

 景虎は、村人たちの視線を一身に浴びながら静かに荷車を止めた。無理もない、と自嘲気味に唇を噛む。

 ここにいる誰ひとりとして、彼が激しい武芸館の実戦試験を潜り抜けてきた猛者だとは思うまい。

 荷車に積んだ槍と煙玉を肩に担ぎ直す姿も、ただの若者にしか見えないだろう。

 広場の隅に立っていた片野玄道が一歩進み出ると、目配せだけで人々を下がらせた。


「景虎殿。詳しい状況をお伝えします。村役所へ」


 頷いた景虎は、玄道とともに人波を抜けて建物の中へ入る。


 踏み締めるたびに軋む床板。壁には古びたお札と煤けた柱。かつて村の祭事を取り仕切っていたであろう囲炉裏は、今や灰だけが残っていた。

 奥の部屋には簡素な木机があり、その上に油染みた布で作られた地図が広げられている。

 玄道は地図の一点に指を置いた。


「神渡島は、村から見える島で、やつらの根城です。漂着した異国の船の生き残り……船乗りや奴隷、逃亡者。正体は不明ですが、数は十五から二十。全員が刃物を持ち、うち三、四人は手練れです。指揮を執る者もいる。

 社が襲われたのはひと月ほど前のことです。ある晩、突然禊之宮が襲撃されました。当時神事を行っていた神職は皆殺しにされ、巫女たちは無残な仕打ちを受けた末にそのまま留めおかれ今でも仕打ちを受け続けております」


 玄道の声はかすれていた。怒りというより、悔しさに近い響きだった。


「禊之宮には返り血が残り、神域は穢されました。だが、やつらは武器を持って立てこもっている。太守の軍は神域であるために踏み込めず、中央に立ち入りの許可を申請してはいたのですが……今の今まで、返答はないままです」


 景虎は、布の端に描かれた等高線を指でなぞった。少しの沈黙ののち、低く問う。


「島の地形は?」


「三方を急峻な岩で囲まれ、南にのみ上陸できる砂浜があります。そこから一本の道が社に続いています。社は天然の岩窟を利用して建てられており、間口は人ひとりが通れるほどの狭さですが、中は二十人が立てるほどの広さがありますが天井はそれほど高くはありません。

 抜け道は社の裏手、風の通り道に沿うように開いているという。島の南岸からなら、夜のうちに音を立てずに接近できるはずだ。」


 黙って聞いていた村の警備役、宇治田孝兵衛が口を開いた。


「禊之宮の裏手に小さな穴があると、古老が言っていました。風通しのための抜け道とか……もしそこから煙玉を放り込んで穴を閉じれば鬼共を燻すことはできます」


 景虎はうなずいた。


「使える。洞窟に煙玉を入れて追い立てる。入り口で待ち伏せして弓で仕留め、倒れた鬼にとどめを刺す」


 和賀茂多聞が低く口を挟んだ。


「ですが、その島は神域。兵の足で踏み入れていい場所ではないですよね?」


 玄道も頷いた。


「先程も申し上げたが、神域は聖域。太守の軍すら上陸を許されていない。軍船を近づければ、それ自体が神罰を招くとされている。だが今回は――」


 しばしの沈黙ののち、景虎はゆっくりと口を開いた。

 短い沈黙が落ちた。

 誰もが、景虎の次の言葉を待っていた。


「おれと皇女殿下との婚姻に課せられた試練として、皇帝陛下より、鬼を討ち、“角”を持ち帰るよう勅命を賜った」


 その言葉に、場にいた者たちの表情が変わる。怯えではなく、畏れ多いのだ。誰一人言葉も出なかった。

 景虎はふと懐に手を入れ、指先で確かめた。微かに香を残す布――紫苑から手渡された髪紐。

 あのとき、言葉もなく見つめ返された眼差しが、今も胸に焼きついている。

(村の皆を助ける。たとえこの命が果てようとも。鬼に角はないが、村人の笑顔は取り戻せる。それでいい――そう決めたのは、おれ自身だ)


 景虎は顔を上げた。


「作戦を決めよう」


 景虎は指先で地図を押さえ、社へ続く道筋と風の通り道をなぞった。


「舟は使わない。見張りに見つかりやすく気づかれる。奴らに一歩でも早く気づかれれば、洞窟の奥から増援が来て奇襲は失敗に終わる。……だからこそ、静かに、確実に近づく必要がある」


 景虎は一拍置いて続けた。


「潮の緩む丑三つ時に、泳いで渡る。防水袋に武具を詰め、身一つで島に上陸する」


 宇治田がわずかに息を呑んだ。


「夜間の渡りは危険です。潮も緩んでいるとはいえ人力で泳ぐとなれば流されます。」


「承知している。そのうえでの策だ」


 景虎は静かに応じた。


「それでも、上陸に成功すれば、こちらの存在を知らせずに接近できる。見張りを静かに倒すことも可能になる」


「その後、風通しの穴から煙玉を入れる。そして、追い立てられて飛び出してきた“鬼”を洞窟の入り口で射る、ですね?」


 和賀茂の声には緊張と理解が混じっていた。


「その通りだ。宇治田殿、和賀茂殿、弓は使えるか?」


 二人は頷いた。宇治田は


「まさか本物の近衛様と共に戦うとは……」


 と呟き、和賀茂は緊張を隠せぬまま、黙って弓の弦を指で確かめていた。


「ならば、煙に追い立てられて出てきた者をお前たちが射る。息の残った者たちは、俺と玄道殿が正面から討つ」


 玄道が鼻で笑った。


「手荒な役割か。だが、やるしかあるまいな」


 その顔には覚悟が滲んでいた。眼光は鋭く、唇はわずかに引き結ばれている。年季の入った武人の、それでも諦めぬ強さがそこにあった。


 景虎はうなずき、最後に声の調子を落とした。


「もし鬼が煙に異常を感じて飛び出して来ず、煙たさを我慢して社の奥に残る者がいた場合は突入する。俺が先に入るから他の者は援護に回ってくれ」


 沈黙が続いた。  

 それは、誰もが同じ緊張を呑み込んだからこその、決意の沈黙だった。

 玄道が静かに頷く。


「……承知した。淡州武士の名にかけて、全力を尽くす」


 景虎は彼の言葉に、深く頭を下げた。

 その瞬間、誰からともなく息を整える音がした。

 恐怖や不安は消えはしない。

 だがそれを乗り越える覚悟が、四人のあいだに生まれていた。


 夜が来た。

 星の光も雲に覆われた漆黒の空の下、四人は浜辺に立っていた。

 波打ち際に寄せては返す波音の奥に、どこか遠くから吹き寄せる風の音が混じっていた。

 景虎は足元の砂を確かめるように踏みしめ、風向きを読む。

(祓え給い、清め給え、守り給い、幸え給え)

 霧栖命へと祈る。

 潮は緩やかに引きつつある。

 身に着けているのは最低限の衣服。防水袋には武具と装備、そしてそれぞれの覚悟が詰められていた。

 玄道が口を開いた。


「渡るぞ。離れすぎるな。声を出すな。波を数えろ。そして……呼吸を合わせろ」


 宇治田と和賀茂が静かにうなずく。

 誰も無駄口を叩かない。

 景虎は最後にもう一度、懐に触れた。髪紐の感触を確かめた指先が、かすかに震えていた。

(……怖気づいてどうする。戻れば、守るべきものも失う)

 その思いを飲み込み、静かに目を閉じた。


 ***


 そのころ、遥か瑞京。

 宮中の一隅、静かな祠の前に紫苑はひとり立っていた。

 夜風は冷たく、静寂の中に、松の葉擦れだけが微かに響いている。眠れずに歩いた紫苑の足は、気づけばこの場所へと導かれていた。

 紫苑の指には、彼女が自ら選んだ藤紫の紐が巻かれていた。

 髪紐が突如として冷気を帯びたので、彼女は景虎に何かが起こったことを察した。

 まるで誰かが海の彼方から、その冷たさを風に乗せて運んできたかのようだった。

 紫苑はそっと髪紐を巻いた手を胸元に当てる。

 言葉にならぬ不安が押し寄せてくる。

 どこかで波が荒れていないか。風が強く吹いていないか。

 見えない場所で、誰かが凍えるような冷たさに身を晒していないか。

 彼女の耳には何も届かない。

 けれど、心のどこかが確かに応えていた。

 いま、この瞬間も、景虎は風と水の中を進んでいる。

 紫苑は祠の前に膝を折ると、両手を合わせて今景虎がいる淡州の神である霧栖命に祈りを捧げた。

(……あなたに、暖かい風が届きますように)

 祈りの言葉は、神に捧げるものだったはずなのに。

 けれど今は、それ以上に――ただ、あなたに生きていてほしいと願っている。

 その願いは、誰にも気づかれぬまま、夜の風に溶けてゆく。

 その風が、遠く黒い海を渡って、景虎の背を押すものであることを、紫苑はどこかで信じていた。


 ***


 冷たい波が足を打つ。さらに進めば、腰、胸、肩へと水が迫る。

 潮の流れは思った以上に強い。押し返すように進まねば、容易く流される。

 水の冷たさが体の芯を蝕んでいく。

 手足の感覚が少しずつ薄れていく中、それでも景虎は泳ぎ続けた。

 顔を上げ、神渡島の暗い輪郭を見据える。

(この海の先に、あの社がある。あの地を、俺は越える)

 背後には、静かに三つの水音が続いていた。

 冷気に震えながらも、誰一人としてその泳ぎを止めはしなかった。


 黒い海を越えて、景虎は神域へ足を踏み入れた。

 そこは、血と祈りの記憶が色濃く染みついた場所だった。

 神も鬼も人も、境など忘れられた地。

 灯る火は、祈りの名残か、それとも血を呼ぶ予兆か。

 誰のものでもなく、ただ静かに燃えていた。


 対岸で待っていた“爪”が、今、彼らに試練を与えようとしていた。

 それは、誰かの運命の糸を引くように、静かに、忍び寄っていた。

まだまだ続くよ!

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