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蓮池の鞠  作者: まぐろ
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第二章 鬼なき試練

いよいよ続編

陰謀渦巻く瑞京で景虎は不器用に生きていくことを決意する?!

 瑞京、鳳凰広苑東館――蹴鞠の儀が終わった控え室。


 静まり返った室内に、竹香炉の白煙が揺れる。

 湿った空気のなかで、和久井景虎は自らの礼装に袖を通していた。


「……まったく、お前ってやつは……」


 控室の戸を乱暴に開けた守屋光継が、礼装を抱えて駆け込んできたのは、ほんの少し前のことだった。


「泥まみれで謁見に出る気か? 正気かよ。……ほら、これ着ろ」


 景虎は受け取った衣を広げると、袖を通しながらひと言だけ返した。


「本当に気が利くな、助かったよ。お前が女だったらお前と結婚したいくらいだ」


「ったく。……礼装なんて、いつ以来だ?」


 景虎は衣の胸元を整えながら、少し考えて首を傾げた。


「……たしか、成人の加冠祭のとき以来かも」


「そうだ、あの時お前、緊張で紐の結び方間違えてて、儀式の最中に解けかけたんだったな」


「……光継が笑い堪えて肩を震わせてたの、ちゃんと覚えてるよ」


「ふん。あの頃と比べりゃ、随分様になったじゃないか」


 光継は景虎の胸にある家紋に目を留めた。


 瑞京において、鴫原や泉河の紋は特別な意味を持つ。 その家の者と知られれば、それだけで重く見られ、言葉にも行動にも影響力が格段に増してしまう。


 だが、景虎の衣に縫い込まれたのは、和久井の控えめな紋。


「……いつの間に紋変えたんだ?」


 景虎は少し肩をすくめて、冗談めかして続けた。


「おれは生まれたときから和久井としか名乗ったことはないぞ。でも瑞京の人間は生きているおれの話よりとっくにあの世にいってしまった祖父母の話をするのが大好きだからな」


 光継は吹き出しかけて、首を振った。


「……お前ってやつは、ほんとに」


 光継はひとつ息を吐いて頷く。


「……蹴鞠の儀は神事だ。鞠を拾った者を拒むのは陛下でもできん。  だが、それで皇女との婚姻が決まったとなれば、当然、異を唱える声も出る」


 景虎は視線を落とし、少しだけ息を整えた。


「……けれど断れば、瑞京の人間が大好きな祖父や祖母の名前を、汚すことになる」


「無理を言われて死ぬことになるかもしれん。それでもか」


 景虎はうなずいた。


「武人にとって命は惜しくない。惜しむのは、背負った家名の方だろう?」


「だったらちゃんと祖父か祖母の家紋入れてやれよ」


「まったくだ、ご先祖に申し訳が立たぬ、というやつだな」


 光継は小さく笑った。


「さあ戦場へ行ってこい」


 ***


 鳳凰広苑東館、御簾の奥。


 控室には、帝・皇后とともに数名の重臣が控えていた。


「……名は、和久井景虎と申すそうです」


 評議頭・鷲津景成わしづ かげなりが答える。


「青洲に赴任しております太守の弟、鴫原正隆の三男で、泉河芙蓉殿の子。  しかし本家の跡取りではなく、武官として和久井姓を名乗っております」


「ふむ、わざわざ瑞京にまで学びにきておきながら文官ではなく武官を選んだか」


 皇帝・高峯帝が口にする。

 鋭い眼差しの奥に、わずかに興味が宿る。


「腕前は?」


 近衛府督・水原重光みずはら しげみつが一歩前へ出て答えた。


「近衛兵の中でも随一の腕前で、国中で彼に敵う武人は数えるほどしかおりません」


 その言葉を遮るように、斎華皇后が囁く。


「泉河の……芙蓉の子、ですか」


 斎華皇后の声には、どこか懐かしさと警戒が混じっていた。

 その名を口にした瞬間、彼女のまなざしがわずかに揺れる。


 鷲津景成がうなずく。


「はい、間違いなく。芙蓉殿は先代皇后陛下の主治医を務めた泉河静音いずみかわ しずねのご息女にございます」


「……芙蓉、懐かしい。私とは従姉妹筋にあたるが、姉のように私を導いてくれました。 よく夜遅くまで書を広げ、疲れた私に薬湯を煎れてくれたものです」


 皇后は一瞬、遠い記憶に目を細めた。


「……ならば、その子を、無碍には扱えまいな」


「しかし蹴鞠の儀の結果とはいえ、武官が皇女の婿となれば、文官たちは面白くないだろうし、縁談を持ちかけてきている諸外国にも顔が立たぬな」


 帝はふと顎に手を添え、しばし黙考した。

 その横顔には、政を預かる君主の重みと、一人の父親としての苦悩が浮かんでいる。


「――紫苑はまだ若い。人生の多くを、誰かと共に歩まねばならぬ。

 それが、神意に委ねられたとはいえ……あまりに唐突だ」


 帝の眼差しが揺らぐ。


「だが、故事とはいえ神事の結果、覆すわけにはいかぬ。……神渡島の件で、彼は使えるか?」


 皇后の目が鋭くなる。


「近衛兵を軽々に動かせば、諸侯が警戒いたします」


「しかしこれはあくまで神事の結果。武官が皇女を娶るとなった場合に、それに値するかどうかの個人的な試練として与えたならば……どうだ?」


 しばしの沈黙ののち、鷲津景成が口を開いた。


「神事の形を保ちながらも、実際には御前試問に近い形かと存じますな。異論を挟む者も、口を慎まざるを得ましょう」


 続いて、財政官の老臣・榊原典真が低い声で付け加えた。


「ただし、討伐の成否次第では無理な試練を設定した皇家に対する信頼を損ねる危険もございます。……見極めにはなりますな」


 その言葉に帝は再び思案の色を深めたが、やがてゆっくりとうなずいた。


「どちらにせよ、我らに選択肢はそう多くはない。結局は彼次第ということか」




 御簾の奥に声が響いた。


 控室の静けさがわずかに揺れた。畳の上に足音が近づき、扉が開かれると、緊張の気配が空気に染みわたる。


 女官の声が柔らかく告げた。


「お連れいたしました」


 その声を合図に、高峯帝がゆるく手を上げた。


「この先は私的な謁見とする。景虎の素顔を見極めたい」


 それを受け、鷲津景成が一礼し、他の重臣たちに目配せをする。


「皆、下がられよ」


 静かに畳を滑るような衣擦れの音がいくつも続き、やがて広間には帝、皇后、そして紫苑だけが残された。


 ***


 景虎が、礼装のまま歩み出る。


 絹の衣擦れが静かな広間に響き、重々しい沈黙が訪れる。足音ひとつ、呼吸ひとつが際立つ空間のなか、景虎はまっすぐ帝の前へと進み出た。


 その動きに迷いはない。背筋を伸ばし、両の手を体の前で重ねて立ち、静かに頭を下げた。


 その所作は、戦場における剣の一閃のように、無駄がなく鋭い。広間の空気がぴんと張りつめ、景虎の姿が一種の威厳を帯びて見えた。


 紫苑の視線が、彼に向けられる。


 初めて至近で見た景虎の姿に、紫苑は思わず息をのんだ。

 均整の取れた立ち姿。無駄のない所作。涼やかながら、どこか内側に静かな炎を宿した眼差し。

 ――声をかけようとして、唇が少しだけ開く。

 だが言葉が見つからず、紫苑はわずかに指先を握りしめた。

 その眼差しが一瞬、自分を見た気がして、紫苑は心臓の鼓動が跳ねるのを感じた。


(――なんて、静かな目……けれど、真っ直ぐで、怖いくらいに澄んでいる)


 それは、誰かの命令でもなく、名誉でもなく、自らの意思で立つ者の目。

 武人というより、まるで風そのもの。形なく、掴めず、けれど決して揺らがない。


 景虎もまた、紫苑を見ていた。


(これが……)


 初めて間近に見る皇女の姿は、噂よりもずっと穏やかで、どこか影を帯びていた。

 だがその瞳には、澄んだ湖のような強さがあった。

 知性、気品、そして静かな意志の光。


 景虎はふと、自分が見上げていたもの――遠くにだけあると思っていた「強さ」の形が、こんなにも静かで美しいものだったのかと、不意に思った。


 その瞬間、二人の視線が重なった。 その視線に、互いに何かを読み取ろうとする気配が宿った。


 紫苑の表情がかすかに揺れ、景虎の眉がごくわずかに動いた。だが、どちらも目を逸らさなかった。


 ――紫苑はその一瞬、胸の奥でふと、何かが囁いたように感じた。

 風もなく、音もないはずなのに、確かに何かが流れた。

(……この人は、風と共にある)

 言葉にもならぬ感覚が、静かに紫苑の中に降り積もっていった。


「まずは、鞠を拾ったこと。礼を言う」


 高峯帝が口を開く。


「恐れながら、ありがたきお言葉にございます」


「蹴鞠の儀は神事。そなたを紫苑の婿と認めるのが筋だ」


 帝は一呼吸置いて、景虎をじっと見据えた。


「そなた自身は、どう思う?」


 景虎は一瞬、視線を落としたが、すぐに顔を上げる。


「神意に従うのみです。過分な栄誉と受け止めておりますが、与えられた務めを果たす所存にございます」


 帝はわずかに目を細め、頷いた。


「……ただし、条件がある」


 斎華皇后が一歩前へ進み、静かな声で言った。


「神渡島の北端にある社――そこはかつて、神職たちが祭祀を行っていた神聖な場所です。

 ところがひと月ほど前、鬼が突如として現れ、社を荒らし、神職を殺め、島を穢しました」


 皇后は一拍置いて、景虎をまっすぐに見据える。


「鬼は村を襲い、娘を攫い、畑を荒らし、神域を穢しました。人の言葉も理も通じぬその存在は、もはや討たれるべき穢れに他なりません。

 今も神渡島に潜んでいます。これを討ち、“鬼の角”を持ち帰ること。

 それが、神意に従って皇女を娶るに値するかを見極める、そなた自身への試練です」


 景虎は眉一つ動かさず、深く一礼すると、しっかりとした口調で答えた。


「承知いたしました。」


 紫苑が膝の上で手を握りしめる。


「母上、いくら武芸に秀でる景虎様でも単騎では……。神渡島の地形は複雑で、村の周辺には伏兵が潜む余地もあります。せめて、数人の援護を付けてはいけませんか?」


「なりません。これは近衛に出動を依頼しているのではなく、和久井景虎個人への試練と心得よ。蹴鞠の儀という古びた神事だけでは納得しない者も多く、だれもが目に見えてわかる結果で納得させるしかないのです」


 景虎が紫苑に向き直る。


「お気遣い、痛み入ります」


 その声は柔らかくも、礼節を保ったものであった。紫苑に対して真正面から向き合いながらも、あくまで距離感を崩さない冷静さがあった。


「……紫苑様のお言葉、ありがたく頂戴いたします。ご懸念にお応えできるよう、尽力いたします」


 紫苑はわずかに表情を和らげたが、そのまま言葉を探すように一瞬、間を置いた。


「……無事に、お帰りください」


 その声には、優しさと祈りが込められていたが、それ以上の感情を悟らせぬよう慎重に整えられていた。


 景虎は一礼し、簡潔に応えた。


「お心遣い、感謝いたします」




 景虎はゆるやかに身を翻し、正面に座す高峯帝へと向き直った。


 深く頭を垂れ、凛とした声で言う。


「必ず、鬼の角を持ち帰ります」


 ***


 夜、宿舎。


 景虎は短槍や煙玉、予備の弓を袋に詰めていた。


 守屋光継がやってきた。


「神渡島の件は記録に残っていなかったが、難破船の話なら――内務院の記録室で、淡洲州府から上がった報告書が残っていた。……これ、本当に相手は“鬼”なのか?」


 景虎は短槍の穂先を布で拭いながら、ちらりと光継に目をやった。


 光継は景虎の様子に怪しさを感じた。


「……お前、もしかして最初から鬼じゃないって知ってたのか?」


 景虎は手を止めず、静かに答えた。


「たまたま、お前が読んだというその報告書を、俺も見ていた」


 光継は眉をひそめ、息を呑んだ。


「じゃあ……鬼の角なんて、あるわけないじゃないか」


「こんな何もない島に突然鬼など沸いてくるはずがない」


「じゃあなんのためにお前は…」


「無理を言われて死ぬことになるかもしれん。そう忠告してくれたのはお前だろ?」


 光継は今日の会話を振り返った。たしかにそんな忠告をしていた。


「武人にとって命は惜しくない。惜しむのは、背負った家名の方、そう言ったが――」


 景虎はふと、自分の掌を見下ろした。


「……さすがに、手が震えてしまってな」


 それは冗談めいて言ったが、布の奥に滲む汗が、その覚悟の重みを物語っていた。


 景虎は穂先を拭き終わった手をしばらく見つめ、短槍を準備中の袋を手早く締めた。


「……お前が来てくれれば、背中は安心だったが」


 光継は肩をすくめた。


「言うな。同じ気持ちだ。……だが、気持ちはありがたく受け取っておく」




 そのとき、戸が叩かれた。

 静かな足音と共に女官が現れ、その後ろから、ほのかな香の残り香をまとった紫苑が姿を現した。


 景虎は思わず手を止める。


「和久井殿……」


 紫苑の声は、張りつめた静寂を柔らかくほどくように響いた。

 手にしていたのは、絹の包みに丁寧にくるまれた小さな贈り物。


 紫苑は一歩前に進みかけて、ほんのわずかに動きを止めた。

 視線が泳ぎ、口元がきゅっと結ばれる。

 それでも、意を決したように顔を上げ、景虎に向かって差し出した。


「これを、お渡しに参りました」


 景虎は立ち上がり、正面から彼女を見つめる。


 紫苑は包みを差し出しながら、少しだけ視線を伏せた。


「髪結い紐です。……私と、同じ色のものを、選びました」


 紫苑は少し照れたように言葉を継いだ。


「同じ色の髪結い紐を身に着けると、気持ちが通じ合う――そう言い伝えられているのです」


 ——けれど紫苑には、もう一つ、この紐に託した思いがあった。

 それは子どもの頃、神職たちから教わった、目には見えぬ“結び”の力。

 神が人と結ぶ時、見返りも言葉もない。ただ静かに、同じ色を帯びるという。

 景虎がこの紐を身につけていると想像するだけで、紫苑の胸には不思議と風が流れるような感覚があった。


 静かな灯の下で、その紐は深い藤紫に染められていた。


 景虎は、しばし言葉を失い、視線を落とした。


 紫苑の手から受け取った包みをそっと握り、手の中に残る温もりに、一瞬だけ目を伏せる。

 その眼差しには、言葉にできぬ戸惑いと、確かな重みが宿っていた。


「……頂いてよろしいのですか」


 紫苑はうなずいた。


「……その、もし差し支えなければ……その紐を身につけていただければと。少しでも、心の支えになればと思います」


 その声には、祈りにも似た切実さがあった。


 景虎は深く頭を垂れた。

 握りしめた紐が、掌の中でわずかに熱を持っていた。

 しばらく沈黙したのち、彼はゆっくりと顔を上げる。


「この紐を紫苑様だと思い…」


 ふと景虎のまなざしが揺れ、ほんのわずかに紫苑の顔を見てから、また目を伏せる。呼吸をひとつ置いて、言葉の続きを飲み込んだ。


 まだ紫苑との距離感がつかめないまま自分の気持ちを押し付けるのは違うと思ったからだ。そして紐を懐に収める。


「紫苑様……必ず、戻ります」


 その声には誓いだけでなく、かすかな決意と、誰にも言えぬ不安とが、静かに込められていた。


「……お戻りを、お待ちしております」


 それは短く、しかしまっすぐな誓い。

 紫苑は静かに目を伏せ、小さく、確かに頷いた。




 そして翌朝、景虎は春霞村へと旅立った。

 背を押す風は冷たく、まだ朝靄の残る道を、彼はただ黙って歩き出した。


 景虎は目を伏せたまま、ふと頭の奥で反芻する。


 ――鬼とは、なんだろう。


 畑を荒らし、娘を攫い、神域を穢したという者たちは、確かに許されざる存在だ。

 だが、外つ国から流れ着き、飢えの果てに手を染めた者たちを、人は“鬼”と呼んだ。


 本当に“角”を持っているわけでも、炎を吐くわけでもない。それでも、誰かの願いと恐れが、その存在を“鬼”に変える。


(……本当に討つべきものは、鬼なのか。それとも――)


 心に残ったその問いに、答えはなかった。


 その頃、紫苑はひとり、宮中の小祠に立っていた。まだ陽の差さぬ空のもと、誰にも気づかれぬように、そっと祈る。


(――どうか、彼を見守ってください)


 その胸に確かにあったのは、神に仕える者としての祈りであり、けれどそれ以上に、一人の少女の願いだった。


 風がふと吹き抜ける。裾を揺らしたその風が、藤紫の紐を巻いた小さな指に、やさしく触れていった。


 紫苑はその瞬間、胸の奥に微かなざわめきを感じた。


 まるで神々の気配が、遠くから彼の行方を告げようとしているかのように。

鬼退治ですよ 鬼退治!

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