第一章 風の誘い
短編で書いた 蓮池の鞠 鬼の角
いろいろ練り込んで連載版にしてみました
瑞京、春――。
春霞が都を淡く包む頃、内裏の紫宸殿では、異例の御前評定が開かれていた。
神渡島の情勢は、もはや見過ごせぬ段階にあった。淡州の太守・稲城靖邦は、神域とされるその島が異国の者たちによって長期にわたり占拠され、ついには対岸の春霞村にまで被害が及んでいるとして、軍の派遣を中央に訴えていた。
しかし、神渡島は桐神道の聖地であり、そこに俗の軍勢を入れることは、宗教勢力にとって容認しがたい冒涜であった。
「神域へ俗の軍を上陸させるなど、天地の理に背くこと!」
神祇官の上座を務める霊峰家の老臣が、厳しい声音で言い放つ。
「だが、島の神社は既に蹂躙され、神職は斬られたと報告されております」
太守の補佐官が進み出て、春霞村の惨状を記した文書を静かに差し出す。
場の空気は凍りついたまま、皇后・斎華が静かに問いかけた。
「……あの異国の者ども、どこの国の民と判明しているのか」
「流れ着いたのは、セリカと呼ばれる大陸西岸の連合国の者と見られます。ただし、国家的な後ろ盾については不明です」
皇后の眉間に深い皺が寄る。「もし背後に国家があるならば、国際問題にもなりかねぬ」
そのとき、重臣のひとりである典法院の長・秋房公が静かに口を開いた。
「御前にて恐れながら申し上げます。多国間で用いられる公法に照らせば、退去勧告に応じず、神域を穢した者は、その地の法によって処罰しても差し支えありません。よって、桐葉国の法をもって裁くことが適うと存じます」
議場は一瞬、言葉を失ったように静まり返った。
皇帝・高峯帝が、重々しく口を開いた。
「……近衛を動かすしかなかろう。しかし、神事の名を借りた討伐と見なされれば、諸侯の疑念を招く。下手をすれば、内乱の火種ともなりかねん」
重い沈黙の中、均衡を崩せぬまま、会議はなおも続いていた。
その頃、鳳凰広苑の控えの間では、和久井景虎が黙々と身支度を整えていた。
紺の近衛兵装に手を通し、腰紐を締めていると、ひとりの男が笑いながら近づいてくる。
「やっぱお前、今日の蹴鞠の儀に顔出すと思ってたのにな。都の連中なんか、ああいうの大好きだろ?」
声をかけたのは、同じ近衛に所属する守屋光継だった。景虎と歳も近く、気心の知れた間柄だ。
「断った。俺に似合う場じゃない」
「でもさ、景虎、お前の家のこと知ってる奴はちゃんと知ってんだぜ? 文観院の筋って話だし、家柄だけで言えば、あの列の連中にも負けてないだろ」
「それにお前、大学寮でも頭一つ抜けてただろ? あのまま文官になってたら、今ごろは御史局で筆振ってたんじゃねぇの」
景虎は苦笑しながら、佩刀の位置を微調整する。
「……紙の上で人は救えない」
その短い言葉に、光継は肩をすくめた。
「ま、らしいっちゃらしいな。とにかく、儀の警護は頼んだぜ」
景虎は無言で頷き、警備の持ち場へと向かった。
広苑の境に立ち、景虎は周囲を見渡した。
彩られた幔幕の向こうに広がる会場には、桐葉国じゅうから集められた若者たちが列をなし、儀式の始まりを待っている。
だがその誰もが、緊張と虚栄の仮面の下で互いに視線を避け、肝心の鞠に手を出す気配を見せていなかった。
「……誰も拾う気はなしか」
景虎は鼻で笑った。
ふと、広場の奥、神聖な蓮の池に目をやる。
その水辺の影に、ちらりと白い衣をまとった小さな影が立っていた気がした。
蓮の面のようなものをかぶり、こちらを見ていたように思える。
だが目を凝らしたときには、もう誰の姿もなかった。
(……気のせいか)
瑞京の中心、鳳凰広苑。
春を迎えた都の空の下、儀式の会場は豪奢な飾りつけで彩られ、白と紅の旗が風にたなびいていた。
広場の奥には、かつての皇后が愛したとされる蓮の池がひっそりとたたずんでいる。
今では神聖な場所として囲われ、誰も足を踏み入れることを許されていない。
高台に設えられた御帳台に立ち、紫苑は静かに息を吐いた。
視線の先に整列する若者たちは、桐葉国の名家の子弟たち。
絢爛たる装束をまとい、顔には緊張と虚勢の仮面。
(誰も、私を見てなどいない。
誰も私のことを理解しようともしない。
ただ、“皇女と結婚した”という肩書きがほしいだけ。
……だれにも、魅力を感じない)
紫苑は、手にした白地に金糸で蓮を刺繍した鞠を見つめた。
あの夜、童子が見せた鞠と同じもの。
目を閉じ、ゆっくりと深く息を吸う。
そして――
鞠を空へと蹴り上げた。
春風に乗って舞い上がった鞠は、光を受けて一瞬、金色に輝きながら弧を描き、池の中心へと落ちていった。
水面に小さな波紋が広がり、陽光をきらきらと反射する。
広場が、静まり返った。
誰も、動かない。
誰も、池に足を踏み入れようとはしなかった。
紫苑は、胸の奥でそっと微笑んだ。
(これで、誰にも心を渡さずに済む)
だが、その瞬間。
風のざわめきに混じって、どこからともなく声が響いた。
「和久井、拾ってこい」
高台からでもなければ、整列する家臣たちからでもない。
不思議と誰の声かも分からぬのに、確かに広場中に届いた声だった。
紫苑が驚きのままに目を向けると、一人の青年が群れから進み出ていた。
藍の近衛兵装を身にまとい、整列の列にも加わっていなかった男。
(……だれ?)
紫苑は目を細める。
整列していた誰とも違う、まっすぐで異質な気配。
名も知らぬその男に、なぜか視線を奪われた。
(あの人……なぜ……)
青年は神域たる蓮の池に、一礼もせぬまま足を踏み入れた。
その無作法な姿に、周囲はざわめいた。「無礼だ」「非常識だ」と小声が飛び交う。
だが本人は、そんな視線など意に介さぬまま、静かに、そして力強く池の中を進んでいく。
裾を濡らすことも、泥に足を取られることも厭わぬその歩みに、紫苑は思わず目を奪われた。
(……豪快な人)
慎みや礼儀を逸したその姿が、不思議と不快には思えなかった。
むしろ、あまりに真っ直ぐで、何者にも縛られていないその在り方に、胸の奥が静かに騒ぎ立つ。
青年は、ためらうことなく両の手を伸ばし、池の中の鞠を拾い上げた。
(……まるで、この人が鞠を拾う瞬間を、私はずっと待っていたかのようだった)
春の風が、静かに広場を包む。
高台の袖を揺らし、池の水面に光を散らす。
その風に乗って、どこからともなく甘い香が漂った。
視界の端に、白い衣と蓮の面をつけた童子のような影が見えた気がした。
目を向けたときには、もうそこには誰もいなかった。
(……まさか)
その瞬間、池のほとりに立つ青年と、高台から見下ろす紫苑の視線がふと交わった。
一瞬だけ、周囲の喧騒が遠のいた気がした。
風の音、池の水面の光、ざわめく人々、童子の面影――
さまざまな情景が、互いの胸の奥に一気に流れ込み、何かが触れ合った。
それは言葉では説明できない、だが確かに“繋がった”という感覚だった。
そして、それらはさっと消えていった。
まるで、誰かがふたりの運命の糸をそっと結び直したかのように。
風はやさしく、蓮の面影を運んでゆく。
その香の先に待つ運命を、まだ誰も知らずにいた。
ちょっと神話要素多めに入れてファンタジーっぽく変えたけれどファンタジー要素ごり押ししていないのでわかりにくいかもしれませんね