第9話『虹の湯とオートロウリュと星降る整い』
土曜日の午後。陽子ちゃんに指定されたバス停で、私たち三人はバスを降りた。目の前にそれは現れた。夜の闇に浮かび上がるように、煌々と光を放つ巨大な建物。「虹の湯」と書かれたおしゃれな看板。ガラス張りの壁面からは、温かい光が漏れている。
(わ、わぁ……! ここが虹の湯…! ホテルみたい…っていうか、未来の基地みたい…! 人もいっぱいいるし、私、場違いじゃないかな…大丈夫かな…)
鶴亀湯さんの、あの昭和の温もりとは全く違う、モダンで巨大な外観に、私は完全に気圧されてしまった。入り口の自動ドアが開くと、広々とした明るいロビーが広がり、家族連れや若いカップル、友達同士らしきグループがたくさんいて、楽しそうな声が響いている。
「ほら、行くよ静香! 慣れだって、慣れ!」
後ずさりしそうになる私の背中を、陽子ちゃんがポンと押した。隣では、夢さんが既に受付のタッチパネル式券売機をジト目で分析している。
「(…UI、若干の改善の余地あり。決済方法、多種多様。利便性は高いが…)」
陽子ちゃんに手伝ってもらいながら、なんとか券売機で入浴券(リストバンド式だった!)を購入し、ゲートを通過。ロッカールームも、広くて明るくて、どこもかしこもピカピカだ。おしゃれなパウダールームには、見たことのないようなドライヤーまで並んでいる。
「すごい……」思わず声が漏れた。
「でしょー!」と陽子ちゃんは得意げだ。夢さんはロッカーの材質と換気システムの配置を入念にチェックしていた。…やっぱりこの人、普通じゃない。
浴場へ足を踏み入れると、さらに驚きの連続だった。天井が高く、広々とした空間に、色とりどりのライトで照らされたお風呂がいくつもある。ブクブク泡立つジェットバス、白く濁ったシルキーバス、大きなテレビ付きの炭酸泉、一人用の壺湯まで…。
「うわー! 何から入る!? とりあえず炭酸泉っしょ!」
陽子ちゃんが子供のようにはしゃいでいる。私は、人の多さにドキドキしながらも、その種類の豊富さに目がキラキラし始める。体を洗うシャワーブースも個別に仕切られていて、なんだかちょっとだけ贅沢な気分になった。
そして、いよいよサウナへ。
「まずはメインのフィンランド式サウナね!」
陽子ちゃんに導かれて入った室内は、鶴亀湯さんのサウナよりずっと広くて明るい。壁には大きなテレビがかかっていて、ヒーリングミュージックのようなものが静かに流れている。温度計は88℃。でも、湿度が少し高いのか、息苦しさはあまり感じない。
陽子ちゃんは慣れた様子で上段へ。私も夢さんも下段に座る。私はドキドキしながらも、前回の経験を思い出し、ゆっくりと呼吸を整える。
(大丈夫、大丈夫…熱いけど、気持ちいいはず…)
頭の上のキノコ(仮)も、心なしか期待に膨らんでいるような気がした。
その時だった。
ピピピッ、と電子音が鳴り、静かなアナウンスが流れる。
「まもなく、オートロウリュを開始します」
え? オート…なに?
私が戸惑っていると、サウナストーブ上のノズルから、勢いよく水が噴射された!
ジューーーーーーーッ!!
ものすごい音と共に、熱い蒸気が一気に室内を満たし、波のように私たちに襲いかかってきた!
「(ひゃあっ!? な、なに今の!? 熱い! 急に熱い空気が! 息が…! き、キノコが蒸発しちゃうぅぅぅ!)」
思わず体を縮こまらせ、息を止める。熱い! 熱すぎる!
「キターーーッ! これこれ! 最高ー!」
隣の陽子ちゃんは、恍惚の表情で熱波を全身に浴びている。信じられない…。
夢さんは…? タオルで顔を覆いつつも、ジト目は爛々と輝き(?)、壁の湿度計と私を交互に見ている!
(夢モノローグ:…湿度、瞬間的に80%超え。体感温度急上昇。対象A、強い熱ストレス反応。ヒカゲダケも同様に反応…興味深いデータだ。この熱波による強制的な発汗促進効果は…非常に効率的、か…?)
オートロウリュの熱波が落ち着くと、私たちは汗だくでサウナ室を飛び出した。
かけ湯をして、水風呂へ。ここの水風呂は広くて、水温は15℃と表示されている。底からはブクブクと泡が絶えず湧き上がっていた。
「(わわっ、泡がすごい! くすぐったい! でも、冷たすぎなくて、ずっと入っていられそう…!)」
バイブラの刺激と、鶴亀湯さんのより少し高い水温が、意外にも心地よく感じる。
「やっぱバイブラ付きは気持ちいー!」と陽子ちゃん。夢さんは、泡と水流の関係性について分析しているようだった。
そして、水風呂から上がり、体を拭いて、私たちは露天エリアへと続く扉を開けた。
そこに広がっていたのは――
「わぁ…………」
思わず、声が漏れた。
広々としたウッドデッキ。おしゃれなリクライニングチェアや、寝転がれるベンチが点在している。ライトアップされた木々が夜風にそよぎ、見上げれば、湯乃川市の空には満天の星が瞬いていた。
私は、一番端にあったデッキチェアに、吸い寄せられるように体を預けた。背もたれを倒し、夜空を見上げる。ひんやりとした春の夜風が、火照った肌を優しく撫でていく。
(きれい…………)
さっきまでの熱さも冷たさも、どこか遠くへ行ってしまったみたいだ。体がふわふわと軽くなり、心がどこまでもどこまでも広がっていく。星空に、溶けていくような感覚。
(これが……外気浴……鶴亀湯さんの、あの小さな椅子で感じるのとは、また全然違う……でも……これも……すごく、すごく……いい…………)
言葉にならない感動で、胸がいっぱいになる。気づいたら、頬に温かいものが伝っていた。涙…? なんでだろう。でも、嫌な感じじゃなかった。
頭の上のキノコも、まるで星の光を浴びるように、穏やかで、でも力強い輝きを放っている気がした。
「……」
ふと隣を見ると、同じようにデッキチェアに寝そべった陽子ちゃんが、ニッコリと私を見ていた。
「どう? 虹の湯の外気浴、最高でしょ!」
私は、まだ少し涙声で、でも笑顔で頷いた。
少し離れたベンチには、夢さんが静かに座っていた。彼女も星空を見上げていたけれど、その視線は時折、私に向けられている。ジト目の奥の表情は読めないけれど、いつもの冷静さとは少し違う、何か複雑な感情が揺れているような気がした。
(夢モノローグ:…対象A、感情的なカタルシスを伴う『整い』状態へ移行。外的環境要因…開放感、視覚情報(星空)の影響が大きいと推測。…ヒカゲダケの発光パターンも変化…データ化不能な要素が多い。そして、私自身のこの…分析できない静寂と、対象Aの涙を見て感じた微かな胸の痛みは…一体……?)
最高の「整い」を味わった後、私たちは再び浴場へ戻ることにした。
「いやー、マジで最高だったね!」陽子ちゃんが満足そうに言う。「あ、そうだ! ここ、ミストサウナもあるんだよ! 塩も置いてあって、お肌ツルツルになるって!」
ミストサウナ…? 塩…?
「…ミストサウナ」夢さんが反応した。「高温低湿環境とは異なるアプローチでの発汗促進。塩分による浸透圧変化…皮膚及びヒカゲダケへの影響も観察する必要があるな」
もう完全に研究者の顔だ。
(まだまだ知らないサウナの世界がいっぱいあるんだ…!)
私は、今日の体験で少しだけ増した勇気と、新たなサウナへの好奇心で、胸が高鳴るのを感じていた。
(今日はもう、なんだか何でも体験できそうな気がする…かも…?)
私たちの湯けむり探訪は、まだ始まったばかりだ。