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第6話『初めての整い、初めての混乱(ただし内心)』

重厚な木の扉を開けると、むわっとしたドライな熱気が私たちを包み込んだ。木の焼けるような、それでいて心地よい香りが鼻腔をくすぐる。時刻も遅いせいか、先客はまばらで、薄暗い照明の中に、タオルを巻いた男性(失礼、女性だった)が二人ほど、壁にもたれて静かに目を閉じているだけだった。サウナ室特有の、濃密な静寂が支配している。壁の温度計は、きっちり90℃を指していた。


「お邪魔しまーす」

陽子ちゃんが、静かな空間に配慮するように小声で言いながら、慣れた手つきでサウナマットを手に取り、空いている上段へと腰を下ろした。そしてすぐにタオルで口元を覆い、目を閉じる。さすが手慣れたものだ。


私も、陽子ちゃんに倣ってサウナマットを取り、入り口近くの下段にちょこんと座る。

(あ、熱い…! でも、前回みたいに息ができないほどじゃない…かも? 人も少ないし、なんだか落ち着ける…かな?)

前回よりは、ほんの少しだけ心に余裕がある気がした。壁の5分計の砂時計を、そっとひっくり返す。頭の上のキノコ(仮)は、この熱気で少しだけしんなりしているように感じた。


私の少し離れた隣に、小鳥遊 夢さんが音もなく座った。彼女は表情一つ変えず、ジト目で素早く室内全体をスキャンしている。温度計、砂時計、ストーブの石の積み方、壁の木の材質、換気口らしきものの位置、そして先客たちの様子…。もちろん、私の頭のキノコも、その観察対象から外れてはいないようだ。


(夢モノローグ:室内環境データ記録開始。温度90.5℃、湿度推定12%。閉鎖空間における熱伝導及び対流を確認。先客2名、呼吸安定、発汗状態良好。熟練個体と推測。対象A:日陰 静香、前回データと比較し環境への順応傾向あり。心拍数、微増だが安定域。頭頂部生態系『ヒカゲダケ』、高温環境下で水分蒸散によりわずかに萎縮か? 対象B:天道 陽子、入室後速やかにリラックス状態へ移行。迷走神経優位か? 興味深い生態サンプル群だ…)


じりじりとした熱が肌を刺す。じわじわと玉のような汗が噴き出してくる感覚。私は、前回よりスムーズに汗が出てきたことに、少しだけ驚いていた。陽子ちゃんは瞑想しているかのように微動だにしない。

夢さんは…といえば、額にうっすらと汗が滲み始めているものの、表情は全く変わらない。ただ、そのジト目は、何かを計算するように細かく動いている。


(夢モノローグ:…発汗による体温維持メカニズム、正常に機能。エネルギー消費は大きい。だが、この苦行とも言える非生産的な時間の中で、ヒトは何を求め、何を得るというのか…? その解明が今回の調査目的の一つだ)


やがて、陽子ちゃんが静かに目を開け、私たちに目配せをした。砂時計の砂が、ちょうど落ちきったタイミングだった。

私たちは黙って頷き、サウナ室を出る。外のひんやりとした空気が一瞬心地よい。

「かけ湯、しっかりね。汗を流さないと水風呂入れないから」

陽子ちゃんが小声で教えてくれる。私たちは言われた通り、シャワーで丁寧に汗を流した。


そして、いよいよ水風呂へ。

深夜の静かな浴場に、青白い光を反射して、冷たそうな水がたっぷりと張られている。

「ふぅー…」

陽子ちゃんが、まるで温泉にでも浸かるかのように、ゆっくりと、しかし気持ちよさそうに肩まで浸かる。その表情は、まさに至福そのものだ。


(い、いくぞ…!)

私は意を決して、今回は悲鳴を上げずに、そっと水風呂に足を入れた。冷たい! でも、前回ほどの衝撃はない。そのまま、えいっと肩まで浸かる。10秒、15秒…20秒!

(できた…! 前回より全然長く入れた! 冷たいけど…なんだか、体の芯がシャキッとする! 気持ちいい…かも!)

小さな達成感が、冷たさの中でじんわりと広がった。冷水にキュッと縮こまった頭のキノコも、水から上がると、なぜか前よりも少しだけ元気になったように見えた。


さて、問題は夢さんだ。

彼女はかけ湯の後、水風呂の縁に立ち、しばし水面を観察していたが、やがて、表情を変えずに、静かに、しかし躊躇なくザブンと水の中へ入った。肩まで浸かっても、ピクリとも動かない。ただ、ほんの一瞬だけ、彼女の眉がわずかに動いたのを、私は見逃さなかった。

目を閉じた彼女は、まるで精密機械のように、自分自身の身体の変化を感じ取ろうとしているようだった。


(夢モノローグ:水温、体感17.1℃。流動性低。皮膚表面温度、急低下。血管収縮、心拍数一時的上昇…なるほど、これがヒートショックに対する生体防御反応か。交感神経系の強制的な活性化…合理的だが、過激な手法だ。対象Aのヒカゲダケ、収縮後、反発するように弾力を回復…? 特異な反応。そして、私自身の身体も…この衝撃は…不快、ではない…? むしろ…思考が…クリアに…なる…? 非科学的な…)


水風呂から上がり、タオルで丁寧に体を拭く。陽子ちゃんに促され、私たちは脱衣所の一角にある休憩用のベンチに腰を下ろした。深夜だからか、そこには誰もいない。外から流れ込むひんやりとした夜風が、火照った体に心地よい。


「はぁ~~~~~幸せ……」

陽子ちゃんはベンチに深くもたれかかり、目を閉じて完全に脱力している。本当に気持ちよさそうだ。

私も倣って目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。水風呂の冷たさが遠のき、体の芯からぽかぽかとした温かさが広がってくる。心臓のドキドキが、心地よいリズムに変わっていく。そして……


(あ……!)


来た。


(き、来てる……! ふわふわする……頭の中が、シーンとしてて、すごく静かで……キラキラしてて……き、気持ちいい………)


前回よりもはっきりと、そして深く、あの不思議な多幸感が私を包み込んだ。全身の力が抜け、体が宙に浮いているような感覚。自然と口元が緩み、たぶん、自分でも見たことのないような、穏やかな表情になっているのだろう。頭の上のキノコも、その感覚に呼応するように、ふわり、と柔らかな光を放ち始めた気がした。


「あれ? 静香、なんか…雰囲気違う? すごく、いい顔してるじゃん!」

隣から、陽子ちゃんの少し驚いたような声が聞こえた。

私はまだ「整い」の心地よさの中にいて、ぽわーっとしたまま、かろうじて「…え? そう…かな?」と返すのが精一杯だった。


その様子を、少し離れた壁際に体育座りで座っていた夢さんが、ジト目でじっと観察していた。彼女自身も、自分の身体に起こっている妙な浮遊感や思考のクリアさに戸惑いつつ、それ以上に、目の前で明らかに「整って」いる静香(と、確かに微かに発光しているキノコ)の劇的な変化に、強い衝撃と好奇心を覚えていた。


(夢モノローグ:…対象A及びヒカゲダケ、同期して活性化・発光を確認。光度、前回比+50%。表情筋弛緩、瞳孔散大…β-エンドルフィン? オキシトシン? いや、それだけではこの現象は説明がつかない。対象Bも対象Aの変化に気づき、ポジティブな感情反応…興味深い相互作用だ。…そして、私自身のこの…分析不能な浮遊感と静寂感は一体…? 理解不能だ。だが…もっと観察したい。この現象を、解明したい…!)


しばらく、静かな時間が流れた。

やがて、陽子ちゃんがゆっくりと目を開け、満足げにぐーっと伸びをした。

「ん~~~っ! 最高! 体力も全回復って感じ! じゃ、体力も回復したし、2セット目行きますかー!」


まだ整いの余韻に浸っていた私も、陽子ちゃんの声にはっとする。でも、今度は嫌じゃなかった。むしろ…。

(…うん…! もっと、整いたい…!)

私は、自分でも驚くほど前向きな気持ちで頷き、立ち上がった。頭のキノコも、心なしか自信ありげにシャンとしているように見える。


夢さんも、静かに立ち上がった。表情は相変わらずのジト目だが、その奥には、単なる冷静な観察者ではない、未知の現象への探求者のような、静かだが確かな熱が宿り始めていた。


(夢モノローグ:…再現性の検証、及びさらなるパラメータ測定が必須だ。この『サウナ』と『整い』、そして『ヒカゲダケ』の関連性…非常に、興味深い研究テーマだ…)


三者三様の思いを胸に、私たちは再び、あの熱い空間へと続く扉に向かって歩き出した。その先に何が待っているのか、まだ誰も知らない。

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