第5話『三人寄れば文殊の知恵? いいえ、サウナ珍道中です』
「だから、その怪しい緑の液体は何だってば!? 新種の苔でも培養してんの!?」
「…だから、生態系の活性化に関する基礎研究だと説明している。対象Aの過剰な反応は想定外だが、検証自体に問題はない」
「問題大ありだって! 普通、友達(?)にこんな怪しいもの使わないでしょ!」
「…『友達』の定義について、議論の余地がありそうだな」
美術準備室の薄暗がりの中、陽子ちゃんと夢さんの間で、全く噛み合っていない口論(?)が繰り広げられている。さっきまで「緑色のキノコ人間にされる!」と本気で怯えていた私は、なんだかもう状況についていけなくて、ただポカンと二人を見つめていた。頭の上のキノコ(仮)も、わさわさしていたのが嘘のように、今はただ困惑気味に小さく揺れている。
埒が明かないと判断したのだろう、陽子ちゃんが「もーっ!」と頬を膨らませた。
「わかんない! とにかく、こんな薄暗いとこいないで外出るよ! ねっ!」
その声には、有無を言わせぬ太陽の力があった。
「そうだ! サウナ行こ、サウナ! 気分転換! ね、静香!」
突然、私に同意を求めてくる。え、今から!? しかも、このメンバーで!?
「夢ちゃんも、研究(?)なら現場行くのが一番でしょ!」
有無を言わさず、陽子ちゃんは夢さんまで巻き込もうとしている。
私は、夢さんの怪しい検証から逃れられるなら…という安堵感と、正直、昨日のあの「整った」感覚をもう一度味わいたい気持ち、そしてこのカオスな状況から一刻も早く脱出したい気持ちがないまぜになって、気づいたらコクンと小さく頷いてしまっていた。
夢さんは少し眉をひそめたように見えたが、やがて諦めたように(あるいは、新たな好奇心が湧いたのか)言った。
「…分かりました。同行します。対象A及び、その変化要因Xが発生したとされる環境『サウナ』への同行観察。データ収集の効率を考えれば、合理的と判断します」
内心(「…計画外の展開だが、フィールドワークは重要だ。対象Bによるノイズ発生は許容範囲内とみなす…しかないか」)
「やったー! 決まり! じゃ、いざ鶴亀湯へレッツゴー!」
陽子ちゃんは、ぱあっと顔を輝かせると、私の腕と、抵抗する間もない夢さんの腕を(軽くではあるが、しかし確実に)掴んで、カオスと絵の具の匂いが充満する美術準備室から、私たちを引っ張り出した。
***
すっかり暗くなった湯乃川市の道を、私たちは三人で歩いていた。街灯がぽつぽつと道を照らし、開いているお店の明かりが暖かい。昼間の喧騒はもうなく、どこか静かで落ち着いた夜の空気だ。
先頭を行く陽子ちゃんは、さっきまでの勢いを保ったまま、時々振り返っては私や夢さんに話しかけてくる。その後ろを、私と夢さんがトボトボと(私だけ?)ついていく。なんとも奇妙な三人組だ。
(な、なんだかよく分からないけど、助かった…のかな? 美術準備室からは脱出できたけど…これから小鳥遊さんと一緒にサウナ…? しかも陽子ちゃんもいるし…ど、どうしよう…気まずすぎる…絶対また頭のキノコのこと観察される…うぅ…)
私の心は、安堵と新たな不安でいっぱいだった。
「ねーねー夢ちゃんってさー、サウナとか興味ない系でしょ? 見るからにインドア派っぽいし!」
陽子ちゃんが無邪気に夢さんに話しかける。
「…インドア、アウトドアという二元論的分類は、個人の活動領域を限定する短絡的な思考だ」夢さんはジト目のまま、淡々と答える。「私は、必要と判断すれば、アマゾンの奥地であろうと深海であろうと赴く準備はある」
「え、何その壮大な話! ウケる! じゃあ、あの生態系って結局何だったのー? 新種の苔? 静香の頭で光合成でもしてんの?」
「…対象Aの頭頂部に発現する特異事象については、現在データ収集中であり、機密保持の観点から開示は差し控える」
「えー、ケチー! 気になるじゃん!」
(対象B、質問過多。デリカシーという概念の欠如。エネルギー放出が激しい。静かに観察したいのだが…対象Aは完全に精神的負荷を受けている。ヒカゲダケも若干萎縮傾向…記録しておくか)
夢さんの内心が、なぜか少しだけ読めた気がした。…たぶん気のせいだけど。私はますます小さくなって、二人の間を歩いた。
***
やがて、見慣れた(と言ってもまだ数えるほどだけど)「鶴亀湯」の看板が見えてきた。夜の闇に、古風な看板と入り口の裸電球の明かりが、ぼんやりと浮かび上がっている。昼間とはまた違う、どこか秘密基地のような、特別な場所に来たような気分になる。
「ただいまー!」
陽子ちゃんが、暖簾を勢いよくくぐる。私もおそるおそる続く。夢さんも、無言で後に続いた。
番台には、今日も亀山トメおばあちゃんが、背筋を伸ばして静かに座っていた。私たち三人を見ると、特に驚いた様子もなく、穏やかに微笑んでいる…ように見えた。でも、私たちが湯銭を払い、脱衣所へ向かおうとした時、トメおばあちゃんの視線が、すっと夢さんに向けられた気がした。ほんの一瞬、その皺深い目が、何かを確かめるように細められたような…。夢さんも、その視線に気づいたのか、わずかに立ち止まったように見えたが、すぐに表情を変えずに歩き出した。気のせい…だよね?
脱衣所は、昼間と同じ、時間が止まったようなレトロな空間だ。
「よーし脱ぐぞー! 今日も整うぞー!」
陽子ちゃんは、あっという間に服を脱ぎ、タオル一枚の姿になっている。私はまだモタモタと制服のボタンに手をかけている。
夢さんは…といえば、キョロキョロと忙しなく視線を動かしていた。木製のロッカーの木目、鍵の形状、壁に貼られた色褪せた効能書き、天井の扇風機…。ジト目で、あらゆるものを観察し、分析しているようだった。
(…木製ロッカー。平均的な成人女性の肩幅を考慮すると、収納効率は最適とは言えない。鍵、旧式。防犯性は疑問。効能書き、フォント及びデザインから昭和中期のものと推定。扇風機、製造年不明だが、かなりの年代物か…文化的資料としての価値は…?)
また心の声が…(いや、気のせいだってば!)。
ようやく準備ができて、三人で浴場へ。もわっとした湯気が私たちを包む。壁の富士山のタイル絵も、湯気の向こうで幻想的に見える。
「まずはかけ湯だよー! いきなり湯船はダメだからね!」
陽子ちゃんがテキパキとお湯を浴びる。私も、前回よりは少しだけスムーズにかけ湯を済ませる。
夢さんは…というと、シャワーのお湯を手に受け、その温度や水圧、水質(!?)まで確かめているようだった。そして、壁のタイル絵をじーっと見つめている。
(…湯温、約41℃。水圧、やや不安定。水質、特筆すべき点なし。壁画、モチーフは富士山。様式化された表現。作者の意図は、入浴者に精神的な高揚感、あるいは故郷への郷愁を喚起することか…? 効果のほどは不明)
やっぱりこの人、普通じゃない…。
体を洗い終え、いよいよ本番だ。陽子ちゃんが、ニカッと悪戯っぽく笑って、私たちを見た。
「よーし! じゃあ行きますか! メインディッシュ!」
そう言って、浴場の奥にある、重厚な木の扉――サウナ室の入り口へと、私たちを促す。
私もゴクリと唾を飲む。心臓がドキドキする。怖い。怖いけど、昨日のあの「整った」感覚への期待も、確かに胸の中にある。
(こ、今度こそ、ちゃんと整えるかな…? でも、隣に小鳥遊さんがいる状態で、果たしてリラックスできるんだろうか…!?)
頭の上のキノコが、期待と不安でぷるぷると震えているのが、自分でも分かった。
夢さんは、といえば、表情はあくまでクールなジト目のままだったが、その瞳の奥には、未知の高温閉鎖環境への潜入を前にした研究者のような、強い好奇心の色が浮かんでいるように見えた。
(…いよいよ核心部へ。ヒカゲダケ変容の発生源とされる環境。内部の温度、湿度、空気組成、そして対象A・Bの生理的反応を精密に計測、記録する…! これは、私の研究におけるブレイクスルーになるかもしれない…!)
陽子ちゃんが、サウナ室の木の扉に手をかける。
ギィ…と、少しだけ重い音を立てて、扉が開かれようとしていた。
私たち三人の、奇妙で、湯けむりに満ちた時間が、今、始まろうとしていた。