第2話『観察対象Aと頭頂部生態系の不可解な変容、及びその追跡調査』
(…観察記録、午前8時47分。対象A:日陰 静香。定点:湯乃川高校1年B組教室。特記事項:対象頭頂部の共生菌類、仮称『ヒカゲダケ』。昨日比、推定+30%の生命力。色彩光度、フォルムの張力共に向上を確認。要因Xの特定、急務…)
小鳥遊 夢は、丸メガネのレンズ越しに、斜め前の席で教科書の文字を目で追っている(ように見える)少女――日陰 静香――の頭頂部を、ジト目で観察していた。昨日までのそれとは明らかに違う。まるで低画質モードから高画質モードに切り替わったかのように、ヒカゲダケはその存在感を増している。非科学的だ。だが、興味深い。
(…要因Xは、昨日放課後の対象Aの行動にある。高エネルギー生命体、対象B:天道 陽子との接触後、何らかのイベントが発生したと推測するのが妥当か…)
思考の海に沈んでいると、無慈悲なチャイムが鳴り響き、教室がノイズで満たされる。条件反射のように、陽子が静香の席へと吸い寄せられていく。
「静香ーっ! 昨日マジやばかった! あたしさー、帰り道ずっとふわふわしてたもん! 整ったっしょ!?」
太陽光線を浴びた微生物のように、静香はビクッと体を硬直させる。顔が赤い。
(…対象A、外部刺激への過剰反応。しかし…)
夢のジト目が、静香の頭頂部を捉える。ヒカゲダケが、ぷるん、と微かに震え、カサの裏がほんのりピンク色に染まった。
(…ほう。キーワード『トトノウ』に菌類が反応。ポジティブな感情と連動か。記録…)
「やー、マジで鶴亀湯のサウナ、あなどれないわー! あの後の水風呂からの外気浴! もうね、脳汁じゅわーって感じで! ね、静香もそうでしょ!?」
「あ、う、うん…(かろうじて頷く静香)」
「でしょー! これはもう毎日通うしかないっしょ!」
(…キーワード群『サウナ』『ミズブロ』『ガイキヨク』『ツルカメユ』。抽出完了。対象B、もう少し落ち着いてほしいものだ。情報伝達効率が著しく低い…)
放課後。これ以上の定点観測では限界があると判断した夢は、速やかにフェーズ2:追跡調査へと移行することを決定した。幸い、対象Aは今日も対象Bと共に下校ルートについたようだ。夢は息を潜め、壁のシミとなり、電柱の影となり、時には道端の植え込みと一体化しながら、二人の後を追った。
(…対象B、やはりエネルギー効率が悪い歩行フォーム。対する対象Aは省エネだが、頭上のヒカゲダケが時折、嬉しそうに揺れている。…興味深い)
湯乃川市の坂道を下り、少し寂れた湯乃川商店街を抜け、目的の場所らしき古びた木造建築の前で、二人は足を止めた。「鶴亀湯」と書かれた暖簾。
(…ここが現場か。外観…文化財的価値は不明だが、レトロというには少々年季が入りすぎている。機能性は未知数…)
陽子が暖簾の前で静香に向き直る。
「じゃ、私、先入ってるね! 静香も後で来る? それとも今日は帰る?」
静香は何か言いかけたが、結局声にはならず、小さく首を横に振った。
「そっか、OK! 無理せずね! また明日!」
陽子はあっさりとそう言うと、暖簾をくぐろうとした。
その時だった。
「おーい、陽子じゃないか! 日陰もいるのか!」
商店街の方から、ジャージ姿でタオルを首にかけた山田先生が、部活終わりといった様子でやってきた。額には汗が光っている。
「あ、山田てんてー! お疲れ様です! 奇遇ですね!」陽子がパッと笑顔になる。
「おう、お疲れ! これからか? 先生もだ! いやー、今日の部活も汗かいたからなー、早く水風呂に飛び込みたくてウズウズしてるんだよ!」
「わかりますー! 私も今日は絶対整いたくて!」
「よし、じゃあ一緒に入るか!」
山田先生が陽子の肩を軽く叩く。
陽子は、夢の隠れている物陰には全く気づかず、入り口に佇む静香に「じゃあ静香、また明日ねー!」と手を振った。そして、山田先生と一緒に、威勢よく暖簾の向こうへと消えていった。
一人残された静香は、数秒間、閉じた暖簾をぼんやりと見つめていた。その小さな肩が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。暖簾に一歩、足を踏み出しかけたように見えたが、すぐにその足を引っこめる。そして、何かを諦めたように、ぎゅっと唇を結ぶと、くるりと踵を返し、少し俯き加減で来た道をゆっくりと戻り始めた。夕暮れの路地に、小さな影が伸びていく。
(…対象A:日陰 静香は、内部への侵入を最終的に断念。観察結果からは、内部環境への強い興味・関心と、それを上回る何らかの心理的障壁の存在が推測される。興味深い。ヒカゲダケも心なしか萎縮傾向…? 要継続観察)
夢は物陰で静かに息を潜めながら、思考を巡らせていた。
(…対象Aの変化要因Xの発生現場はこの『鶴亀湯』内部でほぼ確定。しかし、内部調査なくして、そのメカニズム解明は不可能。対象A自身の心理的障壁も考慮に入れる必要がある。非合理的な状況だ…)
ジト目の奥に、これまで感じたことのない種類の好奇心の光が、静かに灯り始めていた。
「…潜入、か。それとも、やはり対象Aへの直接接触を試みるべきか…作戦を再考する必要があるな」
夕暮れの空を見上げ、夢は静かに決意を固めるのだった。