第1話『湯けむりシンデレラと整いの魔法』
私、日陰 静香は、自他ともに認める「人見知り界の重鎮」である。クラスメイトの顔と名前が一致するのに新学期から半年かかり、趣味は窓辺での苔の観察と、授業中に練り上げた消しゴムカスによる極小アート制作。日当たりの良い場所と騒がしい場所は基本的に避けて通る、省エネ運転がモットーの女子高生だ。
そんな私の平穏(という名の単調)な日々は、ある日、太陽みたいにギラギラした転校生の登場によって、突如として乱されることになった。
「やっほー! 天道 陽子だよ! みんな、よろしくね!」
教壇で仁王立ちし、満面の笑みでそう言い放った彼女は、髪はキラキラ、爪もキラキラ、持ち物もなんか知らんがキラキラしていた。声はデカいし、動きは機敏。初日からクラスの中心で笑い転げている姿は、私から見れば、さながらエネルギー効率度外視の永久機関のようだった。太陽神アポロンの落とし胤かと本気で疑ったほどだ。静と動、陰と陽、苔と太陽。私と彼女は、水と油、いや、深海魚とジェットスキーくらい違う。関わることなど、未来永劫ないだろうと思っていた。そう、あの日までは。
事件は、雨の日の放課後に起きた。私が校門で、折り畳み傘の骨と格闘している(そして、だいたい負けている)と、背後から例の太陽ボイスが響いたのだ。
「あれ? 静香ちゃんじゃん! 傘、手こずってんの? ってか、その傘、骨、芸術的な方向に曲がってない?」
見れば、天道さんがニカッと笑って立っていた。なぜ私の名前を? 人見知りレーダーが最大警戒レベルで鳴り響く。
「あ、う、うん…ちょっと、反抗期みたいで…」
「ウケる! 反抗期の傘! じゃあさ、私、今日これから『鶴亀湯』って銭湯行くんだけど、一緒に行かない? 雨宿りがてら、あったまろーよ!」
ツルカメユ? せんとう? 私の辞書には存在しない単語だ。しかも、この天道さんと? 無理無理、絶対無理。心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラになる。しかし、私の返事より先に、タイミング良く(悪く?)雷鳴が轟き、雨足がさらに強まった。そして、天道さんは有無を言わさぬ笑顔で私の腕を掴むと、「ほら、行こ行こ! 風邪ひくって!」と、私を白昼(もう夕方だが)堂々、銭湯へと拉致したのである。
連れてこられた「鶴亀湯」は、想像以上に年季の入った、しかし清潔な場所だった。番台には、仙人のようなおばあちゃんが座り、静かに微笑んでいる。脱衣所のロッカーの鍵が、やたらと重い木札だったことに、まずカルチャーショックを受けた。
浴場に入ると、湯気がもうもうと立ち込め、タイル絵の富士山が妙な迫力でこちらを見ている。天道さんは手慣れた様子で体を洗い、「じゃ、静香ちゃん、メインディッシュ行こっか!」と私を誘った。
「メインディッシュ…?」
「サウナだよ、サウナ!」
サウナ。名前は聞いたことがある。熱い箱。それくらいの知識しかない。扉を開けると、むわっとした熱気が襲ってきた。薄暗い室内には、木のベンチが階段状に並び、数人の先客が瞑想するように座っている。なんだか、厳かな雰囲気だ。
「と、とりあえず、ここに座ってみ?」
天道さんに促され、一番下の段にちょこんと座る。じわじわと肌が熱気に炙られる。息苦しい…かもしれない。
「最初は無理しないでね。5分くらいかな? 汗が出てきたら、水風呂!」
「み、水風呂!?」
想像しただけで鳥肌が立つ。無理だ。絶対に。しかし、天道さんは「これがキモなんだって!」と涼しい顔だ。数分後、滝のように汗をかいた私を、彼女は半ば引きずるようにして水風呂へと連行した。
「い、いち、にの、さん!」
掛け声とともに、心臓を鷲掴みにされるような冷たさが全身を襲う。
「ひぃっ!」
情けない悲鳴が出た。10秒も入っていられなかった。
「ぷはー! 最高っしょ?」
「さ、最高…? 死ぬかと思った…」
次に連れていかれたのは、露天スペースにある休憩用の椅子だった。雨は小降りになっていて、ひんやりとした外気が火照った体に心地いい。
「ここで、ぼーっとするの。目を閉じて、深呼吸してごらん」
言われるがままに、目を閉じる。ドクドクと全身で脈打っていた心臓が、次第に落ち着いてくる。さっきまでの熱さと冷たさの記憶が、なんだか遠い出来事のように感じられる。頭の中が、妙に静かだ。あれ? なんだか、体がふわふわするような…?
「…どう? なんか、来た?」
隣で天道さんがニヤニヤしている。
「き、来た…って、何が…?」
「『整う』ってやつだよ」
ととのう?
その瞬間、静香の中で何かが弾けた。脳内で、さっきまでザワザワしていた思考のノイズが、すぅーっと消えていく。代わりに、言葉にならないような、穏やかで、それでいてどこか高揚したような感覚が、全身を包み込んだのだ。まるで、頭の中に小さなプラネタリウムができて、キラキラした星が静かに瞬いているような。毛穴という毛穴が、スタンディングオベーションを送っているような、そんな錯覚さえ覚えた。
「……!!!」
これが…整う…!
私は、その日、人生で初めて「整う」という未知の感覚を知ってしまった。最初は、灼熱地獄と極寒地獄の往復にしか思えなかったサウナが、突如として、至高の体験へと変貌した瞬間だった。
「サウナってのはね」と、休憩中に天道さんが言った。「自分の中の余計なものを汗と一緒に全部流して、空っぽになったところに、ほんとに大事なものだけをそっと置いておく場所なんだよ」
その言葉が、妙に腑に落ちた。
まだ少しふわふわした頭で、静香は脱衣所へと戻った。隣では、陽子が「ね、すごかったでしょ? これから毎週通お!」と興奮気味に話しているが、正直あまり頭に入ってこない。ただ、心地よい疲労感と、今まで感じたことのないような奇妙な幸福感が、全身を支配していた。
ふと、番台に目を向ける。さっきと変わらず、番台のおばあちゃんが静かに座っていた。その視線が、ふとこちらに向けられたような気がした。気のせいかもしれない。でも、その瞬間、静香の頭のてっぺん――いつもは自分でも意識しない場所に、ほんのわずかな変化が起きていた。普段は隠れるように存在していたはずの小さなそれが、今は微かに、しかし確かに、柔らかな光のようなものを帯びているように見えたのだ。
おばあちゃんは、表情一つ変えなかった。ただ、その皺の深い目元が、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、細められたような気がした。その瞳の奥に宿る色は、静香にはまだ、読み解くことができなかった。