裁判‐開始‐
動きがあるまでじっと息を潜めて僕は待っている。するとガチャリと扉が開く音が聞こえた。僕の居る方では無くて、伯爵のいる壁の向こうにある扉だった。
「レーモンドさん。フォルクスさん。どうぞ中へ」
裁判が始まる。それは未知の世界だ。
テレビドラマなんかでは仰々しいシーンが扱われているけど、僕はここに弁護士も無しにやって来てしまった。
大丈夫なのか。医院長の教え通りで大丈夫なんだろうか。
「レーモンド・バティレフさんですね。一番の席に掛けて下さい」
伯爵が部屋に入った都度をわざわざ声に出して伝えるのは、壁越しに控える僕に気遣ってのことなんだろうか。
だとしたらこの薄い仕切り壁も、当事者同士で鉢合わせにしないための物なのか。
しばらくしてから壁から僕が顔を覗かせる。
僕を呼んで待つ裁判官は優しい微笑みで手招きをしてくれていた。
「フォルクス・ティナーさん。今日は裁判長が急用でして、調停会議で執り行うことになったんですよ」
「は、はい……?」
「そんなに緊張しないで。四番の席に掛けてくださいね」
何が何か分からないままで部屋へと誘われる。
そこから見えているのは、入れば逃げられなくなる檻のような場所でも、あのテレビドラマで見かけていた大きな部屋でも無い。
それは特段なんでも無いただの資料庫のような場所だ。備品の箱が隅に寄せられて、スペースを取ったみたいなレイアウトがされていた。
空いた場所の中央には四角いテーブルが一つある。
椅子の背に番号の書かれたテープが貼られていて、僕は四番の席に座った。
目の前には既に着席している従業員がタイプライターを打っている。
その隣は伯爵だ。僕とは絶対に目を合わせたくないらしい。どこか違う方を向いて機嫌の悪そうな顔だった。
これで全員が揃ったと、さっき扉で話した裁判官も席についた。僕の隣にちょんと座ると小話をしだす。
「いやぁ。やっぱり傘を持ってくるべきでしたね。今頃から降ってきましたよ」
確かに窓の外では雨がシトシト降っていた。
だけどそこに目を向けるのは僕だけで、小話で空気が和むなんてことは無さそうだ。
そんな空気感も裁判官には通例通りなんだろう。
気まずさからと言うよりも、時計の針が真上になったから開始の挨拶を始めた。
「では、レーモンド・バティレフさんによる申し立てで、フォルクス・ティナーさんの裁判を始めます。えー、事の成り行きをおさらいしますと、フォルクスさんが精神医としてレーモンドさんのお宅を訪問。で、診断結果にはレーモンドさんから異論があると。えー、ご本人はひどく傷付けられたとし、フォルクスさんの謝罪を求めている。と、そういう話です」
さらさら流れる川の水みたいに早口で話され、経緯はより短くまとめ上げられていた。
僕はもっと型式的な挨拶や作法があったりして、すごく時間がかかるものだと思っていた。ところが挨拶はほんの一言で終わりだ。
経緯もこんなに速やかに人に言われてみると、全然大した事じゃないみたいに思える。
たぶん裁判官からしてみれば大したことじゃ無いんだろうと想像するけども。あまりにも業務的過ぎて若干物足りなさを感じるのは何故なんだ。
「えー正直、我々は和解を望んでいますが、レーモンドさんとフォルクスさんの歩み寄り無しではならない結果です。その点をご理解くださいね。よろしいですか?」
裁判官が僕に目を向ける。
「は、はい」
答える番なのかと思って僕は言った。
それはどうやら正解だったらしい。次に「レーモンドさんは?」とそっちに話が向けられた。
ずっと怪訝な顔をしていた伯爵が静かに口を開く。
「誰に話している。私には『様』を付けろ」
僕はうわぁ、と思ったけど、裁判官は動じていない。
「レーモンドさん? この席だけはどんな方でも同等です。身分も除外されますのでご理解をお願いしますね」
優しく諭す一方で、タイプライターは絶えずに音を鳴らしていた。
何を書いているのかは誰にも見えないようにしてあるけど、たぶん注意した内容なんかが詳細に書かれているんだろう。
きっとあの書類に多く書き込まれた方が不利なんだと思う。
やっぱり「はい」か「いいえ」で答えるのが一番無難で安全なのかもしれない。
「死刑だ! 私を侮辱した男が生きているというだけで私は飯もろくに食えん!」
「レーモンドさん。調停ではそんな重い罰は与えられませんよ」
伯爵は和解を打破すべく一番大きな声を出していた。
裁判官は相変わらず穏やかな口調で叱っていた。
患者でもたまに、もうすぐ死ぬと大声で告げてくる人がいる。僕はそんな人が苦手で、対処に困ってしまうと顔に出てしまうタイプだ。
だからここでは裁判官の冷静な対応能力を見習いたい。でももちろん僕自身が精神的に健康だったらの話だけども。
「フォルクスさんは本当に正しい診断をされたんですね?」
「は、はい……」
「自信がありませんか?」
裁判官に顔を覗かれて、僕は思わず目線を逸らしてしまった。
「フォルクスさんの見解は、軽度の記憶障害、軽度の末端の震え、軽度の禁断症状でしたよね。こんなに『軽度』の症状で判断に至るケースもあるのですか?」
「はい……一応あります……」
医院長のアドバイスを忠実に守りたい僕であっても、たまに要らない発言のせいでタイプライターの手を大目に動かしてしまうこともある。
「そうですか。まあ仕事上、結果を出さなければならない事情というのもあります。フォルクスさんの診断内容については専門家の分野に入りますので、ここでは『誤診であった』という見方は省いておくものにしましょう」
これに僕はうんと頷くだけに終わる。
僕も伯爵の地位が取り消されるのと同じだ。医師としてのキャリアをゼロにされたようなものだった。
あくまでも事実確認で話しかけられているだけなのに、何故だか全てが僕の誤った判断と行動だったんじゃないかと陥った。
もう僕の誤診で解放されるならそれでも良いと思う。
だけどやっぱり、それで牢獄暮らしになるのは後々後悔しそうだ。
「……」
だからと言ってここで手を上げて意見を述べるのも勇気が無い。
(((次話は明日17時に投稿します
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