もう疲れてしまった
「全ての準備は整ってあるはず」その言葉がずっと頭の中でぐるぐると回っている。……準備。何の準備だって、言わずとも戦争を開始するための準備だよな。
スティラン・トリス、政府教会協定。どちらも僕が絡んでいた。それからどちららも丸く収まってよかったと落ち着いた記憶がある。
トリスさんの本は本人に帰り、ご友人と話し合えて、セルジオで医者業をしていた姿が印象にあった。アルゼレアの念願が叶って万々歳くらいの達成感があったと思う。
政府教会協定はつい最近だ。アルゼレアと僕が苦労したなんてことを世間は知らないけど、政府と教会が手を取り合うっていう目出度い話題で持ちきりになっている。
「……準備」
僕が準備を手伝ったってことになる? そう思うと、僕の記憶から浮かび上がってくるものは和やかなムード以外のものになった。
殺人鬼を祖母に持つ生物兵器の開発者の言われ。神殿地下での教皇と王族様の密会。トリスさんの研究論書は危険だと諭したベンジャミンさんや、ゼノバ教皇の裏の顔を示唆したラファエルさんの顔も浮かんだ。
引き返せる場面はたくさんあったはずだ。どうしてどれも素通りして来てしまったんだろう。気が付けば、僕の求める普通の生活は遠のいているように感じてしまう。……いや、そんなぬるいものじゃないのかもしれない。
ただいまと言わずに僕は家の中に帰る。どれだけ僕が遠回りをして帰ったのか思い出せない。だけど外はもう夜だった。なのに家の中に電気がついていた。同居人とはリビングですぐに顔が合う。
「腹へった~」
そいつも、おかえり。とは言わない。僕が机にカバンを置く間も、ジャッジは「暇だ」とか「つまらない」とかを言っている。キッチンの洗い場には食べ終わった後のプラスチック容器が適当に置かれていた。
それらを片付ける前に顔を洗おうと洗面台に向かったら、シャワールームが濡れていて換気扇のスイッチが入っていない。家にいてもリラックス出来ないから僕が日中外に出ているせいで、洗濯物も山になって溜まっている。
こんな暮らしが僕の理想だったっけ。知らないうちに荒れていく生活模様を見つつ、違うよねと僕は自分でまだ気付けている。
「なあ、この家壁薄くね? 結構寒いんだけど」
リビングから僕の方に声を届かせてきた。僕の返事が無いと「なあ」と呼びかけて「聞いてる? 無視かよ」と言う。
僕は洗面台の水を出さずにボーッと立っていたんだ。だけど、僕の中で何かが起こった。張りっぱなしだった弓糸がプツンと切れるより、それはまるで洗面器の排水口からブワッと泡が吹き出してくるのに近い。
「お前のせいじゃん……」
ぶくぶくと洗面器から溢れて来るかのよう。
もうたまらなくなって急いでリビングに駆け戻る。呑気でいるジャッジに正面を合わせる。
「お前のせいで大変なことになっているんだぞ!!」
「なに? 大変なこと?」
「戦争が起こるんだ! お前が失くしたっていう鍵も何かのきっかけになるんじゃないのか!?」
しかしジャッジはヘラヘラと笑った。
「なになに? どういうこと?」
「今日、首脳会議で話し合いがあったんだ!」
「会議ぃ? それにお前が呼ばれたって? どんな夢見てんのか知らねえけど、自分の立場を理解した方がいいぜ。ああいう世界の人間は生まれからして違うんだ」
分からず屋の得意気は続く。
「まあ、俺ほどの顔の広さがあれば、ちょっとしたコネで楽々昇進も夢じゃ無いけどな。でかい恩でも売っておきゃあ後はエスカレーター式でエリート街道を歩けるってわけさ」
それで鼻を高くしてワッハッハと笑っている。僕は「笑うなよ」と告げることが、友人として出来る最後の優しさだった。それでもジャッジは絶えず笑うし、僕が生真面目な顔をしているとバカにした。
「こんな安っちいマンションなんて目じゃないぜ」そうも言った。
「……じゃあ、出ていきなよ」
愉快そうだったジャッジがヘンテコな顔になる。
「その時が来たらな」
「僕はもうお前に巻き込まれるのはごめんだ」
「巻き込まれる? 何の話だよ」
思い返せばアスタリカに来たのが間違いだった。そもそも住んでいた場所を出なくちゃならなくなったのがいけない。だとしたら厄災は厄災だろう。
「レーモンド伯爵を紹介したのはお前だ」
「……え? なに、まだ根に持ってるわけ?」
そうじゃないと僕は熱弁する。だけど全部ジャッジのせいだって言いつける。今まで起こった全てはこの厄災のせいだって、ようやく気付けたし踏ん切りがつけられそうだった。
「ちょっと待てよ」とジャッジ。それで厄災が喋ったのは間違いだらけだった。僕がアルゼレアと関わったこと、彼女を探してセルジオの車に乗り、本を解読してトリスさんを探して連れ出したことまで、僕はジャッジと協力していたと言うんだ。
今ここにジャッジを匿っているのも、ずっと縁が続いていると彼は本気で信じていたみたいだ。何故なら……。
「友達なんだしさ」
そうだよ。僕はそれを聞くたびに、何か違うような気がずっとしていたのに。
「……友達じゃないよ」
僕の後悔を悟ったのか、ヘラヘラしていたジャッジが少し真面目な顔を作った。
「お前な。自分の不幸を人のせいにするなよ。それが大人ってもんだぜ?」
「……」
テレビもついていない静かな部屋。僕らが黙ったらどこかの部屋のドアが開閉される音がよく聞こえる。「やっぱり壁が薄いわ」なんて奴は今言えてしまう。僕はジャッジと違って話を逸らすことが出来ない。
「そっか。確かに人のせいにするのは違うよね。分かったよ。僕が出て行く」
仕事服と生活用品。一度カバンに詰めていたものだから、すぐに支度は出来上がる。あとは玄関の扉を開けたら雨の匂いがして傘を持った。さすがに同居人は焦ったらしい。
「け、警察に通報したりしないよな!?」
「しない。大家さんには僕から話しておくから。家賃はいらないけど光熱費だけはちゃんと払った方が良いよ。じゃあ、お元気で」
僕はドアを閉める。追いかけて来られるのも嫌だから足早に階段を駆け降りる。窓から見下ろされるのも癪だから建物の陰に入る道へ行く。
傘を持って来たけど雨は降り止んだ後みたいだった。もう夜だしフェリーに乗るには明日の朝まで過ごさなくちゃいけないな。
今晩泊まるところを探した方が良いとは分かっていても僕は足を止められない。何も食べていないけど食欲はよく分からない。美味しい匂いがしてきたとしたら、面倒だなって思って逃げていた。
大通りは人が多くてうるさいし、光が多くて眩しいし、看板の文字にも指図されたくない気持ちだ。横道に入って電灯がポツポツあるだけの場所でも急ぎ足になった。
一体僕は何に追われているんだよ。と、自分で自分が滑稽に思えたところでようやく一度立ち止まった。
「ここ、どこ?」
知らない住宅街だった。でも大通りとは並行しているみたいだ。交差点になると、横切る道には眩しい光が照らされていて色が違っている。
大通りの気配が感じられる交差点では車や人の声と音が嫌になる。だから僕はビルの陰から出られなくなっている。来た道を少し引き返したらそこに公園があった。
街灯が足りない公園だったけど、なんだか暗い場所に入っていきたい気持ちだったんだ。きっと僕はもう疲れてしまった。
(((次話は明日17時に投稿します
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