最悪な事態に……ならなかった?
ロウェルディ大臣の顔はピクリとも動かない。若い女性が近づいても何も感じなく、得体の分からない本を向けられたってすぐに受け取ろうとせずに疑り深かった。
「この本をマーカスさんから渡して欲しいと言われました」
じっと睨め付ける目が本とアルゼレアを交互に行き交う。それから一言「本?」と、最後の確認をしたみたい。アルゼレアがこくりと頷くと、ようやく大臣はそれを手に取ってくれた。
しかしページをめくって早々。大臣は鼻で笑っている。
「オソードか。意味深だな。そろそろ宣戦布告だとでも伝えてきたか」
物騒な言葉でおののく僕とは違ってアルゼレアが勇敢だ。彼女は一歩前に出てロウェルディ大臣に正面から向いていた。
「あの。オソードって何ですか?」
大臣が本から顔を上げてアルゼレアを見る。
「うん? この本のことを知らんのか」
「知りません」
書斎机から僕の方にも大臣の目が光った。
「君もか」
「は、はい。僕も知りません」
ううむ、と大臣が唸る。
「下らん神話だよ。この土地に住むエルシーズらが大昔から教訓として掲げている物語だ。これをヤツが私に渡してきたということは意味があるはずなんだが。聞いていないのかね?」
キラリと光る目には答えられない。僕もアルゼレアも首を振るだけ。だって本当に何にも伝えられていないんだもの。
「僕たち、あなたが疑われているようなセルジオとの関係は何もありません」
すると大臣は驚いたようだった。力の入っていた肩を落として眉間も解かれた。
「マーカスという男は常々何を考えているのか掴めない奴だ……。君らが知らないものは仕方のないことだとして済ませるしかないか」
こちらにも自分にも言い聞かせたようにして、大臣はメガネを外していた。それをきっかけに眼光の鋭さが優しくなるし、客人への当たりも穏やかになる。
どうやら僕らがマーカスさんと浅い絡みだったという事が救ってくれたみたい。気を張るのをやめた大臣であれば、本を弄びながらでも僕らに語る事もしてくれた。
「太古の時代に創造神エルサを崇める国家が栄えていてな。争いと衰退を繰り返してカイロニア王国になり、英雄アスタリカの渡航と攻略によってその権威を奪った。それが現在のアスタリカ帝国に至る。ところでそのエルサ神を祀る民らのことをエルシーズと呼ぶ。彼らは旧カイロニア国家をアスタリカの色で塗り潰しても途切れるごとが無い。それが宗教というものだ。大臣でも王様でも規制を加えることが難しいものでね」
おっ、と大臣はオソードを見つめて何かに気付いた。書斎机の引き出しから何かを取り出したかと思ったらペーパーナイフだった。
「まあ要するに、私も君たちもエルシーズじゃない。いわばこの地における部外者。観光客と同じだよ。なのでオソードという物語がどんなに大切かなんて、分かるはずがないということが言いたい」
語ったことの証明をするかのようなタイミングで、ロウェルディ大臣は本の表紙にナイフを刺した。中央からではなく、表紙の皮を剥ぐようにして細く切り込みを入れているようだった。
アルゼレアにとっては叫びたくなる思いだろう。しかしそんな表紙の隙間から大臣が白い封筒を取り出したものだから、僕もアルゼレアも止めそびれた。
「貴族ではこういうやりとりがあったらしい。驚いたかね?」
「は、はい……。手品みたいです」
これには初めて大臣が鼻で短く笑った。封筒の中身は手紙で「マーカスからだ」とだけ教えてくれる。内容を音読するわけじゃない。
僕は「なるほどな」と大臣が言うのを聞き、決して穏やかじゃない雰囲気を感じ取ることだけが出来た。すっごくすっごく嫌な予感がするってやつかも。
「アルゼレア、そろそろ行こうか」
「そうですね」
渡すものも渡せたわけだし。僕らは用が済んだらすぐに帰るべきだ。
「待ちなさい。君たち」
しかし引き止められた。ロウェルディ大臣は手紙から目を離さず続けた。
「君たち二人が何でも私の頼み事を聞いてくれると綴ってあるが?」
「え?」
とはいえ手紙を見せてくれるわけでもなかった。
手紙を外すとキラッと光るような目線でじっくりと眺められている。そして本だけはアルゼレアの手に返していた。アルゼレアは真っ先に切れ込みの具合を確かめていた。
大臣に抵抗したい姿勢を向けるのは僕だけで。
「そんな。大臣のご期待には添えません。ただの観光客なので」
「なるほど観光客か。ううむ……使えそうだな」
悲しくも、丁度良いとの見解を与えてしまうことになる。
腕を組んで悩んでいたロウェルディ大臣。ようやく頼み事が決まったみたいで「では告げよう」と、仰々しく声を響かせた。
「六番街の真ん中あたりに新しい菓子屋が出来たんだ。そこのカスタードシューとシナモンロールを買ってきて欲しい」
あらゆる最悪の状況を頭に浮かべて、死にたくない! なんてことも願った僕だった。それが何だった?
「なんだ。聞こえなかったか?」
「い、いいえ。聞こえました。カスタードシューとシナモンロール……」
「六番街だ。似たような店はたくさんあるが、シルキーバニーの二号店で間違えないでくれよ? 限定のメニューなんだ。行列は必須だぞ。くれぐれも開店待ちから並ぶように」
意気揚々と告げられた。出会って今までで一番良い表情だ。美味しいものを想像すると人は笑顔が溢れるらしい。
「は、はい。わかりました……」
そんなので良いのか。というのは正直な感想だった。僕はてっきり逃げたり追われたり狙われたりの日々がまた繰り返されるものだと。
「意外だった、と言いたげだな。若い衆にはスリルが足りなかったか? しかしあいにく私は、セルジオ派遣の者をうっかり信用してしまうようなことはしないので」
そして去り際にはこう言われた。
「アスタリカ観光を堪能したのち自分の場所に帰るといい」
ありがたい心遣いにも思える。是非その通りにさせてもらおう。