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あの頃の香りがした1

 天気予報と外れて雲が耐えきれずに雨を降らせていた。

 それがスーパーマーケットを出たすぐだったら何とかなっただろうけど、もう閑静な住宅街に入ってからのことだった。

 人の家を訪ねるのにずぶ濡れというわけにはいかないだろう。僕は必死に走って赤屋根の新しめなお宅へ駆け込んだ。

 玄関ポーチの屋根に入った頃には本降りだ。

 ドアベルを鳴らす前にできる限り水気を払ったつもりだったけど、扉を開けたリサの手にはもうタオルが用意されていた。

 この日も玄関に男性用の靴が置かれていない。それにアルゼレアの靴も無いみたいだ。

 あんまり出入りに慣れてはいけないと思いながら、この家の甘い花のような香りも嫌じゃなくなってきた。

 もうリサの先導なしでキッチンとリビングに顔を出せる僕は、いったいここでは何者なんだか。

 リサがキッチン周りの片付けをするにあたり、リビングのテーブルからティーカップを下げている。

「お客さん?」

「ええ」

 けれどもう帰ったみたいだ。

 他所の事情を詮索したくは無い。キッチンで水が調子良く流れる音を聞きつつ、僕はアルゼレアがどこに行ったのかと聞いた。

「本を受け取りに行ったわ。さっきその事務所の人が来たのよ」

 洗い物をしながらリサは背中で言う。

 僕は、そっかと思って、一度はソファーに浅く座った。でもやっぱり落ち着けなくって再び立ち上がる。

 外も通り雨みたいでそろそろ止むかもしれないと思った。

 すると窓辺の僕にリサが問い掛けた。

「出掛けるの?」

 言われた時は正直まだ行こうと決めていたわけじゃなかった。

 僕は外の天気の具合を見て悩んでいたけど、もう既に雨に濡れているわけだし出掛ける方向で意思が定まる。

「そうだね。ちょっと追いかけてみるよ」

 せっかくやって来たけど、休む間もなく来た導線を引き返して僕は玄関へ向かった。

 しかしリサはそんな僕を「ちょっと待って」と呼び止める。

 忘れ物でもしたかと思い、単純に足を止めて振り返る僕だ。そこへ彼女は飛び込んだ。

 つんのめって転んだのだと見間違う。

 リサは意図的に腕を回して僕に抱き付いたんだった。

「ティナー。行かないで。お願い」

 その理由に突然そんなことを言った。同時に彼女の強い思いが指先に力を入れた。

 側に彼女が触れたことで、甘い花のような香りじゃなくて爽やかな石鹸のような香りが僕に染み付く。

 それは一気に記憶を昔に戻す効力があった。この周りの風景を、知人の家じゃなく大学の一室に変えてしまうくらいのものだ。

 よって僕の心をかなり締め付けている。

「……どうしたの」

「そばに居て。今もあなたが好きなの」

 困った僕はとりあえず「座って話す?」と提案した。でも今すぐ答えが欲しいとの要望だ。ますます僕は困ってしまう。

 彼女を傷付けない言葉を探すうち、必ず彼女の婚姻の印がある手が思い出された。

 サッと隠した仕草もだ。その時、きっと何かあったんだろうと何となく伝わっていた。けど僕が関わったら迷惑をかけることになる。

「君の気持ちには応えられないよ」

 だからそう答える。

 僕はリサに気付かれないようこの家の匂いを吸い込んでいる。花のような甘い香り。それは僕の知らない彼女の香りなんだ。

 リサは痛みに耐えるように指先にグッと力を入れた。

「あの子なら帰って来ないわ。本と一緒にアスタリカへ戻るのよ。ティナー、あなたまで道連れになる必要なんて無いじゃない」

 悲痛な思いと一緒にリサは涙声だった。アルゼレアか、もしくは事務所の人から聞いたんだろう。

「そんなにあの子が良いの?」

 リサは僕から身を離してこの目を見つめる。そして消え入りそうな声で「私よりも?」と聞いた。

 潤んだ瞳から涙がポロポロこぼれていくように、外でも雨足は強まっていくようだった。

「ごめんね」

 リサのことはすごく好きだった。

 でもやっぱり僕は彼女の慰め役にはなれない。

「そういうのじゃないんだけど、僕はアルゼレアの近くに居たい」

「……分かったわ」

 涙を拭うリサに、僕は側にあったティッシュを取って手渡す。

 鼻を噛む姿を見届けていたら、そういえばと僕は思い出した。

「あの書斎は旦那さんの部屋なのかと思っていたけど君のだったんだね。本棚に大事な本をまとめてあっただろう。大学時代の教科書もそこにあった」

 大事なものを見られたことを恥ずかしがってリサは少しはにかんだ。

「そうよ。唯一あなたのもとへ戻れる綱だった。一生手放せるはずがないわ」

「うん、そっか。僕はちょっと嬉しかったよ」

 へへっと僕が笑うと肩を小突かれた。わりと強く。

「振った上でそんなこと言わないでよ」

 ティッシュで顔を隠しながらリサが笑って言う。

 僕もごめんと謝りながら一緒になって笑っていた。学生時代だって僕はこんな風に彼女に謝ってばかりだったな。と、ふと思い出していた。

 和やかな雰囲気だと思っていたのに、笑顔だったリサからまた何故か大量の涙が溢れてきて大泣きだ。

「えっ、な、なんで!?」

「大丈夫、泣いてないわ」

 そう言いながら笑っていて、目からポロポロ落ちる涙が止まっていない。

 女の人っていうのは本当に難しい。泣いたり笑ったりをコロコロと繰り返すし、笑いながら泣いたり、泣きながら笑ったりする。


 じゃあ行くね、と大雨の中へ飛び出すと、再びリサは「待って」と呼んだ。

 そして彼女も大雨の中に入って僕に傘を持たせる。

「アルゼレアさんも濡れているかもしれない。急いであげて!」

 この天気に合わない陽だまりのような優しい笑顔だった。

「ありがとう」

 どうかお幸せに。

 密かにその想いを胸に仕舞う。

 受け取った一本の傘を開いたら僕は大雨の中をずっと走っていた。


(((次話は明日17時に投稿します


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