逃げた先は
街から離れた田舎の方。車から降りると冷たい風が吹き抜けるとともに、電灯一本の灯り以外が真っ暗なことに驚かされる。
「ありがとうございました」
僕からお礼を告げるとタクシーが闇の中へ消えて行ってしまった。
車内で行き先の変更をお願いしたんだけど、着いた場所は間違ったところじゃないのかと僕は思っていた。
だけどアルゼレアは僕の袖を少し引いてくる。
「こっちです」
電灯を背にして暗がりの道を歩いて行った。
「川があるので気をつけてください」
確かに近くから水のせせらぎが聞こえている。
袖を引かれるままアルゼレアの後ろにピッタリ付いて橋を渡った。こんな真っ暗で助言なしに進んでいたとしたら転落必須だったと思う。
闇に目が慣れてきた頃、畑の合間にポツポツと民家が現れていた。ここはアルゼレアが告げた住所だ。
「誰の家に行くの?」
聞いたけどアルゼレアの家以外は浮かんでいなかった。
「兄の家があるんです」
「え。お兄さん?」
寒さで急ぐ足はそのままだけど、僕がとんでもない衝撃を受けていたことは確かだ。
だってこれからアルゼレアのお兄さんに会うなんて、もちろん思ってもいなかったわけだから。心の準備が整うはずがない。
こんな夜遅くに? 妹さんを連れた見知らぬ男が? 手土産も無しで? いったいどう会えって言うんだ。
僕は柄にもなく「マジか……」と呟いたような気がする。
断って引き返すにしたって、こんな夜道を女の子ひとりにさせるのは大人として出来ない話だ。
……そうか。アルゼレアさんを家まで送りました。って言えば良いんだな。別にやましい事は無いんだからそれが真実だ。
おそらくお兄さんの家だろう建物が見え始めている。普通に立派なカントリーハウスだった。
一人暮らしにしては広いと感じた時。お兄さんの家族も暮らしている可能性に気付く。
……よし。お茶でも飲みましょうなんてお誘いをいただいても、この後用があることにして断ろう。
僕の決心がついた。その頃僕らはカントリーハウスの玄関前に立っていた。
これで心の準備が整ったのかと言えばそうじゃなくて、僕の心臓は張り裂けそうで苦しいばかりだった。
アルゼレアが客人らしくドアベルを鳴らす。彼女の実家だったという一番の期待はそこでやっぱり外される。
中で人が動いて、ついに内鍵が開けられた。
「はいー」
柔らかな高めの男声とともに少し丸みのある顔が出てくる。お兄さんは……っていうかお兄さんって呼んでいいのか。
彼は、急な来客にも怪訝そうにしない人だった。そして尋ね人が妹だって瞬時に分かると途端に表情を明るくした。
「アル! 連絡も無しに来るなんてどうしたんだい!」
アルゼレアのことをアルと親しく呼んでいる。兄妹だからだな。驚いてはいたけど嬉しそうに、さっそく中に入りなよと扉の中へ招いていた。
さあ次は僕の顔に目がいく番だ。
「ん?」
穏やかだった表情が一瞬にして凍りつく。キョトンとして僕を上から下まで見回した。
「は、はじめまして。私はアルゼリアさんを」
そこでバタンと扉が閉まった。
アルゼレアはそれまでに家の中に入っていたようだ。つまり外に取り残されたのは僕だけだってことになった。
お茶に誘われるどころか言い訳の必要も無いということだ。
引き返すなら今がチャンスに思えるけど、扉の奥ではたぶんアルゼレア兄妹が僕のことで言い合っている。若干口論みたいになって外まで漏れ出ていた。
僕からもう一度ドアベルを鳴らした方が良いんだろうか。真冬の夜に凍えていたら、もう一度その扉は内側から開かれる。
一人暮らしにしては家具も家電も揃った家の中。言われるままにしか出来なくて僕はダイニングテーブルに座っている。
席を立つのも足を組むのも躊躇っていて、視線を動かしてあらゆるところを観察するしかなかった。
「今ちょうど妻が修行中でね。寂しい時期なんだ。お客さんが来てくれて嬉しいよ」
「ああ、そうなんですね」
見えないけどキッチンから声を掛けられている。
僕は分かったような返事を送っているけど、奥さんの修行っていうのは何のことなのかさっぱり分らない。
結婚されているのか、と分かったところで、リビングの壁の棚にフォトスタンドを見つけた。それがたぶん奥さんとお子さんの三人の写真なんだと思う。
でもこういう時、話題に家族のことを出して良いのかも分からない。もしかしたら以前働いていた病院の医院長みたいに訳アリな可能性もあるし。
とにかくアルゼレアが戻ってきてくれたら、いくらか気持ちが軽くなりそうなんだけど、彼女はここに居なかった。
「フォルクスさんって言ったっけ?」
「は、はい」
「僕はクオフ。よろしくね」
クオフさんの居るキッチンからコーヒーの香りが漂った。そしてダイニングテーブルに運ばれてきた。
僕は砂糖もミルクも入れずに頂き、クオフさんも僕の前に座って、砂糖とミルクをたくさん入れたものを飲んでいた。
「ごめんね。びっくりしちゃったもんだから、つい」
苦笑いしながら言うのは玄関で僕を閉め出したことだ。
僕も肩をすくめた。
「いえ、無理もないです。私も年の離れた妹がいるのでお気持ちは分かります」
「そうなの? じゃあ話は早いや……」
かすかな微笑みを保ったままクオフさんはコップを置いた。
「どういう関係なのかな?」
「……」
クオフさんが笑っているようで笑っていないのが、ひしひしと伝わってくる。
怒ってはいないけど。怒るに近い気持ちなんだと感じざるおえない。
「何の関係もありません」と……言いたいのを飲み込んで。ちゃんと丁寧に伝えなくちゃなと僕から姿勢を正すと、つられてクオフさんも姿勢を正していた。
「アスタリカに渡るフェリーで一緒でして。それから色々あって」
「うん。アルから聞いたよ。フォルクスさんが妹をナンパしてくれたのかって」
「違います!」
断じてそれだけは違うと説得した。
「歳下は恋愛対象に入らない」とか「タイプじゃない」とか、そういう問題じゃない。僕が健全であり、彼女もまた健全であるということをしっかりと話す。
それは僕とクオフさんのカップが冷めて、すっかりアイスコーヒーになるまで……。
未婚で彼女のいない僕がこれまで勉学や仕事に注力してきた経緯を話したら、クオフさんは「真面目じゃないか」と嬉しそうに前のめりになった。
でも僕は、それもそれで何か別の意味にすり替わったんじゃ無いかって感じていた。
「いやぁ、ごめんごめん。別に疑うつもりじゃなかったんだよ。びっくりしちゃったから、ついね?」
誤解が解けたら二人でハハハと笑い合いながら、やっとアイスコーヒーに口を付けた。
「冷めちゃったね。温っためてこよっか?」
「いえいえ、大丈夫です」
クオフさんは「そう?」とだけ言って自分のカップを持ってキッチンに戻って行った。何かガチャガチャ鳴った後、レンジが回り出す音がする。
するとそこへずっと不在だったアルゼレアが戻ってきた。彼女は部屋着に着替えて濡れた髪をタオルで巻いていた。
なんとなく、女の子の普段の姿を目の当たりにすると僕は目を逸らしている。
別にお風呂上がりだからって変なことを考えてじゃない。家の中の姿を客人にはあまり見られたくない気がしたからだ。
アルゼレアの方もまさかダイニングに僕が居るなんて思わなかったみたいだ。一度目が合っただけで足早に二階へと上がって行ってしまう。
それにもしかしたら、彼女がいつもの手袋をしていなかったというのも理由だったかもしれない。
すっかり見慣れてしまったけど、手袋をはめた少女というのも珍しいよな……。
「……本当に変わった子だ」
ぼーっとしていた。ふと目の前でにっこり微笑むクオフさんに気付く。
熱々のホットコーヒーに戻ったカップを片手に持って着席していた。
「フォルクスさんもお風呂どうぞ」
「えっ。いやいや、僕はこれで」
それこそ断らないとと張り切る。
「寝る部屋も準備してあるから」
クオフさんは念押しした。こんな時間だともうバスは走っていないし、タクシーも捕まらないよと、獲物は逃さない並のダークな物言いで僕に迫った。
苦笑しながら鳩時計をチラリと見るけど、そう遅くない時間を示している。まだ他に断り文句なら幾つか浮かびだせそうだった。
「そういえば、フォルクスさんはお医者さんなんだって?」
「あ……はい。精神系ですけど……」
「すごいねー。じゃあもう将来は安泰だ」
ひとしきり話は終わったと思っていたけど、僕の意思とは反してまた再熱していく。
そのうちにクオフさんは「もう一杯飲むよね?」と、コーヒーを入れたポットをテーブルに運んできた。
僕はアルゼレアのお兄さんに捕まってしまった。
このまま夜が遅くなるまで話し込んで、どうしてかすっかり世話になってしまう。
そして何より。実は免停をくらっているという事実を言いそびれた事だけが悔やまれた。でも、あの時のアルゼレアのお兄さんには到底言える気もしなかった。
(((次話は明日17時に投稿します
Twitter →kusakabe_write
Instagram →kusakabe_natsuho