エシュの間へ
「はあ……はあ……」
とにかく動けないようにはできたかな。でもゼノバ教皇は頭を強打したんだ。それによって全然動いてなんかいない。ようやく医者魂でも働いて、無意識的に教皇の無事を確認しなくちゃと思い立った。
いや、待って。そうだ。エリシュの身が心配だ。こんなに多量の出血があったらきっと相当……。
「はあ……うう」
ダメだ。冷静になってくると途端に周りのものがしっかりと見えてくる。僕の手の色でさえ、さっきネクタイを取り上げた時から染まっている。
重症者を助けられそうにない上に、もしかしたら僕が殺人鬼になってしまうかもと不安もよぎって胸が気持ち悪くなってしまう。一旦座って呼吸を整えなくちゃ……。
「……そうだ。アルゼレアだ」
僕が彼女を振り返った時には、ちょっと体を押さえながら上体を起こしていた。
「ごめん。大丈夫?」
そう声をかけるけど駆け寄ってあげられない。あの時の夢みたいに、まるで船の上にいるようで体ごと揺れているみたいなんだ。心臓が波打つのと連動して大波が僕を揺さぶっている感じ。
「はい、大丈夫です」
「そっか。よかった……」
アルゼレアは幸いどこも撃たれてはいないみたい。僕によって倒された時に打ったところが痛んでいるだけだと言った。
そういえば僕が構えていた銃はどうなったのか。部屋を見回すと、遠く離れた戸棚の足元に転がっている。錯乱状態にいた僕は多分それどころじゃなくって、途中で銃を投げ捨てたんだろう。本当にいつも格好の付かない男だな、僕は。
「フォルクスさん」
自分で自分に呆れているところにアルゼレアの低い声が掛けられる。見ると相当怒っているようで睨まれていた。むしろ軽蔑にも似ていた。
「あ、アルゼレア……ごめん。失望したよね」
焦って動揺しまくる男、恋人を硬い床に張り倒す男、人質みたいに人を縛り上げる男、銃を人に構える男……うん。全部最低だ。加えて具合も悪くてどうしようもない。
無表情よりも怖い顔でじりじりとアルゼレアが近付いてくる。罵倒されるのか、ビンタでもされるのか。どうか嫌わないでと祈るのも忘れていた。
僕の目の前で彼女が足を止めると、同じ高さに腰を下ろしている。スッと黒い手が振り上げられると、怖さのあまりに僕は目をつぶってしまっていた。歯を食いしばって目頭に力を入れていた。
そしてやっぱり僕の頭に彼女の手が当てられる。頭頂部よりもおでこの辺り。トンと置いて、サラサラと動かされていた。
柔らかい手つきに、何か埃でもさらわれているのかと思った。だけど結構長いので、おずおずと目を開けてみる。これはたぶん……僕はどうしてかアルゼレアに頭を撫でられているんだと思う……。
「こ、これは……どういうわけ?」
「なぐさめているんです」
「え……」
とても怖い真顔で僕の頭を撫でてくれているの? なぜ?
「ええっと、アルゼレア。君、また何か勘違いしてたりする?」
「してません」
僕はもっと分からなくなった。
一安心かと思えば「うう……」と、うめき声が聞こえてくる。倒れたゼノバ教皇が気を失っていなかったからだった。それは悲しいような嬉しいような、ちょっと気持ちに整理は付けがたい。
「フォルクスさん、鍵とオソードです!」
「ああ、うん……そうだね!」
よたよたと歩くところは見せられない。横たわるゼノバ教皇にそそくさと近づいて、服のポケットをさぐり始める。その間にアルゼレアはさっきの紙を回収した。
「これだ」
ポケットをひっくり返して出てきたもの。床に転がり落ちて金属音が鳴る。その形は紛れもなく鍵だ。
「よかった。これで解決だね」
「はい。今すぐエシュに渡しましょう」
僕が鍵を拾ってすぐに一冊の本が差し出されていた。違和感があって僕はすぐに反応した。
「僕がエシュに?」
アルゼレアは頷いている。でもなんで?
「フォルクスさんが渡したとなると、兄もより分かってくれると思うんです」
「……あー。えっと」
僕の気が動転しているのはまだ続行中だった。危うく「何を?」と言いかけたくらいだ。とどまれたのは良かった。またアルゼレアと喧嘩になってしまう。
「わかった」
アルゼレアからオソードを受け取る。それから鍵も手のひらに握りしめる。気合いを入れて立ち上がるとまだちょっとフラつくけど。すぐ隣の部屋に行って渡してしまえばお仕舞いだ。
急ぐフリを装って部屋の中にある扉に寄りかかる。この先がエシュの間だと思って鍵穴を探した。しかしこの扉は鍵穴が無くて簡単に開けられる扉だった。
そこで足を踏み入れた部屋こそ、おそらくエリシュの書斎だったんだろう。小さな部屋には最低限の生活できる家具が揃えられていて、本棚にはたった五冊の本が並べられているだけだった。
書斎机の奥にはカーテンがあり、隙間からドアノブが見えている。僕は「そこか」とは心の中でだけ呟いて扉を見据えた。
ゆっくりと近付きつつ、引いていく血の気に負けじと強い気持ちを意識した。僕が内科専攻で苦手なものを克服していたならば、もっと格好を付けられたはずなのに。
「いや……。それだとアルゼレアと出会えていないか」
ははは、とひとりで笑っているうちに僕は扉の前に辿り着いていた。紺色のカーテンをめくると金庫のような扉がある。鍵穴もある。しかし鍵穴は二つ三つあるみたいに僕の視界では幾つもの輪郭が重なっていたりした。
「見え……ない……」
一旦出直すか、せめてこの手を水で洗ったり出来ないかな……。
ぐらっと揺れた視界。僕は瞬きをしたのだと思った。するとその後、僕を後ろから支える手が現れている。黒いローブが僕に触れていた。
「後は任せてほしい」
知らない声でそう聞こえた。
また夢なのか。全部魔法で幻だったのか。そこで、獣のような匂いが僕をかすめて敏感になり、これは夢じゃないとハッとした。
この成人の男を支えていたのはアルゼレアの華奢な腕じゃない。医院長やトリスさんでもなく、マーカスさんの車の匂いもしなかった。それにもっと大きな人物だ。上から下までローブで身を覆っていて、顔や手の肌も全て布地で隠しているようだった。
とにかく怪しいのは間違いないけど僕は彼を見たことがある。日照りの中をまるで岩が動いているかのように思った。あの時の不審な人物できっと合っているはずだ。
「あなたは誰ですか」
訊ねても彼は僕の方を見たりはしない。僕がドアノブに触れるのを阻止して、視線は扉の方を向いている。唸り声のように低い声で彼は答えた。「ケンと呼ばれている」と。
(((次話は明日17時に投稿します
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