失った男は国を発つ
よく晴れた朝。僕が暮らしたアパートの一室でドアベルが鳴る。
僕の支度はもう出来ていて、あとはここから見える朝日を眺めていただけだった。
「はーい。開けますー」
扉の向こうでは狭い階段に作業着姿が立っていた。
「この部屋のもの全部お願いします」
「分かりましたー!」
僕が通路を開けると、同じ服装の作業員が六人も部屋に入ってくる。
これであとは任せておくだけで良い。僕の手荷物はカバンひとつだけ。彼らの邪魔にならないよう階段を駆け降りていった。
一番下の階に降りると大家さんの部屋がある。
いつもの大家さんは階段を水浸しにする以外、部屋から出てくることはあまりなかった。
この日も別にいつもと同じだ。だから僕は扉を強めにノックする。ちなみにドアベルを鳴らすと酷く叱られる。
しかし大家さんは一向に出てこない。これもいつも通りだった。
だけど今日は少し時間に追われている。僕が乗る予定のフェリーが一日ひと便しか運行しないからだ。
腕時計を確認するとまだ時間には余裕があるけど、そんなに長居はしてられない。
僕が激しく扉を叩く間に、さっきの作業員が後ろを通り過ぎていた。手早く部屋の家具を一番下へと運んでいる。
「あっ!」と後ろで声がした。
振り返った時には地響きがして、どうやら作業員が手を滑らせて本棚が地面に落ちたみたいだ。
するとその物音で扉が開く。
「あ、おはようございます。あの、ずいぶん長くお世話に……」
言い終わる前に大家さんは僕の手から部屋の鍵を奪い取った。
無言で僕の横を行き過ぎて、さっき本棚が落ちた床板を睨みつけている。
そしてまた自分の部屋に戻っていくようだ。
「あ、あの」
パタリと扉は閉まって鍵をかける音まで響かせられた。
……まあ、大家さんは最初からそんな人か、と気にせずに僕は行くことにする。
最後の見納めにアパートを見上げてみれば、ひび割れの激しい古い建物だ。こんなところに数年間もよく過ごせたなと自分でも思う。
感傷に浸っているところに足音が近付いてきた。
「相変わらずだなぁ。あのババア」
「……ジャッジ」
この唯一の友人ともしばらくの別れだ。
全然悲しくは無い。僕がここで彼の名前を呼んだのも、もう会いたくなかったのに……という憂いの感情でだった。
「お前が来ると厄災しか無いんだけど」
「まあまあ、実は良い案件が入っててさ~。一緒に仕事しないかな~って」
やっぱり厄災だった。
「それは僕の転職が上手くいかないから誘ってるの? それとも僕の人生を変えた償い?」
「え? あー、まあどっちもって意味でっ」
考え無しにジャッジは即答した。
僕は少しの間、呆れてものを言えなくなってしまった。
「……聞いた僕が馬鹿だったよ。残念だけど僕はこれから実家に帰るんだ。新しい仕事は別の人に頼んでくれ」
これからフェリー乗り場へ急がなくっちゃならない。
わざわざ厄災の男と立ち話なんてしている暇は無いんだ。
「なんだよー。友達じゃなかったのかよー」
嘆きが後ろから聞こえてくる。
それを無視して、ずかずかと僕は前に歩いていた。だけども次第にアイツに散々苦労させられてきたことを思い出したら腹が立ってきた。
あるところでピタリと止まって左手の拳を震わせている。
今日こそ言ってやらなくちゃ。そんな強い気持ちでジャッジを振り返った。
「お前はっ……」
僕の目の前にあるのは今にも崩れそうなアパートだけだった。唯一の友人の姿はもうどこにも無い。
「子供みたいなことするなよ」
居なくなったジャッジがどこかに隠れているものだと思って、僕はその辺に言っている。しかし誰も居ないみたいだった。
空っ風だけが吹き抜けている。
僕はこの恨みをそこに置いていくつもりで、出ていくアパートを睨んでいた。
「うん?」
ちょうど作業員がアパート下に置いていったものは傘立てだった。僕はそこに見慣れないものが刺さっているのに目が止まる。
だけどすぐさま思い出が呼び起こされて「ああー」とひとりで声を出した。
リンゴちゃん……だったっけ。彼女がバスに忘れて行った傘だ。
急かすようにして時計台の鐘が時刻を知らせてくる。
腕時計を確認したら、もうそろそろ時間が無い。
「……まあいいか」
僕は急ぎ足でその場を去った。
バスを乗り継いで訪れたのはフェリー乗り場だ。新しめの施設で人も物もたくさん行き来する。
ここ最近では豪華客船が登場したそうだ。
それを僕がこの海辺で見つけたのではなくて、いま目を落としている旅行雑誌にそう記載されていた。
まあ、そのページは僕には無縁だと分かりきっている。だから早々にページをめくる。
「ご利用ありがとうございます。五番搭乗口に『アスタリカ・カナン港行き』の船が入ります。ご利用のお客様はチケットをお求め下さいませ」
僕はそのアナウンスに顔を上げていたけど、行き先が違うのでまた雑誌に顔を埋めた。ちょうど「アスタリカ帝国のオススメ旅コース」と載っていた。
太古の遺跡ナヴェール神殿は外せない。アスタリカ城と街の景観も絶景だ。
古い街並みがそのまま残る場所は人気でいくつも絵に描かれている。たしかに。写真で見てみると赤煉瓦と土壁の建物でおとぎ話みたいだ。
食事や買い物は南方のバザールで済ませると良いとある。宿は西部の街の方が交通が便利で人柄も良いらしい。
旅行するには絶好の場所だというのは旅行初心者の僕でもそう思った。
「ご利用ありがとうございます。六番搭乗口に『アスタリカ・クラウン港行き』の船が入ります。ご利用のお客様はチケットをお求め下さいませ」
アナウンスでまたアスタリカ行きの船が到着すると告げられた。
「……国内に幾つも港があるんだ。相当デカい国なんだろうな」
雑誌の地図では大きさまでは測れない。
僕はその地に行ったことが無いから少しくらいは憧れている。
ちょっと周りを見回してみれば、大抵の人は五番か六番の搭乗口に急いでいた。それは大荷物を持った家族もだし、身軽な装いのカップルもそうだ。
旅行雑誌片手にみんな嬉しそうな顔をしていると言うのに、僕だけポツンと浮いているような気分になる。
いや、実際たぶん浮いていたと思う。
僕は結局その雑誌を最後まで読み切ってからカバンの中にしまった。ペンも構えていたけど、何も書き込むことが無くて一緒に入れている。
当然だ。旅行雑誌に病院なんて載っている訳がない。みんな病気や怪我をすることなんて想定していないんだから。
「それに病院じゃもう働けないんだよなぁ……」
大学で苦労して習得した唯一の糧だった。それを失った僕は静かに実家で暮らすと決めている。
なのにどうして職探しをしているんだ。それは僕自身からも問いたい。
客船クルーと受付の人とでハンドベルを鳴らした。それは五番の船が出た合図だ。
待合場からも出港は目に見える。同時に六番の大きな客船も見ることができた。
豪華客船だったらちょっと見れてラッキーだったけど、僕の人生はそう上手くいかないから大型の普通の客船だった。
出港した船が海原へ出て消えていくのをぼーっと見守っていると、受付の札が手動で変えられた。
行き先を示すための札だった。ようやく僕の乗る船になったみたいだ。
チケットを購入してしばらく待つともっと小型の客船がやって来る。
しかしアナウンスは無い。それよりも、次に五番搭乗口に停泊するアスタリカ行きの船が先にアナウンスされていた。
だから自分で時刻を管理してゲートが開いたか確認しなくちゃならない。
ゲートではクルーが立っている
「アスタリカ行きではありませんか?」
「いいえ、違います」
「かしこまりました。ではチケットは乗車の際にお見せください」
クルーはそう言って小型船を手のひらで示した。
五番と六番のゲートは横並びにある。鎖のパーティションを挟んで同じ桟橋に二隻は停泊していた。
右側は大きな船だ。これから期待に胸を膨らませた乗船客で賑わっている。
左側は小型の船で、ざっと見ても乗客は三人程度。そして僕が桟橋に足を踏み入れたことで四人になった。
神様は僕に一体何を通告しているんだろう。お前は大きな船に乗れる器じゃないと笑っているんだろうか。そういう卑屈な思いを抱きながら、僕は小型船へと目指した。
(((次話は明日17時に投稿します
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