出鼻をくじかれそう
涼しい風が通る窓辺。レーモンド伯爵の数値をデータに書き起こしている。僕以外の学者さんも個人会話は挟まないで、コツコツと手だけを動かしていた。
やっぱり伯爵の肺には細菌感染が見られたようだ。そのためあらゆるところに悪い数値が出ている。本当に僕がもっと早くに診断できていればよかったのに。落ち込む僕の背中を誰かが叩いた。
「ちょっと外に出ないかい?」
医院長だった。
「はい。何でしょう?」
大学病院最上階のバルコニーに出て空模様を見てみれば、快晴の奥には低い雲が流れていた。今日も暑い一日になる。しかしアスタリカでは通り雨が多い。僕は親切心で医院長に雨になるかもしれないことを教えてあげた。
「アスタリカは慣れたみたいだね。もともと行き着く場所じゃなかったんだろう?」
「はい、確かに。実家に帰るつもりでした。どういう運命だか、ここに居残っています」
医院長は大きなお腹を揺さぶりながら高らかに笑っている。実態は笑えないくらいに大変だったわけなんだけどさ。
でも、指名手配になったり檻に入れられたり潜入したりとか、あんまり経験できない事だし。総合的に良い経験でよかったと思うよ。まるで通り雨のように去ってしまえばね。
「実は、良い感じの君にひとつ提案があるんだ」
「提案ですか。どんな?」
飾りの多いフェンスに医院長がもたれかかる。僕もその隣に立って、同じ景色を眺めた。
「内科の資格も取ってみないかい?」
「えっ、いや。でもそれは」
「レニーとトリスの助手として働きながら勉強をして、実習実績取得と試験に合格したら完了だ。簡単だろう?」
「それは言うのは簡単ですけど……」
僕が前向きになれない理由は二つ。ひとつは血液が苦手ということ。それからもうひとつは僕よりも医院長の方が分かっているはずだ。期待されているのは嬉しいけど僕はまだ踏ん切りがつけられたわけじゃない。
「若手で精神医の君が、最新の感染症について断言することは普通に考えて厳しかったよ。それにレーモンド伯爵は実際のところ肝臓もかなり疲れていた。フォルクス君の診断は間違いじゃないんだ。だから落ち込むことはない。これから邁進していけば良いだけだ」
「はい……」
医院長はたくさんの格言で僕を励ました。そんな有難いお言葉にひねくれて「持論ですか?」と問う後輩にも優しくて、知らない医学者の名前をあげていた。だけど僕は余計に若干後ろめたくなってしまう。
「勉強不足ですみません」
「ああ。そうだ。君は勉強不足なんだ」
医院長が眉を上げた。
「迷わない医者なんていないんだよ。だから君はうんと賢くなって、僕のような先輩先生と話せるようになりなさい。それから上手に頼れるようになることだ。それが一番の自信になるからね」
どんと自分のお腹を叩いて、かかって来なさいと医院長はおどけている。まさか僕が医院長より上に成り上がろうなんて思うはずがないのに。
でも、僕から笑みをこぼさせた医院長は本当にすごい人なんだと思った。
「そうですね。ありがとうございます」
「そうじゃないだろう?」
「え?」
もう一度医院長は自分のお腹を叩いた。ポカンとする僕には「パンチだ。パンチ」と、物欲しそうに的を示していた。えっ……僕に人を殴れと言っているのか。ましてや尊敬できる先生を。
「早くしなさい。医院長命令だよ」
「ええ……じゃあ。失礼して」
ジャッジを一度殴ろうとしたことがあるけど、その時の力の込めようとは全然違うよ。
それっ。と、軽く拳をプニプニのお腹に当ててみた。医院長は「うあああ!!」と叫んでから、映画のワンシーンのように倒れてしまった。実際にコンクリートタイルの上に転がっていた。周りに学者さんも居たから僕は相当恥ずかしかった。
「そうだ! 内精神科という新しい分野はどうだい?」
医院長が起き上がる途中で思いついたらしい。僕は背中に手を当ててサポートしながらその話を聞く。
「良いじゃないか。もともと精神的疾患は怪我や病気とは切って離せない分野だ。そうだ、そうだ。フォルクス君はそれになりなさい」
良い思いつきに熱くなれる医院長は素晴らしい。僕は逆に、想像のつかないものがあまり魅力的には感じないたちで……。内精神科というのも何だか言いにくくて好きじゃないし。
「まずは試験に合格してからです。それから考えます。……たぶん」
「よし。やる気になってくれたね」
そうと決まったらまずは採血の練習だと医院長は意気込む。僕の腕を強引に引っ張って館内へ引き返した。僕は絶対に嫌で嫌で。実習室に入るまで必死に抵抗した。
夕食の時間が過ぎていて、僕が自宅にいた時のことだ。予告もなくベルがなった。宅配便を届けに来る予定もなかったもので、大家さんかな? なんて思いながら扉を開ける。
しかしその来客とは、全く喜ばしい人間じゃなかった。人の家に訪ねて来るのに手土産も持ってこないし、通り雨に打たれて来たのか傘もささずにまあまあ濡れている。
「お邪魔します」の代わりなのか「腹へった〜」と言い出す。そんなマナーが皆無な人間はひとりしかいないだろう。ジャッジだった。
部屋に押し入ろうするから、待てよと制する。
「何の用? うちに寄り付かないでって言ったよね」
「そんなこと言うなよ。元友達だろ?」
僕の気の障ることを言い出すから扉を閉めた。僕だって忙しいんだ。するとジャッジは扉をガンガン叩きながら叫んでいる。
「鍵だよ! 鍵のこと思い出したんだ!!」
それを聞いたら僕は頭から全身が熱くなった。すぐに扉を開けてジャッジを転ばす勢いで部屋の中に引きずり込む。ジャッジは玄関で足を滑らせて横転しいる。
「大きな声で叫ぶな!」
「お前こそ声がでかいぞ」
ううっ。確かに扉のところで騒ぎ立てるのは良くないな。
タオルを渡してリビングに入ってもらうと、ジャッジはすぐに僕の机の上について感想を述べる。
「うわぁ。勉強なんてしてやんの」
大の大人が言うことじゃないだろ。勝手に参考書をめくったり、僕のノートを眺めて採点したりまでするのはやめてほしい。それにジャッジはそういう要らないことをやったっきり元に戻さない奴なんだ。本当にやめてほしい。
「で? 鍵のことを思い出したって?」
最速ソファーにごろりと横になったジャッジだったけど、そうなんだよ! と、飛び上がっている。コイツは自分から押しかけておいて、目的を早くも忘れてしまっていたのか。
ジャッジが失くしたという鍵の話だ。
主に自分で蒔いた種によってアスタリカ警察に追われていた、その時。彼を救ってくれた人がいたらしい。それは、たったひとつの鍵を持っていてさえくれればアスタリカ警察から逃してやるぞという話だったみたい。
そんなもの僕なら怪しくて仕方がなく、すぐに拒否してしまうところだけど、ジャッジは引き受けた。アスタリカ警察からは追われなくなったらしい。
しかしジャッジはその鍵を失くしてしまったから、えらく騒ぎ立てている。鍵とは一体何の鍵なのか。鍵を渡してきた人物が誰なのか。全て謎だから僕らも困っていた。
そもそも僕はジャッジの手助けをする義理なんて全くもってないんだけどさ。
「鍵のある場所を思い出したんだよ!」
「ええ! 本当!?」
よかった。これでもうジャッジと金輪際関わる理由がなくなる。ようやく厄災ときっぱりとお別れできるというわけだ。
「どこにあるの? ……っていうか、場所が分かったんなら探しに行きなよ」
喜んでいた僕だったけど。わざわざジャッジが僕を訪ねてきたということは……と、余計な察しがつき、喜んでもいられないかもしれないと構え気味になった。ジャッジはそこも分かっていて「まあまあ」と謎になだめる。
「エシュだ。エシュに行った時に落とした」
「エシュ? なんでお前がそんなところに行くんだ?」
「そんでリサの家でたぶん置いて来たんだな」
「リサ? なんでお前がリサの家に出入りするんだよ?」
謎は謎を呼ぶ。万年金欠のジャッジが国境を渡れるなんて思えないんだけど。それにリサに何の用があって……。
「そうなんだ。よかったね。リサの職場に手紙を出したら?」
しかしジャッジは、おいおいと言った。僕の肩に手をかけて身を寄せて来る。
「お前も一緒に行くだろう?」
「はあ? 行くわけないだろう?」
「なんでだよ。リサに会えるんだぜ?」
何を言っているんだこの男は。ひっついてくる奴を突き放したら、わざとらしく倒れていくけど負けないみたいだ。
「リサがお前に会いたがっているんだもん」
「それはない。その話は終わってあるんだ。僕にはアルゼレアがいるんだから。どんな理由であれ、誤解を生むようなことはしない」
僕の話はここまでだと告げるためにも、リビングでジャッジと向き合うのはやめて、ジャッジがメチャクチャにした机の上のものを直した。呆れても見損なってでも良いから帰ってくれと願いながら。
「分かってねえな。お前はさ。本当に初心ちゃんだ、お前は」
「煽られても意味ないからね」
「さてはお前、燃え上がるような恋愛をしたことがないんだな?」
「……」
参考書をめくって途中のページを探している。しかし、参考書は本ごとジャッジに取り上げられた。次にノートもだ。ペンも修正テープも。
「恋愛を熱くするのはピンチ、障害だろ。お前が娘っ子に一生お熱なのを誰が喜ぶっていうんだ。ばーか」
「……は? 何言ってんの? 全く分かんないんだけど」
「良いから俺に任せてみろよ。自分の殻を破りたいんだろ? 手伝ってやるって言ってんの」
そう言いながら僕の勉強セットを上下させた。僕は、この人が僕に何を伝えたいのかが本気で分からなくて戸惑った。
(((次話は明日17時に投稿します
Threads → kusakabe_natsuho
Instagram → kusakabe_natsuho