失業者と空っ風
吹き抜けの窓から光が全体を照らしていた。光はワックスを塗った琥珀色の床に跳ね返って眩しくて、そこを歩いていくブランド物の紐革靴に一層の高級感を与えている。
僕の革靴も並程度だけど、窓の明かりを受け取って白く跳ね返していた。でも、僕が他の人と同等かと言えばそうじゃない。明らかに劣っているだろうね。
待ち合いブースのベンチはほんのり暖かい。けれど母性のような安心感で包み込むには少し足りない温度だ。足元の小さな光にばかりに気を向けていた僕だった。そこにカウンターベルが気高い音を鳴らされる。
その音で僕はハッとなって顔を上げた。係の人は知らない名前を読み上げて、名前を呼ばれた男の人が僕の横をすり抜けて行く。
ミント系の香りだけを通り道に振りまいて、男の人は相談窓口の部屋へと消えて行った。彼は羽振りが良さそうだ。何か新しい事業でも始めるんだろう。
僕も負けていられないと続きの作業に取り掛かった。
「オクトン病院……ヴィンセント病院……ザガリー病院……」
膝の上に乗せた週刊誌を見ている。相次ぐテロによる負傷者は多数。情勢は安定期だと言うけれど、こういう暴動があって本当にそう言えるのかな。
記事の内容に感想を持ちつつ。でも僕がさっきからペンで丸を付けているのは、内容とは関係が無い箇所だ。だからか僕はこのベンチで声を掛けられた。
「銀行で病院をお探しで?」
柔らかい物言いに顔を上げてみるけど係の人では無かった。シルクハットを遊び心無しで被る紳士な男だ。
彼は僕のことをじっと観察していたのか、たまたま通りがかりに見つけたのか知らないが、何も悪そうな人には見えなくて会話に応じてみる。
「ええ、まあ。そろそろ転職しようかと考えていて」
しかし話し出してみて、その現れた男の胸元に金のバッチが輝いているのに気付いた。しまった……と内心思ってももう手遅れで、彼は僕の隣に座ってしまった。
「キャリアアップですね。それなら是非、私に良い病院を紹介させてください」
「いや、あの……」
微笑みを絶やさない男は僕から易々と週刊誌を取り上げる。僕が意図的に飛ばしていたページに戻されて「お借りします」と、ペンも取られてしまった。
「失礼ですが、ご結婚は?」
「えっ、まだ……」
病院名に丁寧な丸が付けられる。
「子供は好きですか? ご両親はご健在で? ご出身はこの国ですか?」
何かの参考にしているのか、僕にまつわる個人的な質問が続いた。そして彼が丸を加えた週刊誌はここで返される。ペンだけは後から丁寧に僕の手に持たせて男は席を立った。
「もしも心が辛くなったら気軽にお立ち寄りくださいね」
そう言って男が人混みの中に紛れて見えなくなる。返されたペンには彼の名刺が挟み込まれていた。
「やっぱりそうだよな」
エルサの民。トレードマークのトマトのポイントが金箔で擦られている。この国でも最近よく聞くようになった宗派だ。彼はその信徒だった。
宗派についてはちょうどその記事に載っている。丸のついた部分を人に見られないよう隠しながら僕は覗き込んだ。
「世界をゼロから始めよう」それが彼らの掲げるものを見た。しかしその行為がとても強引で危険だとは有名だ。
カウンターベルが鳴ってベンチで待っている何人かが顔を上げた。
「フォルクスさん。フォルクス・ティナーさん」
それが僕の名だと分かって、慌だたしく週刊誌を鞄の中に詰め込む。
僕が相談窓口に駆けつけると、あの時の羽振りの良さそうな男がちょうど話を終えた後でまたすれ違う。個室の席に掛けるも、ここでもミントの香りが席に染み付いていたみたいだ。
銀行から出れば、外は冬を運んでくる風が吹いている。数段の段差を足早に降りて出入口から離れたら、僕は受け取った小封筒を覗き込んだ。
一ヶ月過ごすには十分な紙幣が見える。だけど二ヶ月過ごすには心許ない量だと思う。
「まいったな……」
小封筒は胸元に仕舞って、自動車が流れる方向へ僕も歩いて行くことにする。腹ごしらえをするには丁度良い時間だった。
自動車が横切るたびに後ろから冷たい風に煽られる。今は薄いコートの襟を立てて寒さから凌げるけど、冬本番になるまでに厚手のコートくらい買えるまでにしておかないと……。
風がしのげる小道に入ったら今度は霧雨が頬をかすめていく。傘ぐらいは無くても生きてはいけるけど、ずぶ濡れの状態で面接には行けないしな……。
考え事で頭をいっぱいにしていたら、ギターの音が流れてきて意識が逸らされた。曲がり角のところで地べたに座った若者が弾いていたものだ。人だかりも少しだけど出来ていた。
若者の元へダブルスーツの中年男性がやって来る。その場所はビルの下だったから所有者が注意しに来たようにも見えた。
でも実際は、中年男性は若者があらかじめ用意し置いてあったトランペットを手に取り、プロ並の音色を吹き始めるのだった。弦楽器と管楽器の即興セッションは賑やかでクオリティーも高まる。人だかりも多く集まる。
音楽が一区切りすると中年男性はトランペットを地面に戻して去った。そしてその場のチップは弾んだようだった。
……僕もあれをすれば稼げるのかな。そんなことを、ろくに楽器の経験もないのに思って過ぎて行く。
「災難だったわね」
顔見知りのウェイトレスが注文カウンターで顔を合わせた途端に僕に言った。
「まだ何も言っていないのに」
「分かるわよ。顔に書いてあるじゃない」
割と人気のあるサンドイッチ店だ。だけど僕の後ろには珍しく誰も並んでいなかった。だから少しゆとりを持って会話をしている。
「再就職なんてそんな思い詰める程のこと? もっと手広く当たってみたら良いのに」
そう話す彼女は、この店で働き出してからそう日は長くない。明らかに僕の方が常連なはずなのに、ため息まじりで首を振られた。
「手広くって言ったって、僕がやれる事は狭いよ」
「もう。そうやって決めつけるところがダメなんだから」
すると彼女は急に何か思い付いて「そうだ!」と手のひらを合わせる。カウンターから前屈みで乗り出してくると僕に顔を寄せてきた。
「店長に話つけてあげよっか?」
吐息が混じる声で彼女が耳打ちした。途端に色々なことが詳細に考えられなくなってしまう。わけもわからずに僕は「えっ?」とだけ声を出していた。
しかしタイミング悪く店には集団客が訪れる。彼女も仕事の顔になって「順番にお並びくださーい」と明るく声を掛けていた。
それから僕の注文は取られずに、彼女は自力で何かを作り始めてしまっている。その間聞こえてくるのは後ろに並ぶ集団客の会話だ。
「あれが噂のウェイトレスさん」
「確かにめちゃくちゃ美人だ。デートして貰えるかな?」
僕にでは無く、きっと彼女に聞かせるためにわざと声量をあげて話している。
彼女も彼女でタチが悪い。自分が噂されていることが耳に届くと、僕の軽食を作る合間に後ろの男性客に色目を使って答えていた。たちまち集団客は舞い上がった。
「俺、声掛けてみよっと」
「あっ、ずるい。俺も俺も!」
そんなことをするから何人もの男性でこの店はいつも流行っているんだ。鼻を鳴らしている僕にも彼女は密かにウインクを投げてきた。
出来上がったものは紙袋の中に仕舞われていて、無条理に代金だけが請求されている。普通ならお客として多少怒っても良いところだろうけど、まあここは信頼があるから小封筒から二枚の紙幣を支払った。
領収書を仕舞ってから顔を上げるとカウンターの上の紙袋は二つになっていた。ウェイトレスが口パクで「どっちだ」と言い、意地悪く笑っている。
「また来てくださいねー!」
僕以外の誰にでも言っている言葉で店を出た。この後彼女はあの集団客の男性とデートをするんだろうか。気になってガラス窓から様子を見てみようかとも思ったけど、やっぱりやめておく。
それよりも今はこの紙袋の中身が大事だ。彼女が僕のために作ってくれたんだから。知らずに足取りは軽くて、胸の辺りも暖かかった。